第八話:とりあえず・・・始めてもいいですか?
「新様・・・」
透き通るように優しい声。その声の主は僕の頭を撫でながら、彼の名前を呼んだ。意識が覚醒しきっていない僕はぼおっと彼女の手の感触を感じていた。
「姫菜。今日は何時までいられるんだ」
「話を逸らさないでいただけますか。今日一日くらいなら空けてきておりますわ」
ピタッと撫でる手が止まり、熱が離れていった。心地よい感触がなくなりやっと意識が覚醒した僕だが、二人の間に漂う厳かな雰囲気に目を開けられないでいた。
姫菜の膝に頭を預け、体をフカフカのソファに横たえた僕は頭上で聞こえる会話に耳を済ませるしかなくなってしまったのだ。
「貴方様はいつまで誤魔化すつもりで御座いますか」
「誤魔化す?何を、戯れたことを言うんだ。俺は何もかもに正直だ。それは君が一番よく分かっているはずだろ?」
「ええ。しかし、新様はご自分の心を誤魔化し続けております。・・・本当は気が付いておられるのでしょう?」
姫菜の言葉についに黙る新。痛い静寂が包みこみ、気温が一度ほど下がった気がするのは僕の気のせいだろうか。止まっていた姫菜の手が今度は僕の肩へ。
「この子のこと―――」
「言うな!!」
新の悲痛な叫び声に姫菜の手がまた止まる。“静かに・・・”と諌めた様子だったが新は少しも黙ることなく続けた。
「俺は・・・俺は、何を忘れたんだ?姫菜、側近のお前なら知っているだろう?」
「ご自分のお心にお聞き下さいませ、新様。私は助言は出来ませぬ」
「誤魔化しているのはどちらだ!俺は知りたいんだよ。この感情の正体がその忘れられた記憶に隠されている気がするんだ」
はあ、と小さなため息はおそらく新のほうから。
・・・忘れられた、記憶。それは、もしかして―――
「あの日。俺は何を知ったんだ?何を見たんだ?純の姿が朧気に浮かぶだけで・・・あとは何もわからない」
ああ、やっぱり。新はあの日のことを忘れているんだ。
ほっとすると同時に何故か胸がチクリと痛んだ。痛みの正体が分からずに思わず眉を顰めてしまった。
「ほら、貴方様が大声を出されるから・・・純様が起きてしまったではありませんか」
「う・・・」
僕の表情の変化に目ざとく気が付いた姫菜が幾分きつい口調で新を責めた。罰が悪そうに呻く新に“少し離れていただけますでしょうか”と追い討ちをかけて、姫菜は僕に声をかけてくれた。暖かい手が額へ移動し、僕の名前を優しく呼んだ。
「純様?純様。お起き下さいませ。新様は遠ざけましたよ、安心して起きてくださって結構ですわ」
「・・・姫菜・・・」
こうなると起きないわけにも行かなくて、そっと目を開けて彼女の声に答える。
「おはよう御座います、純様。お加減はいかがでしょうか?」
「だ、いじょーぶです。あの・・・膝枕、ありがとう御座います。ごめんなさい、痛いでしょう?」
「いいえ、このくらいなんとも御座いませんわ。貴方様のお体のほうが大切ですもの」
そういって姫菜はゆるりと微笑んだ。
彼女は【クイーン・シート】の布留川 姫菜。
譲川家の分家に当たる由緒正しき布留川家の令嬢。新に仕える専属世話係のようなもので僕らが小学生の頃から常に傍にいた。新のサポートをする、という本家の命によって【クイーン・シート】に。だけど、彼女は“布留川の運命に縛られたくないから”と自分で事業を立ち上げて只今株式会社ファンタジスク スポーツの代表取締役をしています。とにかく凄い努力家な人なんです。
しかしそれゆえに超多忙で、なかなかスケジュールに空きが出来ないのが今の悩みだそうです。
「ありがとう、姫菜。もう大丈夫だから・・・」
「ええ、しかし無理をなさらないでくださいませ?」
そっと起き上がると頭と背中を手で支えて起き上がる手助けをしてくれた。こういう細かい所でサポートしてくれるのは彼女のいい所だと思う。世話係だからか、彼女は本人の意思を妨げようとはしない。本人の力で立ち上がらせるのだ。彼女がするのはあくまでも助言、サポートの域を出ないのだ。
ソファとテーブルを挟んだ所に新がいて、目が合うと心配そうに眉を寄せた。
「・・・純」
「新も、ありがとうございます。目を覚ますまでいてくれたんですね」
ニッコリと笑うとほおっと安心したように息を吐き出した。やっぱり新は心配性ですねー。
先ほどまでに漂っていた雰囲気はもう無い。目の前で笑う彼らはやっぱり僕の知ってる二人だと、どこか安心した。
◇
「もう皆集まっている。純もおいで、皆集合室にいるから」
新はそういって先に行ってしまった。姫菜によると、僕の寝ている間に芽が“近づくな”と釘を刺したのだとか。新には悪いけど、今は少しありがたいです。
姫菜が立ち上がる僕にブレザーを渡して、扉を開けた。艶やかな黒のポニーテールが揺れて彼女が少し頭を下げた。僕にこういうことはいらないのに。
「姫菜、頭を上げて一緒に行きましょう?」
「そのつもりに御座いますわ。しかしがら私は貴方様にお仕えする身、貴方様より先に出るなど有りえませぬ」
「・・・僕は、君の主人じゃないですよ。僕と母は百合丘から迫害されているから」
百合丘家・・・僕の父の家・・・。
姫菜は困ったように一笑して、尚僕が出るのを待った。そんな彼女に僕も苦笑を零してから彼女が空けた扉から出て行った。長くて広い廊下を靴音を二つ鳴らせながら皆がいる集合室へ向かう。ああ、今日は【トランプ・シート】の彼はいるのかなぁ。
「純。遅いで、はよおいでな」
後ろ手に扉が閉まった音がした刹那、桜井の声が。紅茶の豊かな香りが鼻腔を霞め、俯き加減だった顔を上げると全員が着席して僕を見ていた。
「残念なことに今日も【トランプ】はこれないそうだ」
【キング・シート】 譲川 新。
泣き喚いていたあの時の姿は見る影も無い。右側だけ掻き揚げられた黒髪に、鋭くもほのかに優しい眼光。僕達のリーダー、そしてただ唯一の王。
「しかたがありませんね。あの方も早く馴染んでいただかないと・・・」
【クイーン・シート】 布留川 姫菜。
席に着いた瞬間、彼女は世話係ではなくなる。口元に浮かべた笑みは安心感をくれた。僕らをまとめながらも、影で支える美しい王女。
「まあ、いいじゃないか。その他全員が揃ったのだからなぁぁ」
【ジャック・シート】 竹中 俊。
何もかもをその寛容さで包み込む、まるで兄のような存在。いざとなれば自らの身を盾にしてでも僕らを護ってくれる頼もしき騎士。
「よくないわよ。何をサボってんのよあの単細胞!!」
【エース・シート】 柊 芽。
一輪咲きの薔薇のように艶やかに、そしてただ只管に強く。自らの信念を貫きながらも、決して他を壊すことはしない。僕達の一撃必殺。
「・・・・芽ちゃん・・・暴言・・・よくない・・・」
【ハート・シート】 木凪 橘。
ドールのごとき美しさ。触れることは叶わない遠い人。何処か感情の表現に欠けていたとしても、彼女は騎士に守られ、皆を護る姫に違いはない。
「どーでもいいよー。さっさと始めよーよ」「どーせ暫くしたら来るでしょー?」
【スペード・シート】 如月 捺。
【クローバー・シート】 如月 稟。
彼らは二人で一つ。決して離れることのないツインカード。我が道を行くウルトラマイペース。しかし、誰よりも絆を信じ、誰よりも人の力を知っている。僕達の自由の象徴。
「冷たぁ。まあ、俺も同感やけどな。どうせ今日は来ーへんねんし、始めようや」
【ダイア・シート】 桜井 昌吾。
軽い見た目とは裏腹な堅実さや、狂気を持ちながらも優しさを忘れない二面性。それはまるでダイアモンドのように、カットによっていかようにも姿を変え、孤高の美しさを持つ。過信しすぎないプライドを心に秘める、もう一人の騎士。
そして・・・この僕。
「始めましょう。新・・・理事がお待ちでしょうしね」
【ジョーカー・シート】 緋沢 純。
ただ只管愛し、愛され、幸せを届ける心で涙を流しても、決して表には出さない。自らを削っても、皆のために動く皆を癒す。VIPの切り札。
「・・・そうだな、始めよう。理事、お入り下さい」
新が立ち上がり後ろにあった扉を開けた。靴音が響き、僕達を引き合わせた張本人・・・学園理事が現れた。
「よく集まった!【VIPクラス】の諸君。ご機嫌は如何かな?」