驚きから始まる土曜日
いったい更なるご褒美とはなんだろうか。さっきは試合前だからといっておでこだったけど、終わってからならもしかしたら…… いけないいけない、これから試合があるんだからもっと集中しないとダメだ。
咲の家で数十分過ごした後学校へ向かったものの、それでもまだ早すぎたようで校門はまだしまっていた。今日は土曜日なので授業はないし、部活も基本的には休みだから当たり前だろう。
集合時間までまだ一時間以上ある。どこかで暇をつぶしてようかと考えたが、近所にはコンビニもないし、もちろんたい焼き屋も開いていない。
僕は校門を正面に見据えたままの体制でボールを投げる真似、いわゆるシャドウピッチングをした。二度三度と腕を上げては下ろしと繰り返していると体が温まってくる。
ピッチングの合間、何の気なしに一塁牽制のマネをしたその時、その先の曲がり角から予想もしていなかった人物が現れ、僕の目に飛び込んできた。
『アレは木戸と真弓先生じゃないか。
なんで一緒に来たんだ? しかもこんなに早く』
二人が角を曲がってこちらを向いた瞬間、一瞬足が止まったように見えた。僕は手を上げて存在を知らせるよう手を振った。
「なんだカズ、早いじゃねえか。
気合入れすぎて空回りするなよ?」
「何言ってんだよ、そんなわけないさ。
朝のランニング行かなかったから時間が余って仕方なかっただけだよ。
それよりお前はともかく真弓先生までこんな早く来るなんて驚きだよ」
「あ、ああ、まあな」
何となく木戸の歯切れが悪い。何か事情があるのだろうか。少し遅れて真弓先生が校門の前までやってきた。
「おはようございます。
最近はずっと早いですね。
お酒やめたんですか?」
「ちょっと吉田君、そんな言い方はないでしょ?
私だってやればできるのよ」
真弓先生はそう言いながら校門のセキュリティを切った。木戸と違っておかしな様子はなさそうだ。きっとさっきのは僕の気のせいだったのだろう。
そんなことより試合へ行く準備をしなくちゃいけない。僕と木戸は、真弓先生から鍵を受け取ってから用具室へ向かった。
◇◇◇
「今日はよろしくお願いします。
本大会前に胸を借りることができて光栄です。
顧問の岡田と申します」
「いえいえ、こちらこそ今日はよろしくお願いします。
私は監督の星町と申します。
顧問は昼過ぎに来ますので、後ほど改めてご挨拶させていただきますね」
矢実の監督と真弓先生が挨拶してからスケジュールの確認をしている。どうやら僕たちは第一球場を使わせてもらえるようだ。午前中に練習、昼休みを挟んで午後十三時から試合開始と言うことで話がまとまった。
矢実の生徒たちは、監督の指示で第二球場へ移動を始めている。追い出すみたいでなんだか悪いことをした気にもなるが、対面側に移動するだけなのでそれほど手間がかかることは無いだろう。
市民球場にも劣らない、というと大げさだが、野ざらしではなくきれいなベンチにネットで囲われている専用のブルペン、バッティングケージもすべて屋根付きだ。
「いつ来てもすげえ設備だよな。
ま、野球は選手がやるもんだからグラウンドの良し悪しで勝負が決まるわけじゃないけどよ」
木戸はそう言いながら着替えを始めた。
「ちょっと! せんぱい! いきなり脱がないでください!
後ろ向く時間くらいくださいよ!」
由布が慌てて目を伏せるように振り返った。それと同時に真弓先生がスコアブックで木戸の背中をはたく。
「ちょっとアンタ! どこでもいきなり脱ぐんじゃないの!
丸山君も待ちなさい!」
思ったよりも大きい由布と真弓先生の声に、矢実の監督があっけにとられたようにこちらを見ていた。それに気が付いた真弓先生は笑顔を作って頭を下げる。
「ちょっとあんまり恥かかせないでちょうだい。
ベンチの後ろにカーテンがあるんだから使わせてもらいなさいよ」
「いやでも面倒じゃん?
俺は別に恥ずかしくねえから。
見ろよこの肉体美」
そう言うと木戸はスラパン一丁でポーズを取った。
「何言ってんだ木戸。
俺だって朝からパンプアップしてきたから調子いいんだぜ?」
丸山が居ても立っても居られない様子でジャージを脱ぎ捨てた。それを見ながら頭を抱えている真弓先生を尻目に、掛川由布はベンチの奥へ行きカーテンを引いた。
「真弓ちゃん、こいつらに何言っても無駄だからあきらめなよ。
マネージャーと一緒にカーテンの後ろにいた方が精神衛生上好ましいと思うよ?」
チビベンの意見はもっともで僕も同意見だ。結局、更衣スペースに選手以外が入るという、練習試合とはいえとっても頭の悪い滑り出しとなった、
そんなことをしながら着替えが終わり、木戸の指示によって各自に練習メニューが割り当てられる。僕はまずブルペンでピッチング練習をすることになった。
使い込まれ方がいつもと違うマウンドを見ると、ここが自分たちのホームではなくアウェイなんだということがよくわかる。踏み込みの長さを見ると長身のピッチャーなのか、踏み込みの深いタイプなのかどちらかがいるようだ。
「マウンド、投げづらいのか?
随分気にしてるじゃねえか」
「いや、そう言うわけじゃないよ。
結構踏み込んで投げてくるピッチャーがいそうだなって考えてただけさ」
「まあ調子は悪くなさそうだ。
肩が温まったんならアレ投げてくれよ」
木戸が要求しているのはこの間、喧嘩の原因になったボールだ。その後、普段の練習でも少しずつ投げるようにしてからまだ数日、未だコントロールは完璧じゃない。
サインは低め、右バッターの膝元だ。僕はコントロールを重視しつつも思い切りよく投げ込んだ。ボールはベースの角を叩くようにバウンドしたが、木戸はそれをなんなく受け止める。
「やっぱりまだ右バッターへは難しいよ。
低めへの制球がうまく行かなくて悩んでるんだ」
「いや、これはこれで使いようがあるぜ。
ま、後は本番でってとこかな」
「次はハカセにかわってくれ。
カズは一年と一緒にバッティングで、二、三年生は守備練な。
チビベンはこっちきてハカセのピッチング見ててくれ」
木戸の指示でみんなの分担が入れ替わっていく。こういうテキパキとした指示が飛ぶといかにも主将らしいが、さっきみたいにいきなり脱ぎだしたり頓珍漢な会話をしたりするのが同一人物とは信じがたい。
それほど野球への情熱が深いということで、それだけに僕とまだまだ野球がしたいというその言葉に嘘やお世辞は含まれていないということがわかる。僕もそれに応えたい、今は素直にそう思っている。
「カズ、どうした?
さっさと次へ向かえよ」
「おう、今日は勝とうぜ!」
僕の言葉に木戸がガッツポーズで返事を返してきた。
◇◇◇
一通りの練習が終わったのは十二時を少し回ったところだった。木戸は担いできたおかずの容器を次々に広げみんなへ勧める。
さすがに一年生たちは遠慮がちだが、もう慣れている僕たちは持って来たおにぎりなどを片手に、ごっさん亭特製のおかずにむさぼりついていた。
「こら、一年にも回してやれよ。
なんといっても将来のお客になるかもしれないんだから大事にしないとな」
木戸は冗談だか本気だかわからないことを言う。戸惑ってる一年の中では肝の据わっているほうなオノケンが、中学からの先輩である丸山に促されて食べ始めた。
「ウマイっす! 主将の家は定食屋さんですか?
このはさみ揚げ好物になりそうですよ」
「うちは居酒屋なんだよ。
安くてボリューム満点なごっさん亭をよろしく頼むぜ」
オノケンが食べ始めたのを見て安心したのか、他の一年部員もおかずに手を伸ばし始めた。自分たちの弁当からもおかずを分けはじめ、なんだかピクニックにでも来ているような騒ぎだ。
かたや矢島実業の生徒たちは同じようにベンチで昼飯を食べてはいるが、全員同じ方向を向いて黙々と食べていて、なんとなくつまらなそうに見えた。
おかずがあらかたなくなってきた頃、矢実の生徒に案内されてナナコーの制服を着た女子が数名、こちらへ向かってくる。
そのうちの一人は神戸園子だった。背の高い方はチビベンの彼女か。他の二人はまったく知らない女子だったが、どちらかの友達だろう。
「よう、パン子、カズの応援に来たのか?
もちろん差し入れもあるよな?」
たった今昼飯としてあんなにたくさん食べたばかりだというのに、木戸はまだ食べることを考えているのか!? 間もなく試合だって言うのに苦しくて動けなくなってしまったらどうするつもりなんだろう。
「木戸君たらそういうこと言わないの。
みんなのこと応援してるからね」
そう言ってパンの入った袋を差し出した。木戸は礼を言ってからそれを受け取ってベンチの角にかける。
「これでおやつも確保できたな。
それじゃ今日のスタメンを発表するぜ」
一番から九番までをそらで呼ぶと、一年を中心にざわめきが起きた。スタメンに一年生が二人入っているからもあるだろう。しかし一番のサプライズは九番、ピッチャー佐戸部だったのだろう。
ハカセはいまさらその重圧を感じているのか、周囲に聞こえる位大きな音を立てて生唾を飲み込んだ。