一章 五
五
青い空を見上げる。そろそろ、空が高くなってくる季節だ。
翠は、目を細めつつ、暫らくその空を眺めていた。
今日、恐らく翠にとって最後になるであろう、ソロコンクールの県大会がある。
そこで優勝すれば、全国大会に出場できる。
流石にそこまでの成績を取れるとは思っていないが、ここまでこられたのだ。
やれる限りのことは、やる。
「翠ちゃん、そろそろ行くよ」
後ろから、母の声がする。
本番前の翠を労わり、そっと声を掛けてくれている。
もう一つの要因もあるのだろうが、母はいつも、心配性だ。
「了解。じゃあ、行きますか」
これから母の車で奏と合流するのだが、その前に、車内でできる限りの、調整をしておこう。
「よろしくね、相棒」
否、もはや身体の一部と言っても、過言ではない。
長年連れ添ったクラリネットは、この日に備え、コンディションを最高に整えていた。
それこそ、締めるネジのきつさも、コンマ以下のミリ単位で調整した。
――本気も本気の、負けられない、戦いだ。
「……」
医者からは多用を禁じられている、一種の鎮痛薬。ポーチの中のそれに、目を落とす。
大事な局面で自らに邪魔をされるわけにはいかない。
慎重に量と持続時間を計算しつつ、これも完璧な服用タイミングを見定めた。
薬が効き出すまでに、ざっと三十分。
持続時間は、五時間弱。効きが最高潮なのは、効果が出てから一時間半。
本番まではそれなりに余裕があり、食事前の、十一時が、翠と奏の発表だ。
その二時間前に薬を飲めばいいので、まだ、時間はある。
それでも、翠はこの「希望」に縋っていないと、落ち着かないのだ。
楽器を吹いているときはまだましだが、それ以外のときには不安――恐怖と言っても良い――が、翠の全身を駆け巡る。
自分はこんなにも弱かったのかと、嫌なほどに痛感する。
こんな時だからこそ、見えてくるものが多い。
「翠っ」
彼女にしては珍しく、奏が、快活に車に乗り込んできた。
軽く母と挨拶を済ませて、視線を窓の外に送る。
最近なんだか変わってきた気もする奏だが、大事な話をするときに人と視線を合わせない癖は、変わらない。
「……いよいよ今日、だね」
それは、大会のことだろうか、それとも、翠の無期限入院の開始のことだろうか。
「この子とも、暫らくお別れかな」
本番前だ。暗い雰囲気など、作らせない。
整えるべきコンディションは、楽器や体調だけではない。
精神面も、一点のブレもなく調整すべきなのだ。
――……っ。
――さっきから、何を……。
音楽だ。
考えてどうこうなるものではない。
そんなことは重々承知だ。
もはや常識で、身についているものであり意識する必要すらないことだ。それなに、だ。
翠はずっと、朝起きてから、今まで、考えすぎている。
そうだ。言うまでもない。――不安なのだ。
失敗への恐れは、もう克服したはずだ。
それでも、今まで体験したことのない規模で演奏する重圧。
これで最後という、悲愴感。
流れる景色に目をやっても、何度も聴いた音楽に耳を傾けても、落ち着かない。
不安という感情が、翠の中を支配する――。
「――!」
翠の手を、奏の手が包み込む。
「大丈夫」
車のエンジン音も、車内に流れる音楽も、すべて聴こえなくなった。ただ、奏の声だけが、妙に鼓膜に響く。
「翠なら――翠とカナなら、出来る」
瞬間、翠の心を、胸を、熱い何かが通った。
数秒間むしろ高まった鼓動や感情が、すっと、静まる。
先までの不安も、感じすぎていた重圧も、どうしようもない悲愴感も――消えていた。
ただ、希望に満ちた自分たちの姿だけが、容易に見えていた。
「とーぜんっ、だね!」
――大丈夫。
明るく、笑えている。
会場について、前回同様、ここで一度母とは別れる。
県大会だとは言うけれど、偶然にも会場は翠たちの住む街から近かった。
これは、中々運の良いことだ。
「翠ちゃん。終わったら、ちゃんと……ね?」
「……うん。わかってるよ。心配性だなぁ、母さんは」
台詞をなぞるようなありきたりな言葉。
涙こそ流していないものの、母の表情は、翠に、先の悲愴感を思い出させるような悲哀に満ちたものだった。
できるだけその表情に目がいかないように――既に気付いてはいるが――翠は、足早に会場に入って行った。
――わかってる。
これで、さいごなのだ。
静かに、曲を終える。一か月前と同じ、完璧な演奏が、今、終わった。
後ろの奏に視線を送ると、柔らかい、翠を安心させるいつもの表情で、笑っていた。
頭を下げて、会場中の拍手を浴びる。
前を向く。涙が、零れないように。
――泣いてはいけない。
そう、泣くのは、まだ早い。
翠にとっての絶望は、まだ、始まったばかりなのだから。