表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

右の私が嘘をつく

作者: Bull Martini

 手のひらに世界で一番嫌いなものが乗っている。腑に落ちない違和感がノイジーな朝よりも先に、私のまぶたをこじ開けた。

 カーテンを開けたまま寝ていたせいで、部屋の中は目がくらむほど眩しい。なのに体温と同じになった布団が起き上がる決心を鈍らせる。

 うんん、眠い。このままずっと布団の中でとろけたい。はあ、今日は学校の後に大切な用事があるから、もう起きないと。

 頭の中では、がばっと起きて、スマホにかじりついているはずなのに、イマイチ手応えがない。布団ごとサイドテーブルに手を伸ばすと、鈍い音の後にかすかな振動があった。それがスマホの落下音だとわかるのに時間がかかる。今度は本当なのに、ものを掴みそこねた感触が一切ない。手元を見ると、右手がげんこつのまま固まっている。

 これって私の手だっけ。なんか……変。

 顔をかしげ、瞬きを繰り返す。

 そこにあるのは十六年間苦楽をともにした、紛れもない私の手だった。蜜柑を少しふっくらさせたくらいの大きさで、肌艶もよくて赤ちゃんみたいなぷりぷりした指が並ぶ手は、友だちはもちろん親戚のおばちゃん達からも、かわいいと評判だった。ただ今見ると、何かの勘違いかもしれないけど、少しだけ変な感じがした。そのとき、頭の中に何かがよぎった。

 えーとなんだっけ、あれよあれ、たしか、あっ……。記憶の糸を辿ろうとしたけど、わざと間違えた。

 体を起こし、しわを数えられる距離まで手を近づけると、指先に隠れた小さい半円が見えた。

 ――そいつは呪いだ、急いで逃げろ!

 胸騒ぎにまじって不吉な言葉が響いた。

 でも、私の体はその先を見たくてたまらないらしい。顔をそむけ、腕をできるだけ遠くに突き出したまま、手を開く。眠気は嘘みたいにない。次の呼吸で顔を戻すと、薄まった視界に少しずつ色が加わって、肩から流れた視線が手元までくると、手のひらに乗った円形の物体がはっきりと見えた。それは服飾に使う裁縫ボタンだった。

「夢じゃなかった……」

 なぜそう言ったのかわからない。ただ胸の中でぼやけていたものの正体が、明らかに嫌悪だとわかると、たまらずベットから飛び降りた。ベットの部品から伝わるものか、それとも体の部品のヒステリックなのか、そこらじゅうから軋む音が聞こえる。目に入る光景はいつもより鮮明で、ちぎれるほど振り切った右手はハチドリが羽ばたくよう幾重にも舞い、踊り狂った両足には床じゅうの衣類がまとわりつき、団子状の足かせができていた。片側の足をバタつかせた拍子に、振り子球のように大きく反復する電気の紐が、顔のどこかに引っかかって、半身ほど仰け反る。もう上も下も、縦も横もわからない、この部屋はきっと宇宙なんだ。

「疲れた……。なんか、もう、息できない」

 乱暴な呼吸が言葉をさらう。

 驚くことにも疲れた、なにも考えたくない。そう思いながらベットに腰を下ろすと、光に透けたほこりが空中でぐるぐるまわる。

 右手にずっと振り回されるのも癪に障るから、こんどは私の方から瞳いっぱいに見つめてあげた。一円大のそれは体の新しい部位のように、手のひらの中心にぴったり張り付いていた。黒い裁縫ボタンは木製なのに貝殻のような光沢があって、角度によっては明るいところと暗いところに分かれていて、表面にはうっすらマーブル模様が浮かんで見えた。指先を押し当てると手のひらがくすぐったいだけで、ボタンに触れている感覚がない。息を吹きかけても、ひっくり返した手をぱたぱた仰いでも離れない。ボタンに鼻を近づけると昨日の入浴剤がわずかに香った。テレビで見た拡張現実とか、そういった科学的な現象に似ているのかもしれない。私の右手には、目に見えるけど触ることのできない不思議な物体が、確かに存在する。

「何これ嘘みたい……」

 そうつぶやいた瞬間、頭の中が白く光って昨夜見た夢の記憶が甦った。

 ああそうだ、確かパン吉が出てきて……何かをお願いされたんだ。お願い? いや違う、もっと乱暴で、強制力があって、束縛的な……。

 一度でもそれを思い出すと本当のことになると思って、私は必死に忘れようとしていた、でも全部本当のことだった。

 ああ、せっかく忘れられそうだったのに、せっかく……。

 そのとき、爆発的な衝動がこみ上げてきて、叫ばずにはいられなかった。

「どうしよう私呪われちゃった!」

 手のひらのボタンは一見ただの洋服のボタンだけど、元を辿ればパン吉の目玉だ。パン吉は私が物心ついたときから家にあったパンダのぬいぐるみで、はじめてできた友人だった。三十センチの友人は抱き心地が良くて遊ぶときも寝るときもずっと一緒だったから、最初の頃にくらべると白い部分がだいぶ黄ばんでいた。ある日パン吉の片目が取れて大泣きしたことがあって、それを知ったおばあちゃんが裁縫箱からこのボタンを探してくれた。ちゃんと目玉らしく見えるようにって、四つの穴に糸がばってんに交差するように縫ってくれたけど、そのせいでかわいかったパン吉が、数々の死線を乗り越えた凄腕の兵士みたいになっちゃった。でも今はパン吉のボタンは呪いそのものだ。

 これがあると……嘘だ、絶対に嘘だ、私は信じない。

 振り向いた勢いで手のひらを壁に叩きつけた。このまま手のひらのボタンが潰れて消えてしまえばいいと思って、何度も何度も叩きつけた。

 手のひらにピリッとした刺激を感じた頃、怪獣のように叫ぶお母さんが、

「ちょっとかえでー! さっきからバタバタうるさいわよー」

 一階では、けたたましい朝の日常がはじまっていた。

 こんな朝だから食欲もわかない。目玉焼きとトーストを交互に眺めながら、フォークの先で黄身をつぶす。こどもみたいに食べ物を使ってふてくされている自分にも、少し苛立っていた。

 お母さんになんて言えば良いんだろう。はあ、今日は学校に行きたくないな。

 お腹痛い、服が乾かない、靴がない、電車が止まった、学校に隕石が落ちた。可能な限り休む口実を考えた。

「ちょっとあんた、まだ食べてなかったの」

 通りがかったお母さんが、呆れながら言った。

「ねえ今日学校休んじゃだめ」

「どこか具合でもわるいの」

「違うけど……」

「じゃあ早く支度しなさい」

「だって呪いなんだよ」

「寝ぼけたこと言ってないで顔洗ってきなさい。あんた今日は病院行く日なんだから、学校が終わったら寄り道しないで帰ってくるのよ」

「……うん、わかってる」

 昔の人に繊細な悩み事は一切通じない。なんていうか、考え方が物理的で物事がうまくいかないときは、叩いて叩いてそれを捻じ曲げればすべて丸く収まる、そう思い込んでいるのだ。私はそんな大人にはなりたくない! よし学校行こう。

 身支度を済ませて、玄関の鏡を覗く。

 ああ、やっぱりだ、今日はあまり可愛くない日だ。なるべく顔伏せておこうっと。

 つま先を蹴って靴を履く。ドアノブに手をかけて、

「じゃあ、お母さん学校行ってくる」

「ほら楓、お昼代忘れてるわよ」

「また忘れるところだった、ありがとう」

 振り向いて、右手を差し出す。

「あら、楓その手……」

 いけない。咄嗟にグーに変える。

「肌荒れしているからハンドクリーム塗っていきなさい」


 なにこれ……、足が鉛みたいに重い。すこしでも立ち止まったら、もう絶対動けない。

 きっと誰かが冗談で私の足にしがみついている、そう思った。一歩一歩がとにかく苦痛で、歩き方もうまく思い出せない、だから前にいる家族の真似をした。結局、私は家に帰るまで家族の誰とも口を利かなかった。

 おばあちゃんが死んじゃう。小さい頃からずっと一緒だったけど、少しずつ体調を崩していって、私が中学を卒業するときにはもう病院で生活をしていた。おばあちゃんとは誕生日が同じで、毎年お祝いし合うのが楽しみだった。このままずっとずっと一緒だと思ってたのに、おばあちゃんがいなくなるって考えると、急に怖くなった。

 夕食も喉を通らない。だけどお父さんとお母さんはよく食べる。口に入れたものをダムみたいに次々に飲み込んでいく。この二人は悪魔だ、おばあちゃんは食事も取れず病院で苦しんでいるのに。

 お父さんが、私の手付かずのハンバーグを覗き込む、

「楓、それ食べないならお父さんがもらうぞ」

「いいよ全部食べて」

「どうした食欲ないのか」

 お父さんは、箸を止めて私をまっすぐ見つめる。それを見て、抑えつけていた怒りが飛びついた。

「だっておばあちゃんが死んじゃうんだよ!」

 持っていた箸をテーブルに叩きつけた。声を荒げても意味がないこともわかっていた、でも叫びたかった。

 お父さんはそれを気にする素振りも見せず、

「今日の病院でのことが気になっているのか。そうか楓は肉親の死没に立ち会うのは初めてだもんな。親父が死んだときはまだお腹の中だったし」

「お父さんもお母さんも平気なの。さっきからあっけらかんとして、なんかひどいよ……」

 お父さんは眉間にしわを寄せて黙り込む。ひと呼吸間を開けて、

「お父さんもお母さんも本当は悲しいよ。でもね楓、お父さんたちは大人になるまでに大小様々な命の別れを経験してきたんだ。捕まえた昆虫が翌朝ひっくりかえっていたり、飼っていたペットが交通事故で死んだり、そして友人や肉親との永遠の別れ。最初はいまの楓みたいにとても悲しい気持ちになったよ。でもね、いくら悲しんでも死んだものは決して生き返らないし、死ぬという現実は変わらないんだよ」お父さんは私の目を見つめたまま、「では、そういうときどうすればいいと思う。受け入れるしかないんだよ」

「じゃあ教えて、受け入れるってどうやるの。もうつらいよ……」

 うつむいたまま、声を絞り出した。

「それはね、普通でいてあげることだよ」

「普通……」

「そう。普段どおりいつもの生活をするってことだよ」

「それって冷たすぎるよ」

 お父さんがゆっくり椅子にもたれかかる。腕組みして首をひねりながらうんうん唸ると、次の呼吸で顔を上げて、

「例えば、例えばの話だけど……。楓が死んじゃうことになって、そのときお父さんたちが楓にしがみついて、『かえで死なないでおくれ。かえでとお別れするなんて、ヤダヤダヤダ』ってずっと泣きわめいていたら、楓はどう思う」

「つらくてたまらない。胸が苦しくなる。悲しまないでほしい」

「なっ、そうだろ」

「あっ……」

「それはおばあちゃんも同じだよ。おばあちゃんはお父さんたちよりも、もうずっとずっと人生の先輩だから、そんなことはとっくにわかっているんだよ。だから悲しむより、最後まで普段どおりに接してあげるのが一番なんだよ」

「……わかった、やってみる」

 にこにこしながら、お父さんが私のお皿に箸を伸ばす。

「だめっ! 食べるってば」


 「十二番の番号札をお持ちの方、Dの診察室へお入りください」

 アナウンスが流れてお母さんが立ち上がる、私とお父さんもあとに続いた。

 通された部屋はいつもの診察室とは異なり、イスとテーブルの他には観葉植物が置いてあるだけで、あとは何もない。そこに白衣姿の先生が入ってきて足早に私達の前に座る。先生は挨拶を済ませると、持参したバインダーを険しい表情で見入っていた。静まり返る部屋の中に、バインダーの紙をめくる音がうるさいほど響いた。この部屋で聞こえる音はそれしかない、そう感じたとき、先生はお母さんに向かって、

「もって一ヶ月でしょう」

「先生、他にできることはないのでしょうか」

「残念ですが、お母様はご高齢で手術に耐えられる体力はもうありません。どうか最後まで一緒に過ごしてあげてください」

「――わかりました」」

 ずっしりと響く言葉のやり取りが永遠のよう長くに感じた。先生が退室したあとの、お母さんの真剣な表情が頭から離れない。

 息が続くまで潜り続けた。何度も何度も繰り返し、ただ潜った。そうすれば、何かが変わるかもしれないと思ったから。

 大きなしぶきのあとに、浴槽からお湯があふれる。嗚咽混じりの荒々しい呼吸がお風呂じゅうに響いた。

 病院で人の命が終わることを告げられた、それも一番大好きなおばあちゃんの。

 明日、どんな顔でおばあちゃんに会えば良いんだろう。普段どおり普通に接する、今の私にはとても難しく感じた。

 両手ですくったお湯が指の間から流れ落ちる。きっと命もこうやって消えていくんだろうな。逃避しようとする私の心を強引にでも納得させたかった。間をあけると、浴槽に自分の本心が透けて見えそうだったから、お湯をぐしゃぐしゃにかき混ぜて逃げるようにお風呂から出た。今日はもう寝よう。


 灰色のもやの中を歩いていた。視界はかろうじて一メートル先が分かる程度で、全体が同じ色調のせいか目を凝らしても何を見ているのかよくわからない。足元がふわふわして歩きにくいけど、このまま進めばきっと夜が明ける、そんな気がした。夢は意外と重労働だ。

 直接聞こえるというよりも、意識に入り込むが正しい。それが天使の声だと言われれば納得してしまう、そほど美しく温かい。賛美歌や神の祝福のようにどこか心地良く、いつまでも聞き入ってしまう声だった。

 この声さっきからずっと聞こえてくる。遠くにいるのか近にいるのかよくわからないけど、透き通っていてすごく綺麗。これって、もしかして私に話しかけているのかな。少しこわいけど、返事とかしてみようかな……。

 そのとき、ふわっとしたものが体の中を抜けていった。

「はい、その通りです」

 立ち止まった勢いで前屈みになり、その反動で半身ほど後ろへ下がる。跳躍したがる体を抑えつけるのが精一杯だった。

 一体どういうこと、私の考えていることが誰かに伝わっている……。それに、耳じゃない場所から声が聞こえてきて、すごく変な感じがする。

「驚かせてしまい申し訳ございません。これは疎通嗜そつうしという会話法を使って、あなたの意識に直接語りかけています。不思議な感じがするのはそのためでしょう」

 通り過ぎた言葉を呼び止めても、状況を理解することができなかった。

 今聞こえた声って私自身が思い浮かべた言葉なのかな、それとも私が変になっちゃったのかな……。

 今度は頭の中に言葉を浮かべながら、

「あの、さっきから声は聞こえるのですが、あなたの姿がどこにも見えません。それともこれは幻聴とか幻で、全部私の勘違いですか」

 あちこち首をねじって声の正体を探す。見えるのは灰色の靄ばかりだった。

わたくしに物質としての概念はありません。ですから姿というものがないのです」

 すごい、本当に返事がきた、やっぱり誰かいるんだ。でも、姿が見えないから少し話しずらいな。

「簡単です、声の主がそこにいると意識すれば、あなたのイメージする私の姿がきっと見えてくるでしょう」

 不思議なことに懐疑の念は一ミリも湧かず、今まで生きてきた中で、言われたことを一番素直に受け入れることができた。

 考えているだけで私の意思が伝わっている、これ気をつけないと変なことも言っちゃいそう。えーとえーと……そこいる、そこにいる、そこにいる。

 念仏を唱えるよに繰り返していると、頭の中にもやもやした影が浮かび上がった。私は開き直って叫んだ。

「そこにいる!」

 声が去ったあと、目の前の靄がとぐろを巻きながら一箇所に集まり三十センチほどの塊になると、手足のような突起が生えてきて見覚えのある形に変わった。それは大好きなパンダのぬいぐるみだった。

「ぱ、パン吉! パン吉じゃない、どうしてこんなところにるの」側に駆け寄り、同じ目線にしゃがみ込む。ぬいぐるみのあちこちを暴力的に撫で回すと、そのたびにパン吉から花びらのような光の粒が舞った、「パン吉がいなくなってすごく寂しかったんだよ。また会えて本当に嬉しい。なんかね、いまのパン吉キラキラしててすごく綺麗」

 無機質だったパンダのぬいぐるみが、突然ぐいと顔をあげる。

「残念ですが私はパン吉なる者ではありません、その者はだいぶ以前に物質としてのめいこくを終えています。今見ているのは楓さんの中に残るパン吉の魂の欠片が、私の姿として映っているのです。ただ楓さんによって命を吹き込まれたパン吉はとても幸せな日々を送ったのでしょう、光の若子わかごが集まって螺旋を組んでいるのはそのせいです。若子らはいずれ魂となって新しい命を刻むことになるでしょう」

 パン吉の言葉だとわかるまでに時間がかかる。

 目の前にいるのはパン吉、でも違う……。あーダメだ私には理解できない、頭がどうにかなっちゃいそう。

 デタラメに呼吸をして無理やり気持ちを落ち着かせた。

「あ、あなたがパン吉でないとすると、一体誰なんですか。私の名前も知っているみたいだし、それにさっきから魂とか命とか、なんかすごいこと言ってる……」

「楓さんのお名前はしっかりと魂に刻まれています。私はすべての魂を総収する死神です」

「ししし、死神!」

 私は両手で口を塞いでめいっぱい息を止めた。なぜそうしたかと言われれば、死神は人の口から魂を抜き出して命を奪う、という古典的なイメージが湧いたからだ。でもすぐに苦しくなった。

「し、死神って、すごく大きな鎌を持った骨の顔をした人だと思っていました」

「先程もお伝えしたように、私の姿は意識の中で生まれます。強い恐怖心を抱いた状態で私の姿を見たならば、きっと楓さんの仰るような姿を見ることになるでしょう」

 パン吉の姿をした死神は、ずっと同じ形のまま私のことを見つめていた。

 すごい、やっぱりこの人本物の死神なのかもしれない……。

「あの、私になにかご用ですか。そ、それとも……、もしかして私死んじゃいますか!」

「確かに死神は命の宣告をすることもありますが、本日はそれよりも前の段階についてお話があります」

 視界がこれでもかと大きく広がって、まぶたよりほんの少し前に死神の存在を感じた。

「根岸イネさんはご存知でしょうか」

「それって……私のおばあちゃんの名前ですよね。今日病院で、おばあちゃんの命があまり長くないことを知らされました。あの、死神ならそういったこともご存知だったんですか」

「確かにイネさんの命はもうじき終わります。ですが命の終わりは全てのものに訪れるので、必ずしも悲観すべきことではありません。それよりもイネさんの場合、走馬灯が見れないことの方が深刻なのです」

「そうまとう……。それってテレビや映画とかで、主人公が死ぬ思いをしたときに見る、人生の名場面集みたいなものですよね。それが見れないとおばあちゃんはどうなるんですか」

「人は死の淵に立ったときに必ず走馬灯を見ます。それは人の魂が、肉体から離れるか否かを決めるための通過儀礼なのです。自身が歩んだ人生を振り返り、生きたことに十分納得したならば、魂は肉体から離れ次の命になる準備に入ります。ただイネさんの場合、今のままでは走馬灯そのものが見れないのです。そうなるとイネさんの魂は今のまま肉体に留まろうとするでしょう。しかし、命が終わった肉体はその形を維持することができず消えていきます。イネさんの魂は意識を持った状態で、つまりイネさんの人格を保ったまま、消えることも次の肉体へ向かうこともできず、永遠に彷徨い苦しむことになるのです」

「そんな……まるで生き地獄じゃない。おばあちゃんを今よりひどいめ目にあわせたくありません、なにか方法はないのですか」

「走馬灯を見るには嘘と真実が必要です。人は生きる過程で嘘をついたり真実を語ることで善悪を学び、人間本来の形に成長していきます。通常はそれで走馬灯を見る準備が整うのですが、イネさんはとても正直に人生を歩んだ方なので嘘の数が足りず、未だ人間の形に満たないのです。当然走馬灯も見ることはできません。かといって、今のイネさんには、もう嘘を重ねる体力も残っていないでしょう。ただひとつだけ方法があります、楓さんがついた嘘をイネさんに吸わせれば、その影響で人間の形へと成長することができます」

「嘘を吸わせるって私そんなこと一度もしたことないんですけど、どうやればいいのですか」

「イネさんに対して嘘をつけばいいのです。それもできるだけ多く」

「嘘をつく……。私にはそんなことできません。おばあちゃんのこと大好きだから、今までも一度も嘘なんかついたことない」

「それでは楓さんに呪いをかけましょう。呪いといっても対象の息の根を止める強力なものから、くしゃみをさせる程度の小さいものまであります。たった今楓さんにかけた呪いは、おまじない程度の極小さなものです、右手についた印が消えるまで嘘をつくといいでしょう」

「ちょ、ちょっと待ってください! 私に断りもなく呪いをかけるなんて、いくら死神でもひどすぎます。それに、あれ……」

 パン吉の姿をした死神は音もなく消えていた。目の前には灰色の靄が漂っているだけで、死神がいた痕跡をまるで感じない。静まり返る空間の中で、私は佇んでいた。

 一体なにが起こったんだろう。突然パン吉が現れたと思ったらそれが死神で、このままだとおばあちゃんは走馬灯が見れないからって私に呪いをかけた。そんなはずない、きっと夢だからこんな訳のわからないことが起きたんだ。そうだこれは夢だ、夢にきまってる。思いつく限り体中つねる。よし、どこも痛くない、良かったやっぱり夢だった、夢で本当によかった、おやすみなさい……。


 あれ、おっかしいなあ。もう午後なのにちっとも顔が戻らない。

 病院に向かう途中、歩きながら手鏡を覗く。いくら顔の角度を変えても、自分の部屋でしかやらないとびきりの笑顔をつくっても、どうしても可愛くならない。

 いつもはもっと可愛いのに、本当だよ、本当に可愛いのに。

 横を歩くお母さんは、私と目が合うたびにため息をついた。冷え切った視線を私に向けながら、

「あんたさっきから何やってるの、もうすぐ病院に着くんだからちゃんと歩きなさい。おばあちゃんの前で、今朝みたいに大声で叫んだり変なこと言っちゃダメだからね」

「わかってるって、だってあれは……」

 また物理に負けた。

 私達が病院の中に入るときは、建物の裏手にまわって、一般口ではない面会専用の入り口をつかう。豆粒ほどの照明がついたドアの脇に、ねずみが入りそうな小さい窓があって、その中に守衛さんが一人で座っている。お母さんは備え付けの面会用紙に二人分の名前を書くと、守衛さんと一言二言交わして建物の中へ入った。私は背中にくっつきそうなくらい、お母さんのすぐ後ろを歩く。

 エレベーターを待つお母さんの横顔は、もうすっかりおばあちゃんの娘の顔になっていた。

「ほらまた手がカサカサになってるから、ハンドクリーム塗っておきなさい」

 お母さんは、前を向いたまま小さい容器を差し出した。他人行儀な距離感が少し怖かったけど、おかげで心の準備ができた。今から私は、おばあちゃんに嘘をつく。

「あれ、こっちじゃないの」

「これからお世話することも増えるから、先週から個室に移ったのよ」

「そうなんだ……」

 お世話の意味はなんとなく理解できた。

 同じ扉がいくつも並ぶ廊下を歩いていると、お母さんが急に足を止めた。側にある扉を見ると、「根岸イネ」と書かれたプレートがあった。お母さんは振り向いて、「静かにね」と私に一言告げると、パイプの手すりを掴んで扉を真横に引いた。重々しい動きのあと、扉は音もなく壁の隙間に吸い込まれた。

 入ってすぐ正面に、アコーディオン状に波打つ白い生地の衝立ついたてがあって、外からは中の様子がわからない。お母さんは、衝立の端から中を覗き込むように顔を出して、

「母ちゃん、陽子だけど入るわよ」

 そのまま室内へ進み、私も恐る恐るあとに続いて、

「おばあちゃん、きーたよ」

 中に入ると、寝巻き姿のおばあちゃんがにこにこと笑みを浮かべながら迎えてくれた。

 病室は六畳ほどの広さで、内装は床と壁と天井が全て白で統一されていた。ベットは左側の壁に頭が向くように配置されていて、手前には来客用の丸椅子が二つ並び、その背面に小さいシンクがあった。ベットの奥側は人一人分のスペースと、壁に両手を広げたくらいの窓があって、厚手の白いカーテンが半分かかっていた。

 私達が部屋の中央まで進むと、おばあちゃんは起き上がり、布団をめくってベットから降りる素振りをみせた。それを見たお母さんは慌てて傍に駆け寄り、強引におばあちゃんを寝かせて、また布団をかけた。

 でも違うよお母さん、それだと、また物理だよ……。おばあちゃんは嬉しくてベットから飛び起きたんじゃなくて、きっとこの部屋から逃げ出したかったんだよ。だってこの部屋、生きていく為の部屋に見えないんだもん。普通なら入院中の患者さんが前向きな気分になれるように、綺麗な画が飾ってあったり、観賞用のテレビや本棚があるのに、この部屋には花瓶一つ置いてない。あるのは機械のコードがだらしなく繋がれたベットと、白く濁った窓だけだ。こんな命の終わりを待つだけの部屋じゃ、おばあちゃん逃げたくもなるよ。

「それじゃ楓、あたし先生のところに行ってくるからね、おばあちゃんのことお願いね」

「えっ、うんわかった」

 あっという間だった。おばあちゃんに何かを告げると、お母さんは忙しない動きで身の回りのお世話をはじめた。おばあちゃんの着替えを手伝ったあと、ベット下のかごに溜まった衣類を新しく入れ替えて、布団のシワを直したついでにベットまわりの拭き掃除がはじまって、そうかと思ったら部屋中あちこちにお母さんの手が伸びていった。

 次に呼吸をしたときには、もともと清潔だった病室が、もっとピカピカになっていた。一切の無駄な動きを省いた人間の姿が、ここまで美しいと感じたことはない。まるで最新の工業ロボットとか、作法を極めた武芸のようで、はじめてお母さんを尊敬することができた。

「おばあちゃん、窓開けよっか」

 お母さんが残した武芸の空気に触発されて、私も何かお世話がしたかった。

 窓を開けると、爽やかな風と暖かい光が入り込んで、部屋の雰囲気が一気に明るくなった。もうすぐ夕方なのに、からっと晴れた秋の日差しが気持ちいい。

 通り過ぎる風を感じながら振り向くと、白い壁に反射した光が、おばあちゃんの顔を照らしていた。でも、おばあちゃんは眩しそうな素振りは見せないまま、

「え、外の天気……。、うん、真っ黒ですごく分厚い雲しか見えないから、きっともうすぐ夕立がくるんじゃないかな。こんなに気分の悪くなる天気は見たことがないよ……」

 おばあちゃんにはじめて嘘をついた。

 右手から伝わる強烈な違和感が、嫌悪の炎になって私の全身を包み込む。熱いなんてものじゃない。ここから逃げだしたい。白一色のこの部屋が、真っ黒になった私をこれでもかと拒絶する。ベットの上でにこにこ笑うおばあちゃんを、まっすぐ見ることができない。きっと見透かされるのが怖いんだ。なにより平気な顔して嘘をついた自分が嫌でたまらない。もうこんな自分でいたくない。その日は、どうやって帰ったか覚えていない。ただ、言いようのない不快感が右手にハッキリと残っていた。


 学校でも家でも、どこへ行くときも、右手を握り込んで指をぐにゃぐにゃさせるのが癖になっていた。

 教室の隅でスマホを眺める優子に、

「あのさ優子、ちょっと話があるんだけどいいかな」

「ん」

 はいの相槌なのはすぐにわかった。優子を廊下まで連れ出して、

「今から言うことはすごく変なことだから、驚かないで聞いて欲しいんだ」少し間を開けて、「……じゃあ言うね。例えば、例えばの話だけど、優子って呪いとか信じる? ほら漫画とか映画でよくあるじゃん、そういった話とか信じるかなーって」

 スマホに夢中だった優子が、急に小刻みに震えだして、

「やだ楓、もしかしてオカルトにハマったの。なんか思春期みたいで超かっこいいじゃん。どれどれお姉さんに詳しく話してごらん、格安で相談に乗ってあげるわよ」

 顔をニヤつかせながら、逆さまにしたオーケーサインを胸元で揺らす。

 聞いた私が馬鹿だった。そういうことじゃなくて、もっと根拠のあることを聞きたかった。科学の飯田先生ってまだ残ってるかな。

「ほーら、か・え・で。はやく言った言った」

 優子の目が親戚のおじさんのように、いやらしく光る。

 優子は私で遊ぶ気だ。ち、ちくしょうめ。

「……。あの、では発表します、心して聞いてください。例えば、好きな人に自分の気持ちを伝えたいけれど、その人の為にも絶対に真実を伝えることができない、または正反対のことを言わなければならない、という状況になったら優子はどう思う」

 優子は気取った感じで顎を触り、黙り込む。私は知っている、これなにも考えてないときの優子だ!

「それって……逆に燃えるよわね。なんかこうハードルが上がるほど、思いが募るっていうか、成し遂げたときに得られる幸福が増大しそうじゃない」

 思わずうなずきそうになった。でも、私はこういう優子が好きだ。

「えーと……。じゃあ、それが全部呪いのチカラによって、そういう不本意なことが起こったとしたら、優子は自分の行動に納得できるかな」

「は、なにそれ。だって全部自分でやったんでしょ。呪いとか関係ないっしょ」

 優子は絶対物理だ。おかあさんと同じニオイがする。

「そ、そうだよね、自分のせいだよね。……あっいけない、今日寄るところがあるから、悪いけど先に帰るね。話聞いてくれてありがとう。私やっぱり優子のこと好きだよ」

「おう、いつでも嫁にこいよ」


 おばあちゃんに嘘をつくために、毎日病院に通った。

 お母さんは優しい、学校は死ぬほどつまらない、みかん嫌いだからいらない、遠いから本当は病院にも来たくない、思いつく限り必死で嘘をついた。でも、右手の裁縫ボタンは消えてくれない。

 なんで、なんで消えないの、もう何度も嘘ついてるのに。それでもまだ足りないなんて、もう……嫌だ。

 おばあちゃんは、いつもにこにこ笑いながら私の嘘を聞いてくれた。最近、自分がしていることが、おばあちゃんの為なのか自分の為なのか、よくわからなくない。最初は嘘をつくことに抵抗があったけど、それが当たり前になると、進んで嘘をつこうとしている自分がいた。もしかしたら、これが私の本心なのかもしれない。

 私とお母さんが台所で夕食の後片付けをしていると、電話が鳴った。

 あれ、こんな時間に誰だろう。

 受話器をとったお母さんの声を聞いて、お父さんがテレビの音量を下げる。同じ体勢のまま動かないと思ったら、急に立ち上がって、財布や携帯を上着のポケットに押し込んで玄関に向かった。そして私が食器を片し終えると、家の外から車のエンジン音が聞こえた。何が起きたのか理解するのに時間がかかる。

 え、嘘でしょ、だってまだ……。私、今まで何してたんだろう。

 車は、私が通いなれた病院に向かっている。後部座席からでも、景色とか信号の数ですぐにわかった。車の中は、ラジオも音楽も聞こえない、不規則にすれ違う対向車の風切り音だけが、かろうじて聞こえる。こんな時間に家族と車に乗っていることが、どこか夢心地だった。

 病室の前までくると、普段見かけない白衣姿の人が頻繁に部屋を出入りしているのが見えた。正直、私は中に入りたくない。だって胸がドキドキして普通でいられないから。

 お父さんが扉の前で中の様子を伺っていると、室内の誰かに軽く頭を下げて、そのまま中に進んだ。私とお母さんもあとに続く。

 おばあちゃんは、いつも私がこの部屋に来るときと同じ状態で、ベットに横になっていた。ただいつもと違うのは、全身に透明なチューブがいくつも繋がっていて、にこにこ笑うこともなく静かに目を閉じている。

 おばあちゃん、楓だよ。いつもみたいに笑ってよ……。ほら、なんで、なんで気づいてくれないの。

 ベットの手前にいた先生が、私達に気づいて部屋の奥の窓際にまわってくれた。お父さんは、お母さんを抱き寄せるようにして、そのままベットに近づいた。私が二人の後ろで少しためらっていると、振り向いたお父さんがすごい力で私を抱き寄せて、おばあちゃんが寝ているすぐ傍の椅子に座らせてくれた。

 誰も口をきかない。先生も、お父さんも、お母さんも、私も。薬品の匂いを運ぶ空気と、たまに聞こえる機械の音だけがこの部屋で動いている、そう感じた。

 この部屋に来るまでは、人が死んじゃう瞬間を見るのが怖かったけど、おばあちゃんの横顔を眺めていると、今はもう怖くない。だっておばあちゃんすごく綺麗なんだもん。でもごめんね、私のせいで私のせいで。

 視線を下げると、萎れた手のひらに黒い裁縫ボタンが見えた。

 もうこんな状態じゃ嘘つけないよね。私がもっと、ちゃんとしていれば……。おばあちゃんは死んじゃったあとも、苦しいことになっちゃうね。本当にごめんね。私の命でよければ、いつでもあげる。

 もう嘘なんて嫌だよ、本当のことを言いたい。

 私の覚悟が神経に流れ込み、叫びたい衝動をこれでもかと叩き起こした。

「おばあちゃん大好きだよ!」

 そのとき、強烈な白い光が瞬くとともに、すさまじい破裂音が走った。

 えっ、これなに……。

周囲から一切の匂いが消え、目に映るものすべてが動きを止める。直前まで感じていた人の気配が、無機質な情報に変わった。

 目の前の空間に、光の亀裂が割り込んで、意思を持つごとく網目状に広がる。光に囲まれた部分は映像の欠片となって、空間からひらひらと剥がれ落ちた。私は驚くほど冷静に、

 あっ、これみたことある。

 欠片には、子供の頃川で溺れたこと、捨てられた子犬を連れて帰って叱られたこと、綺麗な葉っぱをずっと大切にしていたこと、そして学校の親友、仕事先での出会い、結婚と子供、初孫が生まれて喜んだこと、見覚えのある記憶が映っていた。

 初孫……、私、子供いたっけ? 痛いっ

 針指す痛みに視線を下げると、右手の裁縫ボタンが粉々に砕けて、手のひらに沈んだ。

 大量の欠片が剥がれ落ちたあとには、白でも黒でもない、何もない色が広がる。最後に落ちた破片の中に、病院のベットで横たわる自分の姿。

 意識が途切れる間際、私の頬を伝った雫が枕におりた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ