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生きていたくないこの世界で。  作者: 蒼伊織
一章 クレッシェンド 終りに向かって強くなる何か
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一章 八

     八


 翠は、事情を一番知っていそうな彼に、自分の身体が濡れるのも気に留めず駆け寄った。

 母が気を遣って翠と奏とは離れて座ってくれていて、良かった。

 こんなにも濡れた翠を見たら、あの母は失神でもしてしまいそうだ。


 秀弥の虚ろな目が、機械的にこちらに向けられた。

 何か意識的であったり、興味を惹かれたりという要因は感じられず、ただ無意識にこちらに視線を映したという風だった。


「秀弥先輩、……あの、コトハ先輩は……?」


 翠が口を開いても色の宿らない、濁った瞳。

 それはそのまま、口だけが、歪むようにして動いた。


「死んだよ」

「……え?」


 聞き間違いだと思った。

 雨音に混じり不明瞭なそれは、翠の聞き間違いで、本当は違うことを言った。

 そのはずだった。

 ――けれど、違った。いや、合っていたと言うべきだろうか。


「コトハは……死んだ」


 秀弥が、無機質に続ける。


「自殺――した」

「!」


 吐き気を催す。

 前後左右、上も下もわからなくなり、曖昧な視界で、迫ってくる地面を見た。

 そんな翠がびしょ濡れの地面にかろうじて倒れ込まずに済んだのは、駆け寄った奏が、肩を抱きよせてくれたからだ。翠を無理矢理傘に入れて、冷えた身体を抱いてくれる。


「秀弥さん……死んだって、自殺したって、どういうことですか……?」


 崩れる翠の様子を見て、奏は逆に冷静になれたようだ。秀弥の姿に僅かな恐れを抱きつつも、そう問う。


「そのままの意味だ……コトハは、もう……」


 虚ろな目。

 否、奏は、もっと相応しい形容の仕方を、知っている。

 狂った目、だ。


「この世に、居ない」


 ゆっくりと身体を反転させて、秀弥が立ち去る。

 暫く視界にあった彼の背が見えなくなるまで視線を逸らさない。

 そんなことは、奏には出来なかった。


「翠、とにかく、中に入ろう?」


 翠の返事を待つことなく、奏は彼女の手を引き、身体を抱き、再度会場へと戻った。

 まだ演奏会が続いているため、エントランスに人はほとんどいなかった。

 とりあえず、翠をベンチに座らせ何か温かい飲み物を買いに行く。

 自動販売機を探していると、そこに、焦った顔の翠の母親が駆けてきた。


「奏ちゃん。翠は……っ」

「あっちに、居ます。……居るん、ですけど……」


 言い淀むしかない奏。

 数瞬考えて、ある程度掻い摘んだ事情を、話すことにした。

 翠の母は、奏と、同じ顔をした。

 わからない。


 ――今のこの状況が、わからない、何を言えばいいのかわからない。何を言ってやればいいのかわからない、絶望の淵に立っている、いや、もう絶望という穴に落ちている彼女に、何をしてやればいいのかわからない。

 どうすればいいのか――。


「……ううん、違う」


 わかっている。

 今、自分が――奏が何をすべきなのか。




 ひとしきり泣いた空は、少しの晴れ間を見せて、地上を輝かせていた。

 虹は、何処にも出ていない。

 濡れた服と身体を乾かし、ある程度温まったところで、一度帰宅することにした。

 本来翠はこのまま入院のはずだったが、少し、延ばしてもらった。

 翠の、というよりは奏の、わがままだった。母もそれは了承し、しかし何も言えない時間だけが続いた。


 あの後、奏の古い演奏仲間ともいうべき知人に話を聞いて回ったが、間違いない。

 綾崎コトハは――三週間前に、死んでいた。

 原因ははっきりとしていないが、事故死として、処理されたらしい。

 そんな正確な事実を、翠に伝えるだけ無駄だろう。

 彼女は――疾うに、絶望していた。


「……帰る」


 それだけ言って立ち上がった翠は、俯いたままエントランスを出る。

 彼女の母が、慌ててそれを追おうとする。


「あのっ。私が、ついてますから、……三十分くらいしたら、連れ戻します……!」


 奏が母に抗議している間にも、翠は構わず歩を進める。

 何とか母が追いかけてくるのを押し止め、奏は翠を追った。

 今、誰が何を言っても、逆効果にしかならない。彼女の好きなようにさせて、自分は、それを見守っているだけだ。

 意識的にか無意識的にか、翠が向かったのは冷たい空気の流れる河沿いだった。


「……ごめん、奏。……一人にさせて」

「……うん。ここで、待ってる」


 奏は、何も言わないでくれた。これ以上、翠の心を掻きまわさないように。


「……」


 雨が降った後ということもあり、河の流れが、強い。

 ゆっくりと歩いていたはずが、気付けば早足になっていた。いくつもの水たまりを踏み荒らし、翠のスニーカーもソックスも、泥に汚れた。

 歩みは駆け足になって――今まで出したこともないような速さが出た。


「あ……ぁあ、……」


 口から洩れた荒い息が、やがて、叫び声になって声を震わす。


「――――――――――――――――……ッッッッ!」


 出したこともないような、そんな声とも取れない咆哮が出た。

 洗い立ての雑木の前で立ち止まり、荒い息をする。

 肺が、酷く痛んだ気がした。


 翠は、半年前に余命一年を宣告された、生ける屍である。

 医者は最悪のケースとして余命を宣告するというが、それに則れば、翠の残りの命は半年。

 高校二年を迎えられるかどうか、わからない。

 要因は、腎臓や膵臓、各臓器の、機能不全だ。

 それ自体の原因は全くの不明である。

 それでも、現在の兆候から見て、やがては肝臓なども病に侵される。十中八九で、多臓器不全に陥るそうだ。


 楽器を吹く度に、痛む胸。

 それは、肺すらも機能を放棄しだした顕れらしい。

 大好きなことすら奪われ、やがては朽ち果てる存在――自分。


 翠は、この世界に失望した。

 何の望みも持たなくなり、余命宣告を受けて数週間は、部屋に引きこもった。

 そんな翠をもう一度明るい世界に連れだしてくれたのが奏で、希望となったのが、コトハだ。

 コトハに会うため、彼女の演奏を、奏でる世界を感じるために、翠は生きてきた。

 練習期間でもいえば半年もなかったソロコンクールへの道。

 それに、文字通り命を懸けて望めた。母や主治医の勧めである入院すらも断り、クラリネットを吹き続けた。


 全部、コトハが居ると、彼女が居るこの世界に、生きていると、そう思えたから。

 なのに、彼女はもう居ない。この世に存在しない。


 ――ふざけるな。


 この世界は、何処まで、翠から奪っていくというのだ。

 大好きな音楽を奪い、命を奪い、たった一つの、一縷の望みすら――もう、無くなった。翠のこの世界への失望は――、

 絶望に変わった。

 燻る悲壮感にくべる薪は、無い。


 また、何故だろう。翠は、何処か諦めじみた納得をしてしまった。

 これが、自分の人生。

 何も成し遂げることのなかった、理不尽にも不条理に打ち負けた、虚しい終わり。

 時が経ち訪れる死は、翠に何を遺すことも許さないだろう。

 この世界に存在していた。そんな証明すらすることなく、翠は死ぬ。

 だから、誓った。


「生まれ変わったら、復讐してやる――!」


 理不尽なこの世界に、救いのないこの世界に、翠から奪っていくすべての存在に。

 いずれ必ず、大きな復讐を遂げてやる、と。

 それはしかし、同時にまだ生きたいという、もう一度、生きてやるという。

 そんな、小さな反逆心でも、あった。

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