二人の時間
「なにやってるの!?
さっき言ったばかりじゃないの。
もっと優しく丁寧に、そう、ゆっくりと焦らずにね」
「う、うん、上手くできなくてごめん。
こんな感じかな?」
「そうね、今度は良さそうだわ。
いいこと? 焦ってもいい結果にはならないわ。
じっくりと時間をかけていいのよ」
「わかった、もう一度やってみるよ。
咲の方はどうなの?」
「大丈夫、心配いらないわ。
だからキミも頑張ってよ」
頑張ってと言われてもなかなか難しくてうまくできない。優しく丁寧に? 簡単に言うけど、こんなこと初めてやってるんだからそれを忘れてもらったら困る。そんなことを思いながら僕は咲にリードされ、下僕よろしく言われるがままになっていた。
「咲の方からいい香りがするね。
こっちはまだ全然だよ」
「でもそろそろ入れていいかもしれないわ。
とにかく焦らないでゆっくりと少しずつ、ね」
「う、うん。
こんな感じでいいのかな……
上手くできてる感じがわからないけどどうかな?」
「大丈夫、初めてにしては上手よ。
きっと回数こなせば段々とうまくできるようになっていくわ。
でも右手だけじゃなくて左手も動かして、こんな感じにね」
そう言いながら咲は自然に僕の手を握り誘導する。右手を前後に動かしながら、左手では回すような動きとは、なんだか頭が混乱してきてしまう。
咲は僕の背中越しに手をまわしているが、そのせいで背中にふんわりとした感触がずっと続いていて恥ずかしくなってきた。でも今は、それを指摘する方がもっと恥ずかしいので、黙って咲の言う通りにしているのだ。
部屋の中に何とも言えない香りが漂っている。どうやらうまくいってるのだと思いたい。
「うふふ、心配なの?
じゃあ味を見てみるわね」
咲はそう言うと、僕の右手を離してから小さじを手に取りフライパンの中のソースを少しだけ取る。一瞬口の前で手を止めてから味を見て咲は右手の指で丸を作った。
「良かった、玉ねぎを刻んでるときは涙が止まらなくてどうしようかと思ったよ。
でもこうやって形になっていくと何となく達成感があるね」
「何言ってるの、これはまだ下ごしらえなのよ?
これからじゃがいものすりおろしもあるし、グレービーソースも作らないといけないわ
でもお肉は四時間以上蒸し煮にするから焦る必要はないけど」
「はあ、大変なんだね。
もし僕のせいで失敗したらと思うと気が気じゃないよ」
「でもそれは野球の大会も同じじゃない?
積み重ねた練習がひと試合ですべて決まってしまうのでしょ?
もしその時に調子が悪い選手がいたら、それよりはまだマシじゃないかしら」
なるほど。言いたいことはよくわかる。今まで自分に絶対の自信をもってやってきたからか、誰かの足を引っ張ることなんて考えたこともなかった。
しかし畑が違えば自分が枷になることだってあるのだと知ったこと、それをさらっと説明してくれた咲には感心するばかりだ。
「そうだね。
今やってるのは下ごしらえだから、野球で言えば走り込みやキャッチボールと一緒かな。
手を抜かないでじっくりやれば結果がついてくると思って忍耐強く炒めるよ」
「また野球に例えてる。
じゃあ任せたわよ。
玉ねぎが飴色、ようは透明な茶色になったらほうれん草を加えてちょうだい」
「野球の事を先に持ち出したのは咲なんだけどな。
もしかして僕に合わせてくれたとか?」
「別にあわせたわけじゃないわ。
たまたま思いついただけよ。
まったくキミったら……」
僕の背中から持ち場へ戻っていた咲は少しだけほっぺたを膨らませてそう言った。何となく怒っているときと、怒ったふりをしたときの違いは分かるようになってきたかもしれない。そんなことよりも背中に感じていた気持ちの良い感触が去って行ったことが残念である。
そろそろいい頃合いだと思い咲に確認を求めてからほうれん草を加えた。さらにバターを入れて余熱で溶かしながら玉ねぎと和える。これがじゃがいも団子であるクロースの中身になるわけだ。
「じゃあ具は出来上がりでいいわ。
次はじゃがいもをすりおろしてちょうだい。
はい、おろし金ね」
「あれ? 今剥いていたやつは使わないの?
それもじゃがいもだよね?」
「そうよ、茹でたものと生とを合わせて作るのよ。
両方を混ぜてから中に具を入れて丸めるの。
そこまでできたら後は茹でるだけね」
「あの独特の食感を出すのもなかなか大変なんだなあ。
よしやってみる」
すでにきれいに皮をむかれてザルの中で水を切ってあるじゃがいもを一つずつすりおろす。といっても大根おろしのようにではなく、おろし金からは千切りが細かくなったものがボウルに落ちていく。
そう言えばおろし金なんて初めて使ったかもしれない。アスリートたる者、本当は食事だって体調管理の一環なのだから、もっと気を配れるようにならないといけない、そんなことを考える。
でもそれができなかったから母さんは父さんをほっておけなくてすぐ結婚しちゃったって言ってたし、もしかして僕のことも咲が面倒見てくれたりして……
そんな邪な考えが顔に出てたのか横から茶々が入った。
「ねえキミ?
なにか変なこと考えてるでしょ。
顔が下品ににやけているわよ」
「えっ、そうかな?
別に変なことなんて考えてないよ」
焦って否定するが顔がにやけていたのは事実で、それは自分でもわかっていた。でも変な顔してたつもりはなく、どちらかと言うと微笑ましいとか朗らかな顔ってつもりだったのだ。
咲は必死に否定する僕の顔を見て優しく笑いかけてくれる。ああ、なんて幸せな休日なんだろうか。両親が出かけてくれていてこんなに嬉しかったことは無いといっても大げさではない。
相変わらず心を見透かされているような感覚の恥ずかしさもあって、僕は一心不乱にじゃがいもをすりおろした。やがてザルに入っていたじゃがいもはボウル山盛りの千切りへと形を変えていた。
「よくできました。
じゃあ次にこっちのマッシュポテトと混ぜて丸めるわよ。
中にさっきの具を入れるのだけど出来るかしら?」
「できるさ!
こないだ食べたのと同じくらいの大きさでいいのかな?」
「ええ、テニスボールくらいかしらね。
煮崩れしないようにしっかり握ってね」
僕は二度ほど頷くと、おろしたじゃがいもととマッシュポテトをよく混ぜてしっかりとこねる。中には玉ねぎとほうれん草とクルトンのバター炒めを入れる。
丸めたクロースをいくつか並べていると、咲がそれを一つ取って火を止めたばかりの鍋に沈めていった。見ている方はやけどでもしないかと心配になるが、そんな様子は微塵も感じさせず手際よく入れていく。
「こうやって、沸騰したお湯の火を止めてから入れると煮崩れしにくいのよ。
後は浮かんでくるまで二十分くらい置いておくだけね」
「これであのもっちりとした食感になるのか。
自分で作ったから出来上がりが心配だけど楽しみでもあるなあ」
「そう思えるなら良かったわ。
まずは一つだけ茹でてみるから後で味見しましょう。
残りは肉料理の出来上がりにあわせて作るわね。
ひとまずキリがいいのでお茶淹れるわ」
「うん、なんだか練習より疲れるなあ。
ちょっと座ってもいいかい?」
「うふふ、もちろんよ。
不慣れなことだから大変だったでしょ、お疲れさま」
キッチンにある小さい木の椅子に腰を下ろした僕は、まるでグラウンドを何週かした後のようにぐったりしていた。咲が淹れてくれたアイスミルクティーがのどに心地よい。
同じようにミルクティーを飲んでいる咲に目をやると、その艶やかな唇に目が行ってしまう。そう言えば今日は一度も…… なんてことを頭に浮かべてしまった。
「なあに? そんなにじっと見つめて。
まるで物欲しそうな子供みたいな顔よ。
お腹すいちゃったのかしら? それとも……」
「いやいや、不慣れなことしたから疲れただけだよ。
本当さ……」
そう言ったところで、僕は近づいてきた咲の胸に抱かれ包まれた。僕は思わず咲の背後へ腕を回して抱き寄せる。この何とも言えない安堵感は肉体の柔らかさだけがもたらすものではなく、いつの間にか大切な存在となった彼女が、僕の精神的な支えになってきている証かもしれない。
何分位こうしていただろう。コンロでは相変わらず弱火で肉が煮込まれているが、その出来上がり予定よりも早くキッチンタイマーが終了音を鳴らした。
「さ、だいぶ落ち着いたかしら?
タイマーが鳴ったからクロースができたはずだわ。
食べてみましょうよ」
「うん、なんか…… ごめん」
「なんで謝るのよ。
キミが欲しいもの、それはわかってる。
でも明日に響いてしまうから我慢したほうがいいと思うわ」
やっぱり見透かされていたのかと思いながら頷いてしょぼくれている僕を尻目に、咲はゆであがったクロースを皿に乗せている。どうやらうまくできたみたいで一安心だ。
四つ切に切り分けてから目の前に出されたクロースは、この間咲が作ってくれたものとそう変わり内容に見える。気を取り直して、促されるままに味見をしてみる。
「うまい!
これ本当に僕が作ったのかって疑いたくなるね。
まあ言われた通りに混ぜたりしただけだけどさ」
「そんなことないわよ。
ポテトの混ぜ具合もいいし、具材の出来もいいわね。
すごくおいしく出来ているわ」
「そうかな?
お世辞でも褒めてもらえるのは嬉しいもんだな」
「お世辞じゃないわよ。
コーチがいいから選手が結果を出せたのよ」
「あはは、今日は咲の方がたとえ話を多くしてるね。
こうやって人から聞くと面白いもんだよ」
咲はまたほっぺたを膨らませている。なるほどポイントがわかって来たぞ。普段はクールな咲が、こうやって僕にだけ違う面を見せてくれるのは嬉しい。
まさか僕が女子にこんな感情を抱くなんて想像もしていなかった。だからこそ自分の変わりように驚いているのだか、それと同時に肉体的な接触をも求めてしまっていることは恥ずべきことかもしれない。
同じ高校生である木戸やチビベン達が、どこまで経験していてどういう考えなのかが気にならなくもないが、人のことを考えすぎずに自分たちのことをまずは大切にしていこう。
と同時に、明日からはまた、うるさい奴らとしつこい女子の相手をしないといけない。いっそのこと僕と咲が付き合ってると公言してしまった方が楽になるのに、なんて考えていた。
でもそれは咲にとって本意ではないらしいし、僕の身勝手に過ぎないことなのだ。今はこうやって同じ時間を過ごせることが嬉しいわけで、明後日には母さんたちも帰ってくる。
この貴重な週末、色々な偶然も重なって慌ただしくて楽しい日々だった。こうやって僕の相手をしてくれる咲のためにも僕にできること、そう、野球でいい結果を残せるよう練習に励もう。
そんなことを考えているうちに、僕はいつの間にかうたた寝しかけていたようで小さな木の椅子から落ちそうになった。
それを見た咲が、僕の手を引いてリビングのソファへ連れて行ってくれた。悪いとは思ったが僕はソファで横になるとすぐに寝てしまったらしく、最後に視界へ入った光景は、咲がおでこにキスをしてくれた所だった。