変わってしまったシャケ弁当
ホームルームが終わって授業が進み、いつの間にか昼休みになっていた。今日は寝ていないはずなのに時間の流れが早い。そして相変わらず頭の中には勉強の事は入ってきていない。
今日は珍しく木戸の弁当が昼まで生き残っていたらしいので、僕と丸山だけで購買へ行き弁当を買っていつもの場所へ向かった。
フリースペースはすでに人でごった返していたが、ほぼ石は固定のようなものなので座るところがないということは無い。しかし面子は多少違っていた。
チビベンは彼女と一緒に昼を食べることにしたのでここにはいない。代わりと言うわけではないが、神戸園子と、そして…… 掛川由布が満面の笑みで僕を待ち構えていた。
しかしそれよりも久しぶりに見た顔、河藤三郎がようやく退院して通学してきていたことが嬉しかった。が、盲腸だったはずなのに三角巾で腕を釣っているのはなぜなんだ?
「カワ退院おめでとう、久しぶりだな。
つーかその腕どうしたんだよ」
僕が訊ねるともうすでに何度も説明してうんざりしていたのだろう。だるそうに説明してくれる。
「いやな、盲腸で病院へ行くときに階段から落ちそうになってよ。
手すりにつかまった時にひねったらしくて靭帯痛めちまったんだよ」
「おいおいまじかよ。
利き腕だからボールは投げられそうにないか。
じゃあ練習はまだ不参加か?」
「いや、ランニングくらいはしないと運動不足だからな。
軽くになるけど参加はするぜ。
夏までにはバットも振れるって言われてるから心配ないさ」
「そうか、あまり無理しないようにな。
しっかり治しとかないと靭帯は癖になるからね」
靭帯損傷と言えば江夏さんのことが頭に浮かぶ。それと同時に土曜日にあった出来事と野林監督のことも思い出す。そういや野林監督は江夏さんと知り合いだと言っていたな。
そのうち挨拶に来るとも言ってだけど、まさか学校へは来ないだろう。なんといってもあの日は咲と秘密のデートだったんだから、周囲にばれると色々とヤバい。
そんなことを知ってか知らずか由布が弁当をほおばりながらしゃべりだした。
「土曜日の矢島市民球場の試合のこと知ってます?
チーターズとブレイカーズの一軍公式戦ですけど、試合前のファンサービスで大事件があったらしいんですよ」
なんで知ってるんだ!? らしいと言っているので見に行ってたわけではなさそうだが、もう由布が知っているなんて驚きだ。
「ああ、ファンサービスの対決でプロ選手にガチ勝負挑んだ少年ってやつね。
SNSでかなり広まってるよな」
さすがハカセはこういうことに耳が早い。これはばれるのも時間の問題かもしれない。
「へー、そんなことあったのかよ。
でもあれってわざと打ち取られるもんだろ?」
「それがそうでもないらしいですよ。
ブレイカーズの一軍コーチ経由で父が聞いてきたことを、昨日メールで教えてもらっただけなんでさわりしか知りませんけど、百五十キロを超えるストレートを投げてたって言ってました」
「まじかよ!
カズより速いんじゃね?
そんなのがどっかの高校にいるなら対決前に知っておきたいもんだな」
「でも私、県内の中高はここ数年で大体見て回りましたけど、そんな投手いませんでしたよ。
他県からスカウトで入った矢実か松白の選手かもしれませんね」
矢実というのは矢島実業という私立高校、松白は帝端豆大学付属高校で、どちらも全国クラスの強豪校である。その強豪校の常として、有望な中学生をスカウトで入学させて戦力を上げているのだ。
そんなこんなで由布と木戸が夢中になって話し込んでいる。聞いている僕はドキドキするものの、由布に話しかけられないで済むのは正直喜ばしいことだ。
「でも今のカズなら百五十出てても不思議じゃないけどな。
おい、その噂になってるのってお前じゃないのか?」
なんで丸山は余計なことを言うんだ。嘘はつきたくないがここはどうしても知られちゃならない。僕は完全に否定をした。するとカワがいいところで割って入ってくれた。
「最近のカズは見てないけどさ、いくらなんでもプロとガチ勝負は無理だろ。
そんな甘い世界じゃないと思うぜ」
「そうだよな。
いくらカズでも通用するわけないか。
チケットも当日買えるもんでもないし、別人だろうな」
どうやら話はこれで治まりそうだが、こうやって否定されまくるのは複雑な気分だ。実際には僕が宮崎選手をきっちり抑えたというのに。
「ところでさ、その健康的な声のでかい女子はだれ?
見ない顔だけど一年生なのか?」
「ああ、カワにはまだ紹介してなかったな。
この子は新しく入ったマネージャーでカズの嫁候補だ」
木戸のやつは何でこう余計なことを言うのかね。というか野球部の連中はいつも一言二言多いのだ。
「嫁って。
やっぱモテるやつは違うな」
木戸とカワがケラケラ笑っている。カワはどちらかというと丸山と同類でいかつい雰囲気なのが災いしてか女子受けは良くないらしい。
その笑い声を割って入るように由布の大声がフリースペース広範囲に響く。
「掛川由布です!
河藤先輩、よろしくお願いします!
去年の予選で打ったライト線への走者一掃二塁打は見事でした!」
「へ? なんでそんなこと知ってるの?」
「ナナコーの去年の試合は全部チェック済みですから!
三年生が少なくなった今年は守備を頑張ってレギュラーかなと思っていたんですけど、怪我してしまって残念です」
「いや、まあ俺は守備好きじゃねえし、バッティングだけやってても許される今の立ち位置が気に入ってんだよ。
もちろん怪我が治ったら守備練習はきちんとやるけどな」
「おう、そうだな。
今年の夏は長丁場になりそうだからよ。
打つだけ、守るだけ、じゃ乗り切れねえ」
木戸ははっきりと言わなかったが二回戦や三回戦で負けるなんてことを考えてはいない様子だ。そしてそれはもちろん僕も同じことだった。
「木戸、主将になったからか知らんが大きく出たなあ。
その勝気なところが俺にはあってんだ」
「カワはまだ見てないからただのビッグマウスに聞こえるかもしれねえけどよ?
ここ最近のカズはやべえんだよ。
俺もマルマンも手が出ないくらいさ。
しかもこいつ、俺には手を抜いてるんだぜ?」
おっと、金曜の件は忘れてくれたと思ってたけど、まだ気にしているようだ。そりゃ僕だって右バッターにも投げたいけど、今誰かを怪我させるわけにはいかない。もっとコントロールに自信をつけないといけない。
僕はそんな会話を聞きながら買ってきた弁当を食べていた。しかし、今までは毎日のように食べても不満の無かったシャケ弁当は、咲が出してくれた料理を知った今、とても貧相な味に感じていた。
◇◇◇
午後の授業がすべて終わりいよいよ部活の時間がやってきた。今日は一年生もいるのでいつも通りの練習ができるはずだ。そう言えば、結局大勢見学に来ていた一年生だったが、早々に入部届けを出した五人のみが正式入部になっただけで選手層の薄さはぬぐえない。
「木戸、そういや朝真弓ちゃんが呼び出してたのは何の件だった?
シャワー室の出入りでまた叱られたのか?」
チビベンがふざけながら木戸へ訊ねる。すると木戸は笑いながら答えた。
「ちげーよ。
今日からしばらくの間、美術部の見学があるから防球ネットをしっかり立てるようにってさ。
それと立ち入り制限しっかりやって事故の無いようにしろってこと」
「なんだそんなことか。
じゃあいつもとそう変わらないな」
「ま、油断しないよういつも通りしっかりやれってことだろ。
ミタニーも真弓ちゃんもつきっきりってわけにはいかないだろうからな」
いつも通り、か。そう言えば美術部のことをすっかり忘れていたけど、先週言われていたデッサンは今日からだった。
美術部が来るということは若菜亜美も来るということか。いや、むしろ彼女が野球部を希望したと言っていたのだから来るに決まっている。由布と悶着を起こさなけりゃいいんだけど、どうも亜美は由布を嫌っているように思えたので心配である。
「とりあえず外野は立ち入り禁止で、バックネット裏と内野ベンチ後ろまでだな。
一年、誰か準備倉庫からガラガラ持ってきてくれ」
「主将、ガラガラってなんですか?
あと準備倉庫がどこかわかりません」
木戸の指示を受けたはいいが、キョロキョロと見合っていた一年生の中から倉片が声を上げた。
「なんだ知らないのか。
じゃあ一年連れて誰か教えてやってくれよ」
「じゃあ俺が行ってくるわ。
あと、ガラガラじゃなくてライン引きな」
カワが木戸に突っ込みを入れると木戸はこまけえこたいいんだと言い返した。やはりカワがいると部活の雰囲気が明るくなる。
腕を三角巾で吊り、上は制服のワイシャツのまま下だけジャージを履いた姿はなんとも言えないおかしな恰好だが、そんな状態にもかかわらず練習に参加するカワはさすがだ。
そのカワが一年生を従えてゾロゾロと準備倉庫へ歩いていった。その間にこっちは防球ネットを置いていく。戻ってきたカワが一年生に指示を出して美術部見学用のラインを引いて準備完了だ。
「おう、丸山に木戸、他の部員も今日からよろしく頼むよ。
うちの部員たちは野球知ってるわけじゃないから変なこと言うかもしれんが、優しく教えてやってくれ」
「なにいってんの。
別に野球部に入部するわけじゃないから知らなくてもいいじゃん。
かといって邪険にすることはないから安心して任せてくれよ」
「さすが主将だな。
また後で様子見に来るわ」
美術部員を六人引き連れてやってきた三谷先生は、木戸と二言三言言葉を交わしてから去って行った。木戸と丸山は美術部に出入りしているらしいので、二、三年生部員とは知り合いのようだ。
「俺に彼女ができるようにイケメンに描いてくれよ。
つか、誰でもいいから俺のこと描いてくれよ?」
丸山がそんなことを言って美術部員を笑わせている。だがその中に明らかに丸山の方を向いていない女子が一人いた。
その女子生徒はもちろん若菜亜美だ。かといって僕の方を見るわけでもなく、その視線の先はマネージャーである掛川由布を見つめている。
僕はこの息苦しい空気が耐えがたく、何事もないまま早く過ぎてくれと祈るように空を仰いだ。