本気の練習は怒りを連れてくる
なんなんだ、か。僕が学校で始めて投げた球は、チビベンの度肝を抜くに十分だったようだ。まだ未完成ながら左バッターへは問題なく投げられるし、効果も十分にありそうで好感触だ。
打順を変わりベンチへ戻りながらもまだ叫んでいるチビベンの呼びかけを無視したまま、腕を回しながらほぐしつつ次のバッターを待つ。フォームが完全に固まっていないがもう少し投げ込めば試合でも十分使えるだろう。
続く長崎先輩、池田先輩も三球三振に切って取って、さあいよいよ真打登場と言ったところか。
その木戸がチビベンと何やらひそひそ話をしている。おそらくさっき僕が投げたボールについて確認しているのだろう。しかしあの球は今のところ左バッターにしか投げるつもりはない。
右バッターに向かって全力で投げ込んでもしものことがあったらそれはもう最悪で、まだ僕にはコントロールしきれる自信がなかったのだ。
木戸とチビベンのひそひそ話が終わり、ようやく木戸が左打席へ入った…… ってなんで左で構えているんだ!?
その理由は簡単に想像がつく。さっきのボールを投げろと無言で圧力をかけているのだろう。にわか仕込みの左ボックスで打てるわけはないが、木戸にも秘密にしていたのは悪かったと思い受けて立つことにした。
いつもと反対の左構えがぎこちない木戸へ向かって僕は無言で頷いた。プレートを踏みグラブの中でボールを握る。硬球の縫い目が指先に横向きの感触をもたらしていることを確認してからゆっくりと振りかぶる。
コースはアウトサイド、本来は左バッターにとって打ちやすいコースだが、僕はこのボール、このコースの球威に自信を持っている。問題はコントロールだけなのだ。
とにかく木戸には見せておくだけだと思いながら初球を全力で投げ込んだ。あっさりと見送った木戸はボールが過ぎていった後の何もない空中へ向かって二度三度素振りをする。
そして右バッターボックスへ入りなおした後、今のコースへバットを添わせている。内角に自信を持っている木戸は、普段打席内でも内角寄りに立っているが今は外側いっぱいに立って内角を開けて待っている。これはもう一度投げろと無言の圧力だ。
「ダメだよ木戸。
打席で見たいって気持ちはわかるけど、まだコントロールが完全じゃないんだ」
「いやダメだ、もう一度投げろ。
どうしても気に入らねえ。
いつどこで俺の知らない球をこそこそ練習してやがったんだよ」
「そんな、こそこそなんてしてないさ。
昨日までだって投球練習中に混ぜて投げてたんだぜ?」
「ウソつけ、こんなの一回も投げてこなかったじゃねーか
すぐわかる嘘つくんじゃねえよ」
木戸はどうやら本気で怒っているらしい。しかし僕の言ったことは半分嘘で半分本当なのだ。昨日までの練習中にも同じ握りで何球か投げていた。しかしコースや力加減は別物で、全力で投げたのは今日が初めてだった。
しかし木戸の怒りは静まらず声を荒げて同じ球を投げろと要求している。こうなったらなかなか治まりそうにない。かといって感情に任せて投げた結果事故にでもなったら大変だし、そんな感情のコントロールができないようではマウンドに立つ資格なんてないのだ。
「わかったよ木戸、今日の練習はこれで終わりだ。
でもさ、隠しているつもりはなかったし、まだ右バッターへ投げる自信がないのは本当なんだよ」
そういって僕はマウンドを降りた。他の部員は口も出さずにただ見ているだけだ。
僕と木戸がぶつかるのはこれが初めてじゃなかった。一年生の頃にも配球で何度もやりあったことがある。まあお互いに我が強いのかもしれない。
こういう時はいったん離れて頭を冷やすほうがいいというのが、この一年で学んだことだ。僕は部室へ戻り、シャワーもせずに制服へ着替えてそのまま帰宅した。
帰り道にはすでに頭も冷えてきており、ちょっと感情的になりすぎたと反省しながらも、早く帰ってきたことを喜んでいた。とりあえずすぐにシャワーを浴びて汗を流してしまおう。木戸とは月曜にもう一度話せばわかってもらえるだろう。
でもやっぱりなんの説明もせずに、密かに練習していたボールを投げたのはまずかったかもしれない。一番信頼関係が必要なバッテリー間で、結果として隠し事をしていたわけでその点は僕が悪かっただろう。
かといって木戸もムキになって自分へ投げろと言うのもわがまますぎる。正捕手として知らない球種があったことに不満なのは当たり前かもしれない。しかし、自分がそれを打席で見てみたい、打ってみたいというのはまた別の話だ。
僕だってコントロールに自信があれば、あのボールが強打者に通用するかどうか試したかった。まあチビベンに一球投げただけだけど感触は悪くなかったので収穫はあった。
こうして不意の帰宅でいつもよりも二時間ほど早く帰り着いたので、咲はきっと出迎えてくれないだろうな。そんなことを思いつつ玄関まで来た僕は、ドアに挟んであるメモに気が付いた。
『おかえりなさい今日はごはんが遅くなります』
それは咲からの連絡で、メモ帳か何かを切って二つ折りにしてある紙に子供のような文字で書いてあった。それを見ただけで思わず顔がほころび、これなら僕の方がまだ字がうまいかもしれないと感じる。
ついさっきまでは木戸と険悪な雰囲気になったせいで頭に血が上っていたが、咲の書いたたった一行を見ただけで機嫌は最高に近いくらいに良くなってしまった。まったく我ながら単純だ。
誰もいない家で一人ニヤニヤしながら片づけをしてから洗濯機を回す。そして学校で入ってこなかったため急いでシャワーを浴びた。
◇◇◇
帰宅してからどれくらい時間がたったのだろうか。玄関をノックする音で僕は目を覚ました。どうやらこんなところで眠ってしまっていたらしい。
確かシャワーを浴びてから洗濯物を干して、咲がいつ迎えに来ても大丈夫なように着替えた後に靴まで履いて待っていたのだ。それはまるで小さな子供が出かけるのを待ちきれないような行動だった。
外はすっかり暗くなっている。僕は急いで玄関を開けた。そしてそこには予想通り咲が立っていた。
「遅くなってごめんなさい。
お腹、空いたでしょう?」
「うん、でもまだ平気だよ。
どこかへ出かけてたのかい?」
咲は僕の質問に答えることなく話を続けた。
「思っていたよりも遅くなってしまったわ。
今日は簡単な夕食になりそうだけどそれでもいいかしら?」
「もちろん!
いつも凝った料理を作ってもらって申し訳ないからお返ししたいと思うんだけど、残念ながら僕が作れるものはインスタントか冷凍食品位なんだよなあ。
あとはコーヒーを淹れるくらいしかできないや」
「そうだったわね。
でもそんなの気にしなくていいのよ。
人それぞれできることできないこと、得手不得手があるものじゃない?」
「まあそりゃそうだけどさ」
「だからキミはキミのできることを頑張ったらいいし、その代りに他人が頑張ってることを認めてあげたらいいんじゃないかしら。
それが自分と違う考えだったとしても、なぜそう言う考えなのか、なぜそれをしているのか、そういうことを相手の立場になって考えてみると何か違うものが見えてくるかもしれないわよ」
咲が言っているのはどう考えても夕飯や料理の話ではない。かといって僕が木戸といさかいを起こしたことを知っているわけもない。では何のことを言っているのだろうか。
僕がそれを確認しようと口を開く前に咲が言葉を続けた。
「明日も朝のトレーニングはするのかしら?
それから用意してお出かけするなら、今日はあまり遅くならないようにしないといけないわね」
「そうだね。
試合開始が十三時だけど練習とかも見たいからなるべく早く行きたいな。
矢島の県営球場までも結構時間かかるから、九時ごろにはこっちを出た方がいいね。
ランニングから帰ってきて用意が出来たら迎えに行くよ」
「じゃあそれも含めて食事しながらお話ししましょう
でもその前に……」
咲はゆっくりと僕に体を寄せてくる。僕はそんな咲の顔を頭一つ分ほど上から見下ろし、少しだけ慣れた動きで自ら顔を寄せ唇を重ねた。




