考え事の多いランニング
結局早起きしすぎたことには何のメリットもなく、朝から罪悪感と嫌悪感を背負ってしまっていた。ベッドに横になった僕の目線はどこか宙を見ているような、それとも天井を見ているような、まあそんな感じだ。
机の上の目覚まし時計が鳴っていつもの起床時間だと知らせてくれるが、いまいち動く気分にはならない。しかしこんなところでサボるわけにはいかない。なんといっても昨晩僕は、咲を甲子園へ連れていきたいなんて大口を叩いたのだから。
いったん目を閉じて両手で頬を軽くはたく。気合の入れ直しをしてから勢いよく起き上がった。玄関でランニングシューズを履いて靴ひもをしっかりと結ぶと、ようやくいつもの調子が戻ってきたように思えた。
表へ出てから準備運動とストレッチをしているとどんどん気合が高まってくる。やはり僕は根っからの体育会系なのかと感じる瞬間でもある。
体を動かした感じだと今日の調子も悪くはなさそうだ。結局咲とああいう関係になって調子が悪かったのは初めの一度とその後一度少しだけいまいちな時があったくらいで今のところはそう問題を感じることはない。むしろ調子がいいことの方が多いので、今までよりもっと練習が楽しくなっている。このままの調子を維持していけばきっと結果はついてくるだろう。
そんなことを考えながら僕は軽く走り出す。今日もいつもの防災公園へのルートだ。段々とピッチを上げていくとなんだか楽しくなってくる。野球に限らず努力をすること自体は誰でもできることだ。でも結果がついてくることは少なく、大抵は努力実らずにどこかで挫折したり妥協したりするものだ。
父さんだって、あの江夏さんだってプロには届かなかった。母さんも義姉さんもオリンピック出場は叶わなかった。
でもそれは決して努力が足りなかったのではなく、巡りあわせや運、その時のライバルがよりよかったと言うだけの事なのだ。
問題はその後どうするか、経験を生かすこともできるだろうし腐ることも個人の自由である。その時僕は同じ野球部二年生の三田を思い出していた。
奴は去年手薄だったピッチャー枠で僕とレギュラーを争った。その結果僕は上級生を差し置いてエースナンバーを貰い、三田は三番手の控えピッチャーとなった。それが気に入らなかったらしく、その後練習への参加がまばらになり二年になってからは一度も顔を出していない。
三田は全力投球が持ち味の速球派でだが、一発勝負の高校野球では安定性を取るのが当たり前だともいえる。かといって僕もそれなりのストレートを投げるし、今ならほとんど変わらないかもしれない。
なんにせよ同情する余裕なんてあるわけじゃないし、三田にも失礼なことだろう。悔しかったら研鑽を積んでエースの座を自分で勝ち取るべきなのだ。
今日はやけに頭の回転がいいというか色々なことを考えてしまう。これもきっと咲のおかげで将来をしっかりと見据えるような気持ちになれたからだろう。僕の調子がいいのが咲のおかげかはわからないけど、心構えに影響を与えたのは間違いない。
一人でのランニングも考え事をしていると退屈でもなく、折り返しとなる防災公園に到着した。いくつかある入り口のから中に入っていったん足を止め、軽く深呼吸とストレッチをする。
「先輩…… 吉田先輩、おはようございます……」
その時背後からか細い声が聞こえてきた。声の主を確かめるため僕が振り向くとそこにはパーカーのフードを目深に被った少女が立っていた。
「あ、えっとおはよう」
「若菜です、一年生の…… 覚えてもらえてないんですね……」
「いや、そういうわけじゃないよ、ちょっと度忘れしただけさ」
「いいんです、私影薄いので……
来週からよろしくお願いします」
「来週から? 何かあったっけ? まさか野球部に入るとかじゃないよね?」
「はい、私は野球部じゃなくて美術部なんです。
顧問の三谷先生から話行っていませんか? 野球部の練習風景を描くことになったんですけど」
「そういうことね、話来たよ、若菜さんは美術部だったんだね。
絵心あるなんてすごいね、僕なんて美術の評価はいつも散々だよ」
「才能のある人なんてほんの一握りですよ、でも絵を描くのが好きだから続けているんです。
野球も全員がプロ野球選手になれるわけじゃないですよね?」
この世の女子は人の考えが読めるのだろうか。咲だけではなく若菜亜美も僕が考えていたようなことを言い始めて虚を突かれた気分だ。
「あれ? 先輩? 私何かおかしなこと言ってしまったんでしょうか……」
「いやいや、まさにその通りだと思うよ。
ちょうど僕もそんな様な事考えながら走ってたとこだったんだ。
だからちょっとびっくりしちゃったよ」
「そうだったんですか、あは、先輩と同じ事考えたなんて嬉しいです。
でも走りながら何か考えるのってすごいですね。
私は運動苦手なので走っていたら苦しくてそれどころじゃありません」
「僕だって美術室に閉じ込められて何か描かないといけないときは息苦しくて仕方ないよ。
得手不得手なのか適性の問題なのかわからないけど、運動なら全然苦にならないのになあ」
「あはは、そうですね、私は他に数学も苦手で嫌いですね」
「わかる、あんなの理解して解いてる人が同い年だなんて信じられないもん。
ま、僕の場合は得意科目なんて体育以外にはないんだけどね……」
若菜亜美と昨日に引き続きここで会ったが、それは決して偶然ではなかった。亜美は犬の散歩で毎朝来ているのだから会うのも当然だろう。
でもこうやって談笑していると時間が遅くなってしまうし、何より咲へ対する申し訳なさと言うのか、なんとなく後ろめたさを感じていた。
しかし亜美の話はまだ続いた。
「あのお先輩? もしよかったら教えてほしいんですけど……」
「どんなこと? あんまり難しいことじゃなけりゃいいんだけどな」
「先輩は今彼女いるんですか?」
それを聞いた瞬間に僕は心臓の辺りがチクリとするような気持ちになった。もしかして亜美は、僕に対する好意があって近づいてきたんだろうか。
目深に被ったフードの奥では、亜美の瞳が僕の答えを今か今かと待っていてキラキラと輝いていた。