兎追いし夜の道
まさかこんなところで山尻康子に会うなんて思ってもみなかった。あの時の事を思い出すと今でも胸の鼓動が早くなる。
あれは中三の文化祭での出来事だった。最後の大会が終わって部活を引退した僕たち元野球部員たちが出した模擬店へ、康子をはじめとする三年生女子が数人連なってやってきた時のことだ。
近所の小学生を相手にするつもりで作った的当てゲームに挑戦した女子生徒たちは、当然のように散々な結果だったわけだが、なぜか運動部でもない康子だけが高得点を取ったのだ。
きれいなフォームでボールを投げ次々に的へ命中させていく姿は、明らかに野球経験者だった。僕はその投球フォームに見惚れて視線が釘付けになっていた。
「おいカズ、山尻のこと見つめすぎじゃねえの?
まさかお前、あいつのこと好きなのか?」
突然誰かから冷やかしの声が飛んだ。僕は振り返りながら慌てて否定したが、調子に乗った他の部員たちも一緒になって騒ぎ始めてしまった。
それが原因なのかわからないが、順調だった康子の制球が狂い始め、ミスを連発したまま規定の十二球を投げ終わった。
それでもストライクゾーンを九つの板に分けた的の内、八枚までは見事に抜いており、残ったのはアウトハイにある一番の的だけだ。
となると今度は女子たちが騒ぎ出す。
「あー康子惜しかったね。
外野が騒いでなければ満点取れたかもしれないのに!」
「そうよ、あんたたちが騒いでるから失敗しちゃったのよ!
罰としてカズ君連れて行っちゃうからね」
女子たちが騒ぎ立てながらなぜか僕を連れ出していく。そのまま連行されるようにグラウンドを後にし後者の中へ入っていった。
「じゃああたしらは別のとこ行くね」
「がんばって! 康子!」
一緒にいた女子たちは康子へかわるがわる声をかけてから去っていった。残されたのは康子と僕の二人だ。これはいったいどういうことなんだろうか。
康子とは三年生になって初めて一緒のクラスになったくらいで、今まで話したこともない。いつも数人の生徒と一緒にいるが、どちらかというとおとなしく静かでまじめな生徒という印象だ。
いきなり二人きりになっても何を話せばいいのか、これからそうすればいいのかわからない。これは困ったことになったと頭を掻いたその時、康子が口を開いた。
「吉田君・・・・・・ 急に連れ出されて驚いたよね?
でも美佳たちが私のためにってやってくれたことだから許してね」
もっとか細い声でしゃべるのかと思ってたけど、康子の口から発せられたのは意外にも力強い声だった。
「う、うん、市原さんに腕を掴まれて引っ張られたときはびっくりしたよ。
そのくせ自分はどっか行っちゃうしさ、いったいこれはどういうことなのさ」
「実は吉田君に見てもらいたいものがあるの。
一緒に来てくれないかな?」
「それは別にいいけど…… 見てもらいたいってどんなもの?」
「さあ、なんでしょう?
とにかく一緒に来てよ、ね?」
なにかを見に行くだけならこんな強引な真似をしなくてもいいのに。そんなことを考えながら僕は康子に促されるまま廊下を歩いていった。
◇◇◇
「せんぱい! せんぱい? 聞こえてます?」
おっと、考え事をしてたら亜美の事がすっかり頭から抜け落ちていた。
「考え事ですか? さっきの山尻さんって人のことですか?
あの人はせんぱいのモトカノとかなんですか?」
亜美がまるで地下からうねり出てくるマグマのように、湧き上がる感情を隠さず僕へぶつけてきた。これは困ったことになった。
「いや、別に彼女だったとかじゃないよ。
中学三年の時のクラスメートってだけさ」
「それにしてはなんだかおかしな空気でした。
あの山尻さんって人、絶対にせんぱいに気がありますね……」
その指摘に僕は何も言い返せなかったが、かといって説明する必要はないとも感じていた。すると亜美は何やら考えこむように黙りこくってしまった。
黙ったままの二人が夜の住宅街を歩いていく。しばらくすると亜美が白いマンションの前で立ち止った。
「ここでもう平気です。
このマンションの二〇二号室が私の家なので。
今日はありがとうございました」
「ああ、女の子一人で夜の散歩は危ないからやめた方がいいよ。
毎日朝晩行ってるの?」
「いいえ、いつもは朝と夕方なんですけど、今日は遅くなってしまって……
でもそのおかげでせんぱいと会えてうれしいです」
亜美は喜んでいるようだが、その表情は不敵な笑みを浮かべているように見える。いや、僕が亜美をそういう目で見ているせいかもしれない。
「せんぱいは私のこと嫌っているのかもしれませんけど、それでもいいんです……
それでも、それでもずっと応援してますから!」
パーカーのフード越しに僕の方を見上げた亜美の瞳はやけにキラキラと輝いている。普通ならかわいいと感じてもおかしくないが、女子にしては低い声と目深にかぶったフードによって、やや不気味な印象になってしまうのかもしれない。
すると突然亜美が僕にしがみついた。手に持ったリードが犬を引っ張ってしまったが、そんなのお構いなしな様子だ。
「今はせんぱいが私を見てくれなくてもいいんです、我慢します。
でもいつかきっと…… そのためには……」
胸の辺りに亜美の頭が密着しているため、心臓の鼓動が早くなってしまっているのが伝わっているかもしれない。僕は思わずゴクリとつばを飲み込んだ。「そのためには」の続きが気になるが亜美はそのまま黙り込んでしまった。
「今日は本当にすいませんでした。
おやすみなさい。
行くよ、エース!」
ほんの数十秒で僕から離れた亜美は、ペコリと頭を下げてからマンションの玄関へ向かっていった。そう言えば初めて知ったけど、亜美の飼い犬はエースという名前らしい。名前の由来ってまさか……
頭の中が考えることいっぱいで溢れてしまいそうだが、とりあえず今は早く帰らないといけない。軽いランニングのはずだったのに随分と時間を食ってしまった。
マンションを少し離れてからスマートフォンを取り出すと、着信済みのメールとメッセージがさっきより増えているのが真っ先に目に入る。
とりあえず母さんへは、中学の友達とばったり会って話し込んでしまったとメッセージを送った。さてと、問題は二通のメールだ。送信者を見るだけで心に針が刺さったような感覚を覚える。
初めのメールはごく簡単なもので、明日の朝、矢島へ向かう前に咲の家へ寄るように、とのことだった。問題はもう一通で、最初のメールとは違って感情的と言えばいいのか、おそらく怒っている、次のような文言だった。
『返事をもらえない私は何番目の兎かしら?』
そう言われても…… 僕は別に何匹ものうさぎを追いかけたりしてないつもりだ。さっきだって亜美にあったのは偶然だし、康子にあったのなんて偶然どころか奇跡みたいなものだろう。
しかしまただ。ついさっき起こった出来事を咲が知るはずはない。それなのにこうやってすべてを見通したようなことを言ってくるのはどういうからくりなんだろう。
やっぱり本当に僕の考えてることや身に降りかかっていることがわかるのだろうか。疑えばまたけんかになってしまうかもしれないし、僕はもう疑わないと誓いはしたものの、この不思議な現象の謎を知りたいと思う気持ちはそう簡単に拭い去れるものではない。
とりあえず今は適当な文言が思い浮かばないまま、ただひたすら帰り道を走っているが返事はしておいた方がいいかもしれない。
僕は足を止めてメールを打った。
『僕は兎を追ったりしていない。 ただ一人を大切にするだけだ』
送信した後になってちょっとクサかったかもと思ったけど、咲が送ってきた文に対する返信なのでこのくらいひねってちょうどいいだろう。
ほんの少し待っていると咲からの返信が来た。
『早めに寝なさいよ。 明朝待ってるわ』
メールの文章だけでは相手の気持ちはわかりにくいものだが、僕には咲が笑いながら送ってきているのがわかるような気がする。これなら明日の朝会った時に何の問題もないだろう。
僕は笑みを浮かべながらポケットへスマートフォンを突っ込み、家に向かってまた全力で走り出した。