一章 七
七
――翌日――
朝からあいにくの雨がしとしとと降り続けている。
空には暗い雨雲が厚く張っていて、日の光を浴びることは、叶わなさそうだ。
朝起きて、奏はカーテンを開けた窓から空を仰ぎ、早々に陰鬱な気分と相成った。
「……これは、音も変わっちゃいそう」
この時期、寒暖差が激しく、ただでさえ楽器の音色が定まらない。
木管楽器など、特に気温、湿気で音程の左右される楽器だ。
今日の、コトハの演奏が気がかりだ。
もっとも、彼女のような才能者であれば、そんなこと想定内で、いつも通り完璧に、その音を作り出すのだろうが。
奏であってもそれなりに気にかかるのであるならば、翠など、相当心配し、空を見つめているはずだ。
彼女との付き合いもそれなりに長くなり、奏には、それが目に浮かぶのだ。
奏のような堅実に技術を付けていく性質の者にとって、翠のような人間は、眩しくもある種疎ましい
――コトハ同じく――才能者だ。
それは煌々と輝く太陽のように、例えば翠に見込まれ伴奏者を務めている奏などにとっては、まさに希望になるものだ。
しかしだが、同時に自らの才能の無さと見比べ、落胆し、時にはその存在を疎ましく思うことすらある。
それこそ、身体を熱し視界を眩ませる、太陽のように。
今はまだ若く、経験も浅い両者。
だが、多くの演者を見てきた奏にとって、翠もコトハも、輝かしい栄光が未来に待っている、天性のプレイヤーだ。
そんな人々の才能を目の当たりにしたことに次ぎ、奏には、自分の力量を客観視する賢明さもあった。
どれだけの範囲であれば自分の手が届き、届かないのか。何ができて、できないのか。
それを、批評者の立場から評価することができる。だから、自分の役割というものも、十分理解できていたつもりだ。
今回のコンクールで言えば、主役である翠を引き立てる、伴奏者という端役。
これから歩む道であれば、せいぜい、主導者に道を提案する、助言者が関の山だろう。
自分の立場は、能力は、理解している。
それに適したものも、見つけられている。奏は自分でも、それは恵まれた知識の授けものだと思っている。
やるべきことは、わかっている。
後は、滞りなくそれを遂行するだけ。
わかっている。それが彼女のためにならないこと。彼女を救うことになるが、新たな試練をぶつけること。
全部――わかっている。
雨。
翠が起きたとき空を見上げると、いくらか晴れ間が垣間見えなくはないが、雨が止む様子は皆無だった。
今日の演奏に響かないか心配で、目覚めてすぐに、コトハの姿が目に浮かんだ。
一月前に話したきり、彼女と話していない。あのとき、連絡先の一つでも交換していればよかったのだが、残念ながら翠は携帯端末の類を持っていない。
中学の時一度持ったことはあったが、修学旅行で京都に落としてきて以来、新しい物を買っていない。
正直、それらの類には元々無頓着で、落としたのもそれが原因だ。この年代の女子にしては珍しく、それらを欲しいと、思わないのである。
しかしこういう状況になれば、やはり持っていればよかったと、思ってしまう。
何はともあれ、外は雨ふりでも、これからコトハの演奏を聴きに行くと思えば、翠の心は何処までも澄み渡り、晴れた。
他の演奏者を度外視するような考えだが、如何せん、恋とはそういう、盲目なものである。
「さ、行こう」
自分たちの演奏が無いのだから、わざわざ母に来てもらうこともないので、母に仕事を休ませるのは、心苦しい。
それなりに高い地位の役職についている父は、今日も休日出勤だ。
ちなみに、完全週休二日の翠と奏も、学校を公欠するでもなく、演奏会に向かうことができる。
「……翠ちゃん。服とか、準備は?」
「あ、そか。それもあったか」
昨日のうちに多少の準備はしていたが、まだ完全に終わってはいない。
逸る想いのせいで、素で忘れてしまっていた。
母の最後の意地で、今日はコンクールが終われば、すぐに病院だ。
暫らく、翠がそこから帰ってくることは無いだろう。ほとんどの学生がそうであるように、翠がこれから行けなくなる学校やそこでの勉強に執着など持っていない――こういうと、真面目に勉強している学生に失礼だろうか――。
だから、特に束縛など嫌ではない。
クラリネットは、言ってしまえばどこでも吹ける。
たとえ病院の中であっても、状態と想いさえそろえば、翠は音を奏でるだろう。
それが、まだ短い翠の半生においての、生き方である。
今度こそ荷物を車に積み込み、翠の乗る乗用車は、奏経由でコンクール会場へと向かった。
「翠。今日もクラ持ってくんだ」
自分の出番がないにもかかわらず愛用のクラリネットをケースに入れ持つ翠に、奏が素朴な疑問をぶつけた。
外の景色を見つめながら、視線を映しつつ翠は応える。
「ん。そのまま入院だから、弾ける機会探して、ね。ある程度調節もしとかないと、次吹くとき悪くなっちゃうし」
「そか」
奏の素気ない口調は、何処か翠のそれと似ていた。
幼馴染みというわけでもなく、言うまでもなく姉妹でもないが、長い――濃い――時間を共にしていると、口調や仕草などが、似てきてしまうことはある。
客観的にそれに気付けた翠は、それが微笑ましく、仏頂面の奏に、相反する笑顔を向けてしまった。
「なに……笑ってんの?」
少し怒ったように、唇を尖らせて奏が非難の目を向けてきた。
「奏、かわいいなぁって」
「……」
奏にとっては動揺するだけ翠の思惑にはまることになる。
できるだけ平静を装って、視線を逸らした。
「子ども扱いしないでよ」
身長も翠とは十センチほど違う奏は、その台詞を使うと、余計に幼く見えてしまう。
それがまた可愛らしくて、翠は頬を緩める。
そんな平和は、平穏は、ほとんどここまでだった。
この日――ソロコンクール県大会最終日の今日。
翠が綾崎コトハ、桐渓秀弥の演奏を聴くことは、無かった。
いや、それだけではない。
今後の人生に置いて、翠が彼女の演奏を聴くのは、もはや、無理だと思われた。
そんな終焉が、訪れてしまった。
プログラムに則れば、コトハの演奏が次だというその時、異変は起きた。
彼女のプログラムは飛ばされ、その次のはずの演奏者が、ステージに立った。
アナウンスも、その演奏者が次であるという旨のものだった。
「……あれ?」
その異変には翠のみならず、会場全体でちらほらと、見え隠れしていた。
が、そのちょっとした騒めきも、演奏五分前のブザーが鳴ると、静まった。
それに反して翠の心は、静まらなかった。
「! 翠……っ」
唐突に――予兆こそあれど――立ち上がりホールの出入口に掛けた翠に、短く制止の声を掛ける奏。
閉じる直前の扉から、翠がホールを出た。
奏も、すぐにその後を追う。
何処に向かうなど、決めていないのだろう。
しかし、なんとなく、わかっていたのだ。虫の知らせというものだろうか。
いや、そう呼ぶには、いささか遅すぎた、そんな直感だった。
翠は、何かに弾かれたように走り、建物から飛び出した。外は、まだ雨ふりである。
母に送迎してもらう翠は、そうではないのだろうか。
同じ車に乗ってきたとはいえ、奏は、鞄の中に折り畳みの傘を入れていた。
雨に構わず外に出ようとする翠を見て、それを取りだす。が、流石に土砂降りとすら言えるほどの雨だ。
翠が、一度エントランス外の屋根の下で、立ち止まった。
「ちょっと、待って――」
もう少し、気の利いた、彼女を止められるような言葉は無かったのだろうか。
この時のことを、奏は一生後悔する。それこそ、死ぬその瞬間まで。
雨の中に立ち尽くす先客を見て、翠が一度は止めた足をまた進める。
翠の灰色のパーカーが、数秒で真っ黒になった。
「……あれ」
そこで雨を滴らせ虚空を見つめていたのは、コトハの伴奏者でありパートナーと言っても過言ではない少年――桐渓秀弥である。
少年は、虚ろな目で、ただただ、そこに居た。