絵本が紡ぐ関係
調子は良くも悪くもないままに朝練を滞りなく終えた僕は、今朝咲とひと悶着起こしたことを思い返していた。
別に咲の言っていることを疑ったり否定したりしたかったわけじゃなく、いつも言いようにあしらわれているので少しくらい言いかけしてみたかっただけなのだ。それなのにあんなに怒るなんて……
いや、怒ったというよりは幻滅したような表情に思えて、それはそれで、余計精神的ダメージが大きいように感じる。
「蓮根さん、あ、咲、今ちょっといいかしら?」
背後から小町の声が聞こえた。例のボランティアの件だろう。
「あら小町、さっき渡した分、どこか気になるところあって?
絵本だからって簡単にしすぎたかしら」
「ううん、そうじゃないの。
英訳のチェックはすごく助かったわ。
でも知らない言葉も多くて発音に不安があるのよ」
「そうね、練習はした方がいいかもしれないわ。
お昼にでもお付き合いするわよ」
「ありがとう! ホント助かるわ」
背後からはそんな会話が聞こえている。咲と小町はすっかり仲良くなっていた。と言うより一人でいるのが多いもの同士気が合うのかもしれない。
だが、学校外では何人かのグループで繁華街をうろついているという噂があることを僕は忘れてはいない。咲はまだそんなこと知らないかもしれないし、注意が必要だと考えていた。
僕が聞いてないふりをしながら黒板を見つめていると真弓先生が入ってきた。ようやくホームルームの時間だ。朝から考え事が多いせいか時間の流れが遅く感じて仕方ない。
特別な連絡事項はなく、真弓先生はすぐに出ていった。一限開始までにまだ少し時間があった。僕は机の中から教科書とノートを取り出して机の上に置きその上に突っ伏した。
とにかくもう考えすぎて疲れてしまった。ほんの少しだけ、授業が始まる直前まで目を閉じて休憩しよう。そう思っただけなのに次に目が開いた時には昼休みになっていた。
◇◇◇
「今日は珍しく生姜焼きなのか。
カズはシャケ弁しか食わねえと思ってたけどそんなことないんだな」
隣で大盛りハンバーグ弁当と追加ライスを並べた丸山が話しかけてきた。
「たまにはね、家でもシャケだったりしてちょっと続いたからさ。
それより丸山こそ土曜の練習試合の備えて少しは絞った方がいいんじゃないか?」
「なーに言ってんだ。
今日の練習できっちり動いて昼の分は全部おしまいさ。
夜はこれの倍は食ってるからな」
「マルマンは身体がデカいだけで、別に太ってるわけじゃないしいいんじゃねえの?
俺も夜はかなり食うけどちっとも太らないしよ」
木戸が割って入って来た。確かに現在の野球部員で太っている部員はほぼいない。どちらかというと痩せている面子ばかりだ。
唯一の例外が丸山の後輩である小野健一くらいで、ヤツはちょっとぽっちゃりしている。まあこれから夏に向けての練習で絞られてくるんだろう。
「あれ? そう言えば木戸が弁当食ってるのも珍しいな。
今日は早弁じゃなかったのかよ」
「まあな、朝パン子が差し入れてくれたパンを食ってたっぷり英気を養ったからよ。
弁当の命が昼まで伸びることになったってわけだ」
「今日は売れ残りが二個しかなかったから木戸君に全部食べられてしまったわ。
みんなごめんね」
「園子が謝ることじゃねえよ。
なんでもかんでも食っちまう木戸が悪いんだ」
丸山の言う通りだ。とはいってもあれだけ食べてさらにパンも食べるつもりだったのか。まったくすごい食欲バカたちだ。
そしてこの口ぶりだとどうやら木戸も午前中は寝ていたようだ。
「でも今日は真弓先生の授業があっただろ?
良く寝ていられたな」
「真弓ちゃんはテレビ局との打ち合わせがあるからって、今日の英語は自習だったらしいわ。
おかげで体力万全よ」
木戸は全く悪びれずに熟睡したことを誇らしげに語っている。同じく午前中寝ていた僕は、ほんの少しだけだけど罪悪感を感じているというのに。
ハカセは部活に来るけんみんテレビの事が気になって仕方ないらしく、テレビ移りがどうとかみっともない練習にならないよう注意しようとか言っているが、木戸はそれを笑い飛ばしながら、いつもと同じことやるだけだと返答していた。
確かに色々と考えすぎる必要はなくいつもと同じことをやればいい。ただし僕の場合は、咲に朝言われた一言が気になって仕方ない。
恥をかくことになるなんて言われたらどうしても気になってしまうが、その真意がわからずにもやもやする。このままじゃ練習に身が入らないので何とか気持ちを切り替えたいところだ。
結局昼休みはバカ話をして終わりとなった。それぞれが自分のクラスへ戻っていき、僕も自分の教室へのドアを開けた。
教室に入った僕の目に真っ先に入ったのは咲と小町だった。どうやら小町の席で絵本読みの練習をしているらしい。
しかし、この二人が並んでいるとなんだか近寄りがたいオーラのようなものを感じる。咲は人形みたいなかわいらしさだけど冷たい雰囲気があるし、小町は小町で、大人びていて美人だけどどこか高圧的な雰囲気がある。
僕は思わず一歩引いてから後ろをそろそろと通り抜けようとした。すると思いがけない一言が僕をその場にとどまらせる。
「カズ君、ちょうどいいところに来たわね。
小町が絵本を読むからここで聞いてあげてよ」
「ちょっと咲、なんで吉田カズなんて呼び止めるの!?
観客なんて要らないわよ」
「私以外がいても同じように発音できるか確認したくない?
いやなら無理にとは言わないわ」
どう考えてもおかしい。僕の意思は確認さえされず、この二人の意見にしたがって僕の行動を決められてしまうのか?
かと言って興味がないわけでもなかった。なんといっても咲と小町の関係が気になってしまうのだ。
「僕はどっちでもいいけど早く決めないと授業開始に間に合わないよ?
大体僕が聞いてもわからないから意味ないんじゃないのかな」
「うるさい! 吉田カズの意見は聞いてない!
読むわよ! 読めばいいんでしょ!」
なぜだかわからないが小町は不機嫌になったのか怒ったのか、興奮気味で意地になっているようだ。女子のこういった感情の起伏が僕は苦手だった。
しかし言われるがままに隣の席から椅子を拝借し、小町の方を向いて座った。小町は絵本を手に持ち一ページ目を開いた。
目の前に開かれた絵本はイソップ童話の「金の斧」だ。本来日本語が描いてある個所には英文の紙を張り付けてあり、それをゆっくりと読み始める。
その小町の姿を見て僕は驚いてしまった。絵本をゆっくりと呼んでいるその表情はとても優しくて、普段僕や木戸を早口で責めたてているのとは全く異なるものだ。
そしてもう一つ、その絵本の内容は誰でも知っている物だったからか、読んでいる英語の文が何となくだけど頭に入ってくることだった。もしかしてこれは、咲に教えてもらっている英語が多少は身についているということなのか。
しかし残念ながら、絵本を最後まで読み終わる前に始業ベルが中断を促す。
「あら、時間切れね。
すごく良くなってるわね、小町。
これならきっと心配ないわ」
「そうかな? でもそう言ってくれると一安心よ。
なぜかわからないけど咲が言うことなら本当なんだなって思えるの」
「うふふ、大げさね。
さあ授業の準備するわ。
カズ君も少しくらい感想言ってあげたら?」
「えっ!? そ。そうだなあ……
最後まで聞けなかったのが残念だったかな」
唐突に咲が話を振ってきたおかげでおかしなことを言ってしまった。こんなの全然感想になってないと小町は怒り出すに違いない。
怒鳴り声に備えながら上目遣いでおそるおそる小町を見ると、なぜか顔を赤くして恥ずかしそうにしている見慣れぬ表情の小町がいる。
いったいどうしたことなのか、絶対怒鳴ってくると思っていた僕は拍子抜けし、その隙に自分の席へ戻った。
教師が教室へ入ってくるとほぼ同時に、咲が僕の真後ろの席へ戻ってきた音が聞こえる。なんであそこで呼び止めて僕に絵本の朗読を聞かせたのか、真意はわからないがもしかしたら僕の習熟具合を確かめるためだったのかもしれない。
しかしそれを確認することができないまま授業は始まり、僕はそれに合わせてしばしの休息を取ることとなった。




