これが代償
重い足取りで帰宅し玄関を開けると、コーヒーの香りがやけに強く漂っていた。どうやら二人とも起きているようだ。
「ちょっとカズ! 朝早くに出ていったきり帰ってこないで何してんのよ。
お父さんのコーヒーは淹れたけど、水入れすぎちゃって大変だったんだから。
まあ咲ちゃんに連絡貰ってたから、どこにいたのかは知ってるけどね」
咲は何も言ってなかったけど、先回りして連絡を入れてくれていたようだ。
「ごめん、ランニングの後バッタリ会ってさ。
お茶してたら寝ちゃったんだよ」
まあだいたいあっていて嘘ではない。お茶は飲んでないけど……
「父さんがランニングから帰ってくる前に出た方がいいわよ?
朝から彼女のところかーなんて言って、さっき嬉しそうにしてたからね」
「そろそろ時間だもんね……
早めに行くことにするよ。
とりあえず着替えてくる!」
僕は慌てて自分の部屋へ向かい制服へ着替えた。シャツとジャージを洗濯かごへ入れて台所へ向かう。バナナをかじりながらきな粉の袋を出して冷蔵庫へ、そして牛乳を取り出してコップへ注ぐ。
牛乳を冷蔵庫へ戻してドアを閉めると同時に、玄関でドアを開ける音がしてしまった。どうやら間に合わなかったらしい。こうなったら開き直るしかない。
「ただいまー、カズ戻ってきてるのか。
コノヤロー置いていきやがってよ」
「おかえり、コーヒー入ってるよ。
水筒へも入れておいたからね」
「おお、サンキューな。
しっかし昨日は呑み過ぎたな、途中から記憶がねえわ。
香も相当飲んでたけど平気だったか?」
「私は翌日へ引きずらない体質だから問題ないわよ。
ただちょっと寝不足なくらいね」
「カズも大人になれば飲むようになるさ。
特に野球選手は大酒飲みが多いからな」
「いや、僕は飲まないつもりだよ。
みんな酔っぱらってて大変だったんだからね……」
これはもちろん本心である。どう考えても酔っぱらっていいことなんて一つもない。あるとすれば酒飲みの共通認識として、その席が楽しくなるくらいか。
「まあ好きにすればいいさ。
それよりお前、口元に口紅残ってるぞ?」
「そんなわけ!?……」
慌てて口元をぬぐってみるがそんなのついてるわけがない。だって咲は口紅なんてつけて無かったはずだ。だがそれは今さっき自分がしてきたことを白状したも同然だった。
「なるほど、キスくらいはする間柄ってことな。
よーく覚えておこう。
お互いのためにも、避妊はしっかりしろよ?」
「そんなことまでしないよ!
ちくしょう、この変態オヤジ!!」
引っ掛けられた僕は、悔しさのあまり小さい子供みたいな暴言を吐いた。しかし相手は全く動じずにケラケラと機嫌よく笑っている。
「ちょっと、あんまり意地悪しないで早く学校行かせてあげなさいよ。
真弓ちゃんが言ってたけど、遅刻したら罰ゲームなんでしょ?」
そうさ、ひどい目にあうんだから、と言い捨てながら玄関を出た。
体のだるさは結構残ってて、学校までいつもより遠く感じる。ようやく部室へたどり着いたが、すでにほとんどの部員がやってきた後だった。
「ちっす、珍しく遅いですね。
主将もまだ来てないんすよ」
「木戸が遅いなんて珍しいね。
念のため連絡してみるかな」
そこへ由布がやってきて、扉の外から声をかけてきた。まだ着替えている部員がいるので入ってくるのはためらわれるらしい。主に匂いのせいだが……
「主将はどこかで買い物してから来るので少し遅れるそうです。
遅刻じゃなくて部のためだからって言ってました」
「マジかー、でも部のためってなんだ?
つーか、この時間じゃコンビニ以外やってねえだろ」
まさしく丸山の言う通りだ。更に付け加えるなら、ごっさん亭と学校の間にコンビニは無い。
着替え終わったころに、真弓先生がやってきた。決勝戦へ向けて朝もバッティング練習したいと言ったら、朝練を監視監督するために顧問らしいところを見せると言って、朝弱いにもかかわらず早出を引き受けてくれたのだ。
しかしその表情はさえない。昨晩あれほど酔っぱらっていたのだから、まあそれはそうだろう。それにしてもその表情はまるでゾンビ映画にでも出てきそうな醜さで、普段の真弓先生と同一人物とは思えないくらいだ。
「先生どうしたんですか!?
お水持ってきましょうか!?」
事情をしらない由布だが、原因は飲みすぎであると察しているようだ。真弓先生が頭を押さえながら力なく頷くと、由布は部室に置いてあるジャグを持って走っていった。
「真弓先生大丈夫ですか?
昨日は母さんと飲みまくっててかなりヤバそうでしたけど……」
小声で話しかけてもまたうんうんと頷くだけだ。戻ってきた由布から水を受け取り飲む姿を見ると、やっぱり酒は飲むものじゃないという思いが強くなる。
そこへ木戸が叫びながら走ってきた。
「おーい、すまん、遅くなった!
先にグラウンド行ってストレッチ始めててくれ!」
しかし部員たちは動かない。なぜなら木戸のほっぺたに貼ってある、大きな湿布が気になって仕方ないからだ。でもそれが何かわかっている僕と丸山は黙って知らないふりをする。
「主将、そのほっぺたどうしたんですか!?
しかもキッチンペーパーとガムテープじゃないですか!?」
「いや、ちょっとな……
行きがけに薬局寄ってきたんだけど、まだ開いてなかったわ。
文房具屋は開けてくれたんだが、目的の物は無かったし、散々だぜ」
「今救急箱持ってきますから!
そのままじゃかぶれちゃいますよ!」
「いや、このままで平気だよ!
大丈夫だからはがさないでくれー」
木戸の必死な抵抗むなしく、由布の手によってキッチンペーパーは剥がされた。そしてそこには見事に指のあとが残ってるではないか。もしかしたら腫れちゃったのかな、くらいに思っていた僕は、思わず吹き出してしまった。すると他の部員も笑い出す。
「こら! 笑ってないで練習行けよ!
俺だって朝鏡見て大笑いしちまったけどよー」
「これどうしたんですか?
どう見ても女性に叩かれたって感じですけど……」
「いやあ、昨日の夜な、酔っぱらった真弓ちゃんに力いっぱいひっぱたかれたのよ。
そんでそれがそのまま消えてないってこと」
すると、ゾンビみたいに力なくしゃがみこんでいた真弓先生が突然立ち上がり、大きな声をだして抗議した。
「何言ってんの!
あれはあなたが悪いんでしょうが!
私も確かに飲みすぎてたけど! あんな…… えっと…… 」
段々歯切れが悪くなっていく気持ち、よくわかります。きっと僕と丸山は同じことを考えていただろう。だからこそ、顔を見合わせて苦笑いするしかなかった。
結局言いたいことを言いきれなかった真弓先生は、自分の大声で頭痛がひどくなり、とぼとぼとグラウンドへ歩いて行った。