仮契約と本契約
僕と咲は今並んで座っている。いや、並んでいるどころかぴったりと密着しているのだ。もちろん僕は心臓がバクバクと激しく脈打っていて、その音がすぐ隣の咲に聞こえてるんじゃないかと思うくらいだ。
しかし緊張している僕のことなど気にする様子もなく、咲はごく普通に会話を始めた。
「そういえば今日はどうだったかしら?
遅刻したらお昼にあんなことするなんて知らなかったわ、なんだか悪いことしたみたいね」
「いや、遅刻した僕が悪いんだから気にしないでくれよ。
それよりその後の方が大変というか面倒だったんだ」
「ええ、でもキミは約束を守ってくれたでしょう?」
「まあね、人のせいにするのはカッコ悪いし、すべての結果の責任は自分にあるんだから当然さ」
「そっちじゃないわよ、三つめの約束のことよ」
三つめとは咲以外の女子を好きにならないこと、だ。確かに今日はいつもより女子から声をかけられることが多かったし、部活の後にはあんなこともあった。
とは言っても一方的に押しかけられた女子にホイホイとなびく僕ではない。咲もそんなことはわかってている癖に、わざと言っているように思えてならない。
「でも本当に知りたいのは練習の調子のことだけどね」
ああそうだ、それは僕も知りたいところだったんだ。
「そっちか、練習はすごく調子良かったよ。
それで僕も蓮根さんに聞きたいことがあったんだ」
「君、から蓮根さん、は進展に感じないこともないけどかえってよそよそしいわ。
咲って呼んでくれないかしら?」
「いや、でも…… 学校でも会うわけだし……」
「学校で話をする機会なんてないじゃない、だから二人でいるときは距離を縮めてほしいのよ」
「う、うん、じゃあ…… 咲に聞きたいことがあるんだ」
やばい、これは思ったよりも照れくさい。けど確かにぐっと親密度が上がったように感じるのは確かだ。
「なあに? キミの調子が良すぎて恐くなったの?
それともその調子の良さが私と関係あるのか知りたいのかしら?
もしかしたら両方かもしれないわね」
まさにその通りだ。昨日と今日の調子の落差は普通じゃ考えられないほどだった。それが咲と僕の関係に何か影響を受けたものなのか気になっている。
「今朝話したことの繰り返しになるけど、契約と約束、覚えているかしら?」
僕は大きく頷いた。
「契約とは私とキミの間で力を高めあうようお互いに働きかけること。
そしてそれを続けていくためには約束も守り続けることが必要になるわ」
「力を高めあう?
じゃあ僕が今日練習で感じた調子の良さは、自分の持っている本当の力ではないって意味?
それに咲はそれで何を得ることになるんだ?」
「そこは勘違いしてはいけないところね。
あくまでも自分の持っている能力以上に力を得ることはできないのよ。
普段はキミが持っている能力すべてを発揮できているわけじゃないわ。
でも私にはそれを少しだけ引き出すことができるということよ」
「それこそおとぎ話だ、とても信じられないよ。
でも調子が良かったのは確かだし…… どういうことなんだろう」
いつの間にか密着している咲の事は気にならなくなっていて、それよりもこの不思議な事実についてが頭の中を混乱させていた。
咲はそんな僕の考えを見透かしているのか、やさしくゆっくりと語り掛ける。
「あまり難しく考えないで事実を受け入れてくれたらいいのよ。
昨日は調子よくなかったんでしょう?」
「ああ、そうだよ、それも関係があるのかい?」
「初めてだから余計にそうだったんだけど、私がキミから精気をいただいたのよ。
それでその日に使える力が少なくなってしまったと言えばわかりやすいかしら」
そういえばそんなことを言っていたな。精気って言うのがどういうものかわからないけど、この場合はまさかいやらしい意味なのだろうか……
「なにか変なこと想像しているようだけど、そういう意味じゃないわよ。
人を動かすために必要な力の源ってところね」
また心の中を見透かされた僕の顔は赤くなっているかもしれない。なんだか顔が熱くなってきた。
「キミはその、僕の精気を取ることにメリットがあるということなのか?」
「ふふ、それは内緒よ、どちらにせよまだ仮契約だしね」
「仮契約? それってどういう意味?」
「まだキミは子供だから本契約はできないの。
もしこのままずっと約束を守り続けることができて、今と変わらず純粋でいてくれたならその先へ進むことができるわ」
「子供って…… 咲だって同い年じゃないか。
それにその先って大人になるまでってこと?」
「うふふ、そうね、お互いまだ子供かもしれないわね。
その先というのがが年齢的な大人という定義に当てはまるのかははっきり示せないけど、少なくとも心身ともに成熟してからってとこかしら」
心身ともに成熟、か。少なくとも親のすねをかじっている間ではなさそうだ。一人の男として、人間として自立した後のことなのだろうか。ということはもしかして……
「あのさ、その、心身が成熟してからその先ってことはさ、しょ、将来的にその、け、けっ、結婚するって意味?」
「キミがその時にそうしたいと願うなら実現するかもしれないわね。
でももし、その前に約束を守り切れずに契約が終わるかもしれないわ。
それに結婚というのはあくまで社会で定められた取り決めに過ぎないし、結局書類一枚提出するかどうかだけの形式的なものよ」
「確かにそうかもしれないけど、それを言ったら身も蓋もないね」
「ええ、だからそんな形式ばった契約でも必要だと考えるならすることもできるわ。
でもそんなことをしなくても、私とキミの間で精神と身体の交わりによる契りを持つことができれば本契約が締結され、その契約は永遠のものとなるの」
精神と身体の交わりって…… それはもしかしてキス以上のことって意味だろうか。咲は表情も変えずにさらっと言っているが、聞いているだけで恥ずかしくなってくる。
「永遠の約束ってことか。
確かに生半可な覚悟ではできなそうだし、少なくとも精神的にはかなりの成長を必要としそうだね」
「そうよ。
もし本契約後に約束を破るようなことがあったら、それまでに得たすべての加護を失うことになるわ。
裏を返せば、後々私から遠ざかりたくなった時には約束を破ればいいということね」
「それは三つの約束のことだよね?」
「本契約後の話に限れば二つ目、私以外の誰ともキスやそれ以上のことをしてはならない、ね。
それに三つめは私の願望に過ぎないわ、簡単に言えばヤキモチ焼きたくないのよ」
「なるほど、本契約になれば口外しても問題ないってことか。
三つめは確か他の人を好きにならないことだったけど、それにヤキモチってもしかして……」
「うふふ、乙女心をあまり勘ぐるのは良くないわ。
私がキミを誰にも渡したくないと考えていることだけわかってくれたらいいのよ」
うーん、結局はぐらかされてしまったけど、咲も僕に好意をもって接していることは間違いなさそうだ。それが例え何かしら自分の利益になるという意味だとしても今は深く考えないでおこう。
「でも約束と言っても守るのは難しくないだろうね。
僕は誰それ構わずいい顔したりはしない、そんな軽くて浮ついた男じゃないから問題ないさ」
「果たしてそうかしら? きっと今までとは周囲の見方が変わってくるわよ。
現に今日そんな気配を感じたんじゃないかしら」
確かに今日は女難の一日だったかもしれない。でもそれは昼休みに全校エールをやって目立ちすぎたせいだ。
それより、いつの間にか咲のペースにはまり普通に会話していたけど、内容は突拍子もない妄想的なものだし、全てを言葉通りに受け取ることは難しい。
それでも僕は咲に惹かれているという事実があり、咲は僕に関わろうとしてくる。それだけで日々の生活や練習にハリが出てくるなら、僕はあえてその妄言を信じてみることにした。
そんな僕の心をわかっているのかどうかわからないが、咲はこちらを向いて微笑みまた紅茶を飲んだ。