天国から地獄
長くて短いキスの後、咲は自宅へ帰って行った。
僕は玄関で見送った後朝食を取り、部屋のゴミを取りに行きその他のゴミとまとめた。ゴミ袋の中には煩悩と我欲の証が入っていて、それを早く捨てないといけない気がしていた。
残念ながら今日は可燃ゴミの日ではなかったので、口を縛った市の指定ゴミ袋を玄関先へ置いておく。そして鞄を担いで玄関を出た。
時間にはまだ余裕があるが、朝のランニングの時よりも体が軽くなっていた僕は上機嫌で走り出す。学校までは走らなくても二十分くらいの道のりだ。
部室へ行くとまだ誰も来ていなかったので職員室へ鍵を取りに行く。
「失礼します、野球部の吉田です、部室の鍵を借りに来ました」
「あら早いわね、今開けに行こうと思ってたのよ」
僕はその意外な声の主に驚き立ち尽くしてしまった。
「ちょっと吉田君、その信じられないって表情やめてくれる?
私だって早く来ることくらいあるんだからね」
「そ、そうですよね、たまにはそんな日もありますよね」
「たまにって失礼しちゃうわ、まあ事実ではあるんだけどさ。
行きましょうか、実はみんなに伝えなきゃいけないこともあるのよ」
「なんですか? 悪いことじゃなければいいんですけど」
「そうね、悪い話ではないわ、いい話でもないかもしれないけど。
とりあえずみんなそろってから話すわ」
「わかりました、なんだか勿体つけてて不安ですよ」
なにか嫌な予感もするが、とりあえず僕と真弓先生は部室へ向かった。
部室が見えてくるとその前にはすでに数人の部員が待っていた。木戸の姿はないがチビベンと一年生数人のようだ。
「チビベン、みんな、おはよう」
「おうカズ、おはようさん、今日はいつも通り早かったんだな。
ちょ、真弓センセきてるじゃん!? こりゃ雨でも降るか」
「ちょっと山下君、それは言いすぎよ! せめて曇りくらいにしておきなさい」
真弓先生の言うことは時々意味が分からない。しかし、朝練の時間に来ることなんて、去年から通算しても二度か三度くらいしかなかった珍しい出来事なんだから仕方ない。
チビベンに茶化された真弓先生は、そのほっぺたを素早く指でつまんでおり、チビベンはふがふがと言葉にならない声を上げていた。
真弓先生のほっぺたつねりはある意味野球部の様式美のようなものなので、僕はいちいち気にしないことにしている。
「やっぱり驚くよな、僕もわが目を疑ったよ。
木戸はまだか、丸山も来てないな」
その時後ろから声がした。いつの間にか近づいてきてた木戸が声をかけてきたのだ。
「マルマンは今日の朝練は不参加だって言ってたぜ。
ちょっと少ないけど今日の参加者はこれで全部かもな」
そんな会話をしつつ部室の鍵を開け僕達はぞろぞろと中へ入っていった。そしてなぜか最後に真弓先生も入ってきた。
「ちょっと真弓ちゃん、うら若き男子高校生がこれから着替えるって言うのに、そんな堂々と覗きに入るなってば」
「大丈夫よ、減るもんじゃあるまいし、それよりも聞いてほしいことがあるのよ。
手短に済ませるから着替えながらでもいいしとにかく聞いてちょうだい」
僕達は制服の上着を脱いだくらいのところで手を止め、固唾を飲んで真弓先生の方を見た。
「なによみんな、そんな真剣に聞かなくてもいい話だからもっとリラックスしてよ。
話と言うのはね、来週になると思うけどけんみん放送の取材が入ることになったわ」
「テレビ取材? けんみんなんてローカル局だし、どうせチラッと紹介されるくらいのだろ?」
木戸の言う通り、けんみん放送は僕達の県でも一部しか映らないローカル局だ。見ている人がいるのかってくらい面白い番組がない。
「まあそうだけど、一応部室をきれいに片づけておいてね。
あんたたち散らかしっぱなしだから臭いわよ」
「そうかなあ、きれいにしてるつもりなんですけどね」
チビベンはそういうが、お世辞にも整っているのは言い難い。ロッカーからシャツが飛び出たり、テーブルの上にはスコアブックや筆記用具が散乱している。
「まあとにかくきれいにしておいてよ、恥かきたくないでしょ?
それともう一つ、マネージャーの件なんだけど、希望者が来たので放課後に連れてくるわ。
ちょっとだけ問題ある子だけど野球には詳しいし、いい戦力になると思うのよね」
僕は真弓先生のその言葉を聞いて頭を抱えた。予想していなかったわけではないが、まさか昨日の今日でこんなことを聞かされるなんて思ってもみなかったのだ。
「センセ、問題あるってどういうこと?
その子って言うことは女子マネなの?」
チビベン…… そうだよ…… 大問題の女子マネだよ。僕はそう言ってやりたかったが、昨日の顛末を説明する元気もないので黙っていた。
「問題って言うか元気が良すぎる子でね、ちょっとうるさいかもしれないわ。
まあ野球経験者だから、すぐにみんなと仲良くなれるでしょう」
なぜか木戸は黙っていた。もしかしたら昨日真弓先生が飲みに行って話しているのかもしれない。
そう思っているところに木戸がこっちを向いた。
「カズ? どうした? 頭でも痛いのか?
無理はするなよ、なんて言ったってお前はエースなんだからよ」
その顔は心配しているような口ぶりとは裏腹に、楽しみが増えたと言わんばかりの笑みを浮かべている。もうこれは間違いなくすべてを知っている顔だ。
それを見た僕は一度上げた頭を抱え直し、深々とこうべを垂れたのだった。