腑抜けたエース
ようやく咲から解放された後、屋上への扉前で一人取り残されたままへたり込んでいた僕は、十分ほど経ってから我に返り立ち上がった。
「なんだあいつ・・・・・・ 突然こんなことをして・・・・・・
初めてって何でわかったか知らないが勝手なことをして勝手なことを言いやがって、まったくちくしょう」
それにしても咲の唇は柔らかくて温かかったな。無理やり押し倒された割りにはなんだか幸せな気持ちになってしまう。
いやいや、許しちゃいけないぞ、これは。いくら相手がかわいい女子で僕が好意を持っていようと、こういうのはいきなりしちゃいけないことだ。
お互いを少しずつ知っていき、こう、なんと言うか、タイミングか? そういう状況って物があるだろう。
さっきのはまるっきりノーサインで投げ込んだ変化球のようなもので、受け取るほうはたまったもんじゃない。そうさ、事前にサインが必要なはずだ。
僕が頭の中で野球に例えていたがそれどころじゃない。早く部活へ行かないといけないんだった。大分遅くなったから木戸のヤツに叱られちゃうな。足元に投げ捨てられている鞄を拾い上げ僕は階段を降りていった。
気のせいか体が重いが突然あんなことがあった後だからなんだろうか。でもそんなこと誰にも言えないし、まして木戸にだけは知られたくない。
なんといってもあいつは、学校内外の女子としょっちゅうくっついた離れたってやっているもんだから、はしたないといつも僕が諭しているのだ。
何か問題が起きてしまったら大会出場辞退なんてことにもなりかねない。高校球児は清く正しくなければならない、それが世の中の常識として求められているのだ。
現に過去、他の学校では暴力沙汰や飲酒喫煙、万引きやキセル等々で出場辞退が起きていて決して珍しいことではない。
もちろん悪いことをしたらいけないし、したなら罰を受けるべきだ。しかしそれを個人が責任取るだけでは済まないのが部活動と言うものなのは今も昔も大差ない。
もちろん僕も気をつけなければいけない。通学時の所持品から野球部だということは明らかだし、制服を見ればどこの学校かもすぐにわかる。世の中には消防士が自販機で飲み物を買っているだけで苦情を入れるようなおかしな人もいるらしい。注意するに越したことは無いだろう。
だからこそ、あまり堂々と高校生同士がいちゃついたりしていたら、どこで誰が見ていてどういう行動に出るかわからない。僕は浮ついた気持ちを引き締めなおすように部室へ急いだ。
通りがかりのグラウンドではすでに練習が始まっており、木戸の掛け声にあわせてランニングをしているところだ。こりゃ急いでもどやされるのは確定だ。
「こらー、カズ! おっせーよ! 早く着替えてグラウンドに出ろよー」
「悪い悪いー 急いでいくよー」
僕は大声で返事を返しながら走った。グラウンドではランニングが続くが、いつの間にか掛け声が変わっていた。
「遅刻カズファイト! 遅刻エースファイト!」
「遅刻カズファイト! 遅刻エースファイト!」
「遅刻カズファイト! 遅刻エースファイト!」
ちくしょう木戸のヤツ、掛け声の学校名を僕の名前に置き換えていやがる。新入生も参加しているのに恥をかかせやがって。まぁ遅れた僕が悪いのだけれど、他の部員にまで言わせることは無いじゃないか。
大慌てで部室へ入りユニフォームへ着替える。そのとき、何の気なしに触った唇に咲の残り香のようなものを感じ一瞬手が止まった。
意識していないと顔がにやけてしまいそうだ。今日はいつもより気を引き締めていかないとまずいな。着替え終わった僕は急いでグラウンドへ出た。
「よーし、次はストレッチやるぞ。
手近で二人組み作れー」
「すまん木戸、走ってくるわ」
「おう、エースがそんなんじゃ示しがつかないぞ!」
みんなに遅れてメニューをこなし急いで合流した僕は、さらに入念にストレッチをする。
「カズ、この一年生の面倒見てくれ」
「中学でピッチャーやってたらしく、今日から正式入部になったからよ」
「カズ先輩! よろしくお願いします!」
「一年生だからまだ体が細いけど、背も高くて手足も長いからいい球投げられそうだな」
「こちらこそよろしく!」
なかなか勢いのある新入生だ。僕も負けずに勢い良く言葉を返した。
投げ込みはもう少し後から始めるため、僕はストレッチを続ける。一年生に教えながらの練習も自分への気合がより入るような気がして悪くない。
同じポジションであれば後輩と言えどライバルでもあるが、僕の調子が悪ければ代わりに投げてもらうこともあるだろう。しかし、どんなことがあろうともエースを譲るわけには行かないのだ。それでも僕にとっては刺激になるに違いない。
よし! と声に出しストレッチを終わりにして立ち上がる。新入生と一緒にブルペンで投球練習を始めよう。
「カズ、そろそろ良さそうだな。
俺が新入りの球をを見てみるとするか」
「じゃあ僕はチビベンと組むよ。
おーい、チビベン! キャッチャー頼むわー」
チビベンと言うのはもちろん本名ではないが、運動部にしてはあまりに弁当が小さく小食なため木戸がつけたあだ名だ。しかも名前が山下太なのだが、まったく太いところはなくどちらかと言うとやせているほうだ。
「ほーい、今行くよー」
明るく甲高い声でチビベンが返事をした。野球部らしく日焼けはしているものの、線の細さもあって小さいころは女の子に間違われることも多かったという噂は本当だろう。そのチビベンも、マスクをつけると印象ががらりと変わる。控えとは言え頼りになる相棒なのだ。
僕はボールを手で揉んでから軽く投げるまねをした。春休みから練習を続けてはいるものの、投げる前には毎日フォームのチェックをするのが習慣である。。
隣では新入生が軽いキャッチボールを始めているが、軟球との違いでまだボールが手になじまないようだ。たまに力の無い棒玉が高めに浮いてしまっているようだ。
それでもいい感じに投げられた時には、その長身から投げ下ろされるボールにこれからの可能性が秘めているように感じるのも確かだ。
「おいカズ、見とれてて良いのかよ。
この新入生はなかなか見込みありそうだぞ」
「そうだな、見てていい感じだと思った。
球種よりまっすぐで押していくタイプっぽいな」
「はい! ありがとうございます!」
こりゃうかうかしていられないな。とはいっても硬球になれるのに数ヶ月はかかるだろうから頼りにするにはまだ早い。なんといってもエースは僕だ。
僕とチビベンもキャッチボールをはじめた。はじめはキャッチャーがたったままで感触を確かめる。なんとなくボールが手につかない感じもあるが、もう少し投げ込めば問題なさそうだ。
「よーし、チビベン、座ってくれ」
「はいよー、よし来い」
チビベンのミット向かってまずは軽くコントロール重視で投げ込む。バシン! といい音がしてボールがミットに吸い込まれた。
いくつか投げながら力を増していく、はずがいまいち乗り切れていない気がする。フォームも球筋も悪くないがなんとなく違和感があるのだ。
「チビベン、どうだ? 来てる?」
来てる、というのはボールに勢いがあるか、回転がいいかを表すざっくりとした表現だが、野球をやっている相手になら誰にでも通じる便利な言葉だ。
「悪くないと思うよ。
でもいつものカズからすると七割位かな」
その言葉を聞いた木戸がチビベンの隣から声をかけてきた。
「おいおいマジかよ、昨日は良かったじゃんか。
ちょっと受けるの代わってくれ。
新入生はボールに慣れるまで軽く投げさせやってくれな」
「ほい、りょうかーい」
「よしカズ、本気で来いよ」
「オッケー」
木戸が座ってミットを構えた。僕はそこへ全力で投げ込む。五球ほど投げたところで木戸が立ち上がった。
「おいおい、どうしちゃったんだ?
こんな腑抜けたボールじゃエースを名乗れなくなるぞ、カズ」
やはり違和感のとおりだった。僕の投げたボールに何かが足りなくなっている。いつも通りに投げているのだがボールに力が籠っていない。指にはかかってる感触があるのに回転がいまいちにも思える。
体調は悪くないはずだ。投球練習こそしなかったが、少なくとも朝練での調子は問題なかった。でも今は力が籠っていないと言われる程度のボールしか投げられない。
理由がわからない僕はうつむいて首を振ることしか出来なかった。朝練から放課後の練習の間、特に変わったことは無かったはずなのに……
そうだ、あの階段での出来事以外には何も無かった。