夢心地
次に目が覚めた時にはもう昼を回っていた。もちろん玄関先で転がったままだったけど、どうやら咲がタオルケットをかけてくれてたようだ。
「おはよう、よく眠れたかしら?
さすがに一週間休みなしに動いていたから疲れていたんでしょうね。
かわいい寝顔でぐっすりと寝ていたわよ」
「そっか、寝ちゃったのか。
なんかごめん、咲の事ほったらかしにしちゃってさ」
「あら、そんなこと気にしてるの?
私はキミのかわいい寝顔をじっくり見られて楽しんでたから気にしないでいいのよ」
そう言った咲は、廊下と台所の間にクッションを置いて座り、手元にはお盆に載せた急須と湯呑が置いてある。どうやら本当に僕を眺めてずっとここにいたようだ。
「朝ごはんも食べてなかったからお腹すいたんじゃない?
用意してあるけどすぐ食べるかしら?
でも先にシャワーくらいしてきた方がいいかもしれないわ」
「確かに…… ランニングから帰ってきてそのままだったな。
ちょっとシャワー浴びてくるよ」
風呂場へ向かおうとした僕に咲がさっと近寄ってきて軽くキスをした。
「ご飯用意しておくわ。
足元に注意していってらっしゃい」
「う、うん…… ?」
言葉としてはおかしくないものの、いくらなんでも小さな子供でもあるまいし思いながら立ち上がると、思うように力が入らず足ががくがくしていた。もしかしてと思いながら、いったんしゃがみこんでからもう一度立ち上がり、ゆっくりと風呂場へ向かった。
何とか風呂場へたどり着いた僕は、熱めのシャワーを頭から浴びながら考え込んでいた。
『これって精気が吸われたって状態なんじゃないか?
いったいどうなっちゃってるんだろう』
それでもシャワーを浴びているうちに体の端々まで力が入るようになっていく。そうさ、寝起きで頭がぼやけてるから力が入らなかっただけさ。僕は自分へそう言い聞かせていた。
台所へ戻り咲が用意してくれていた昼飯を二人で食べる。本当のところを聞いてみたい気もするけど、きっと以前言われたような説明を繰り返されるだけで、それが本当の事なのかどうかはわからないだろう。
かと言って、こうやって黙々と食べているだけだと何となく気まずくなってくる。しかし二人の間に不穏な空気が流れているかと言えばそんなことは無く、どちらかと言えば暖かい空気が流れているように感じる。
茶碗を手にしたまま上目で咲を見ると、僕の視線を待っていたかのように咲と目が合った。
「どうしたの?
力が抜けちゃったわけが知りたいの? また」
「いや、そうじゃないけどさ、黙ったままなのは良くないような気がしただけさ」
「うふふ、考えすぎよ。
それとも誰かにそう教わった? 男は女をリードするもの、とか?」
「そんな世間の古い風潮みたいなことは考えてないさ。
咲だってそんなこと考えてないだろ?」
僕は同意を求め、きっと咲は同じように考えていることを疑っていなかった。自分からグイグイ迫ってくる咲の事だ、きっと古い考え方はしていないだろう。
しかし咲から帰ってきた答えは僕の想像を超えたものだった。。
「あら? 私はキミにリードしてもらいたいわ。
別に男性にリードしてもらいたいってわけじゃなく、キミに、ね、
キミの言うことならなんでも従うし、要求があるならなんでもその通りにするつもりよ」
「な、なんでもって!? そうやって嘘ばっか言ってからかってるんだろ?
今まで僕の要望なんて聞いたことないじゃんか」
「そんなことないわよ。
大体キミが私になにか命じたり要望を言ったりしたことがあったかしら?」
僕はしばし考え込んだが確かにそれは咲の言う通りだ。しかしそれは僕が何か言う前に言葉をさえぎられていたからのような気もする。
「本当に僕の言うことならなんでも聞く?」
「ええもちろん。
何なりと仰ってください、ご主人様」
茶化しながらおかしなことを言った咲は、僕の目を真っ直ぐに見据えて微笑んでいる。その笑顔を見ているだけで僕は満足してしまう。だから要望、要求なんて特に思い浮かばないのかもしれない。
食べる手の止まっている僕を咲はじっと見つめ続けている。そんなに見られていると蛇に睨まれた蛙のごとく何もできなくなってしまう。
「どうしたの? あーんって食べさせてあげた方がいいかしら?
それとも口移しがご希望なのかな?」
「そんなわけないじゃん!
ちゃんと自分で食べるよ」
僕は卵焼きの最後の一切れを箸でつまむと口に運ぼうとした。
「あ、最後の一つ食べようと思ってたのに」
思わず口へ向かっていた手が止まる。卵焼きをつまんだままで咲を見ると、微笑み返してからゆっくりと口を開けてあーんと声に出した。
仕方なく咲の口へ卵焼きを運ぼうとすると、そこには大きく開いた先の口が目に入る。艶やかな唇、唾液で濡れて湿った口内、つい先ほど僕口の中で動き回っていた濃い桃色の舌までがはっきりと見えていた。
もしかしたら箸を持つ手が震えていたかもしれないくらいに、僕の心臓は鼓動を早くしている。卵焼きを咲の口へなんとか送り届けると、フルカウントからコーナーへ投げたストレートがうまく決まったくらいの疲労感を覚えた。
「あらあら、これくらいで緊張しすぎじゃないの?
まったくかわいいんだから、キミったら」
「あんまりかわいいかわいいって言わないでくれよ。
子ども扱いされてるみたいで恥ずかしくなってくるんだからさ」
「でもかわいいものはかわいいんだから仕方ないでしょ。
それともかわいくないって言われた方がいいのかしら?」
「そういうことじゃないだろ……
ごちそうさま! ありがとう、おいしかったよ」
「どういたしまして。
食後に甘いものが食べたいわね、ブラウニーとか」
僕は思わず流しに下げる途中だった茶碗を落としそうになった。なんでここでブラウニーが出てくるんだろうか。昨日亜美に貰って食べたことを、まさか知っているはずもない。
「ぶ、らうにい…… ?」
「そうよ? チョコレート嫌いかしら。
昨日養護園へ行ったときに小町と一緒に焼いたのよ。
そこから少しいただいてきたのを持って来たの」
なんという偶然だろうか。そりゃ昨日の出来事を咲が知っているわけがない。まったく偶然と言うやつには驚かされてしまう。
「そっか、昨日一緒に行ってきたんだったね。
どんなところか知らないからちょっと気になってたんだ。
あ、今コーヒー淹れるね。
紅茶のほうがいいかな?」
「ううん、コーヒーがいいわね。
牛乳あるからカフェオレにしようかしら」
「いいね、僕もそうするよ」
僕はコーヒーメーカーをセットしてから洗い物を始めた。その間に咲は食器棚からマグを二つ取り出してテーブルへ並べている。いつの間にか自分の家から持って来たマグは、まるで初めからそこにあったかのようだ。
コーヒーが入った後、僕たちの話題は昨日の出来事についてだった。僕は昨日の試合の事、咲は養護園の事などだ。
そしていつの間にか咲は隣に移動してきて、僕の膝の上に手を乗せていた。隣に座っている咲からはなんだかいい香りが漂っている。香水みたいに強い香りじゃないけど、なんだか心地よくなってくるいい香りだ。
お腹がいっぱいになって、甘いものを食べて満足感でいっぱいになった僕は、また眠くなってきてしまったのか、ついうとうとしてしまい咲に向かってもたれかかる。
すると、もたれかかった僕の頭を柔らかなふくらみが受け止めた。咲はそのまま僕の頭を優しく撫でながら撫でてくる。
また子ども扱いか、と思いながらも僕は眠りについてしまった。