幸福感と罪悪感の夜
僕は咲の家から帰ってきて部屋で一人悶えていた。熱くて苦しくて切なくて寂しくて仕方ない。
しかしそんな恋い焦がれる思春期男子の心とは無関係に現実の時間は進んでいき、当たり前に玄関の開く音がした。
「カズー、ただいまー」
父さんが帰ってきた。声からするとそれほど酔ってはいない様子で一安心だ。現実に引き戻された僕は部屋を出て玄関へ向かった。
「父さんお帰り、あまり酔ってないみたいだね」
「そりゃそうさ、会社で飲むなんてそんな面白いものじゃないからな。
まあでもお祝いってのはいいものさ」
「父さんが直接やってた仕事なの?」
「おう、俺と江夏ともう一人が取ってきた仕事でよ、その企画が先方さんに採用されたんだ」
「詳しいことはわからないけど良かったね」
「うむ、ありがとう、その件で来週は出張になるかもしれないな。
来週は香も帰ってくるから大丈夫だよな?」
「うん、今週だって一人みたいなもんだし、何の心配もいらないよ」
むしろ誰もいない方が好都合だ、とはとても言えない。
「もう寝るところだったみたいだな 遅くなって悪かった。
ちゃんと飯食ったか?」
「うん、大丈夫、今日は練習の調子が良くて飛ばしちゃったみたいで疲れたよ。
明日も早いからもう寝るよ」
「おう、俺も今日くらいは早く寝るかな。
不思議と家ではあまり飲みたくならないしよ」
「これからもっと忙しくなるなら体を労わってあげないとね。
もういい歳なんだからさ」
「何言ってんだ、まだまだお前にも負けんさ」
確かに父さんの言う通りだ。もっと修練を積み重ねないとプロ入り目指すなんて恥ずかしくてとても言えやしない。しっかり休んでしっかり練習する必要があるだろう。
「それじゃおやすみ」
「おう、おやすみ」
僕は部屋へ行き寝間着代わりのスウェットへ着替えた。
さっきよりは少し気持ちも落ち着いてきたし、明日も早朝ランニングがあるからさっさと寝よう。。そんなことを考えながらベッドへ横になり布団をかけた。
薄暗い部屋で目を閉じるとさらに目の前は暗くなり何も見えない。何も見えないとなると頭の中には雑念が浮かんできてしまうものだ。
今の僕が浮かべるものは雑念とは言い切れないが、少なくとも眠ることを邪魔する存在には間違いなく、しかしそれは嫌なものではない。
つまり簡単に言えば、寝ようとしても咲のことが思い浮かびなかなか寝付けないのだ。
「咲…… いつも一緒にいられたらいいのになあ」
目を開けて天井を見つめながら思わずつぶやいてしまったが、そんなことが今すぐ実現するわけはない。このままの関係を続けていき、僕が約束を守れば今よりももっと近しい関係へと進んでいけるはず。
それまではこうやって咲の事を想うだけの時間がどうしても出来てしまうということか。切なくて苦しい、こんな気持ちになったのは初めてでどうしたらいいかわからない。
ついさっき、本当についさっきの出来事だ。僕と咲は、また何度も繰り返しキスをした。そして体を寄せ合った時の柔らかな感触、しかも今日は咲のふくらみをこの両手で包んでしまったのだ。
思い出すだけで僕の頭はおかしくなったみたいで、息は荒くなり顔は紅潮してくる。熱くなった顔を両手でふさぐように触れると、そこにはあのふくらみとは異なる強張った自分の顔の感触があった。
会いたくて叫びたくて仕方なくなり、うつ伏せになって枕に顔をうずめ咲の名を叫ぶ。繰り返し何度も何度も名前を呼んでいるうちに、すぐそばに咲がいるような気がしてくる。
そして僕は昨晩と同じように、その怒張を収めるため自らの手を激しく動かした。
咲の名前を呼びながら行った数分の行為によって多大な幸福感を得ることができたが、その果てには何倍もの背徳感をもたらすこととなる。行為の代償は決して小さいものではないが、今の僕にできることはこれくらいなのだ。
その後に残された、僕の煩悩を包み込んだ残骸をゴミ箱へ放り投げ、僕は天井ヘ向かってつぶやいた。
「ごめん…… 咲、大好きだ」
その一言が僕にとって今日最後の記憶となった。
◇◇◇
翌朝、頭の上に置いてあるスマホのアラームが鳴って目を覚ます。目覚めは悪くないけど少しだけ体が重いかもしれない。少なくとも調子抜群で軽い感じではなさそうだ。
洗面所で顔を洗ってうがいをしてから台所へ行くと父さんはすでに起きていた。
「お、カズ、おはようさん。
これどうやってやるんだっけ?」
「おはよう、僕がやるから座ってていいよ」
「頼むわ、どうも機械は苦手でいけねえな」
機械と言ってもごく普通のコーヒーメーカーなのだが、機械音痴の父さんにとってはたいそう難しく感じるらしい。
ドリッパーから飛び出して困った様子のペーパーフィルターを取り出し、スプーン一杯分程度しか入っていなかったコーヒーの粉を小皿に空ける。
僕は慣れた手つきでペーパーの端を少し折ってから、ドリッパーへセットしなおして粉を適量まで足し入れた。
後はコーヒーメーカーへ規定量の水を入れてから電源スイッチを入れて完了だ。これのどこが難しいのかわからないが、人には得手不得手があるんだから仕方がない。
もし父さんがある程度自分の面倒が見られる人だったなら、母さんは引退しないで済んだかもしれない。そんなことを考えるとなんだか両親の若いころを見てみたかったと思う。
もしも僕と咲ならどういう毎日になるのだろう。咲の料理の腕はかなりよさそうに思えたし、掃除や洗濯なら僕は当たり前のようにできる。
留守がちな母さんの代わりに仕方なくやっていたのだが、後々役に立つことがあると思えば無駄ではなかったようだ。
金銭面で生活を支えるのはもちろん僕だ。プロ入りして大活躍、もしかしたらメジャー行きだってあるかもしれない。海外育ちらしい咲なら英語もできるのだろうか。
そうやって僕の野球生活を支えてくれるの咲との間に子供が出来たなら、その子供のため、もちろん咲のためにももっと頑張ろうと思えるだろう。
そんなことを考えているうちに顔が緩んでいたようで、ジャージに着替えて台所へ戻った僕へ父さんがコーヒーを飲みながら話しかけてきた。
「なんだ変な顔して、何かいいことでもあったのか?
お前のことだから彼女が出来たってことはないだろうけど、昨日の部活で何かあったのかね」
「いや、何でもないよ、さあランニングへ行こうよ」
「うーん、怪しいけどまあとりあえず走りに行くか」
危ない危ない、朝からおかしな妄想してしまった。そういえば、父さんを送り出してから部屋のゴミも片付けておかないといけない。
そんなことを考えながら、僕は父さんの後をついて外へ出てストレッチを始めた。
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