一章 二
二
そんなこんなで、来たる月末。緊張した趣で、翠と奏はコンクール会場に降り立った。
「……来た」
――最後の、コンクール。
相棒たるクラリネットを背負った背に、じっとりと、汗をかく。
暑いわけではない。
この時期はもう、乾燥肌の翠にとって汗をかく季節ではない。
これは、精神的な要因から来る汗だ。
そっと、奏が寄り添ってくれる。
「大丈夫だよ。練習通りやれば、翠ならやれるって」
柔らかく笑み、奏の手が翠の汗ばんだ掌に重なる。その彼女の手も、少し、震えていた。
「奏こそ、私より音楽経験長いのにこういうときすっごい緊張するよね」
「しょうがないじゃん。昔っから、頼まれて出るくらいしか、演奏会とかやんないもん。しかも、伴奏は伴奏でも、ソロだとほぼピアノが真ん中だし……」
落ち着いた様子から一転、仮の面を剥がした強張った顔で、奏は苦笑する。
普段は感情を表に出さない、悪く言えば無愛想な彼女だが、元来は人より重圧に弱い性質で、翠の前ではこうして、時折本心を垣間見せるのだ。
「確かに、ねー。だからこそ、私が安心して吹けるんじゃん?」
音楽一家の娘で幼少期からピアノを弾いている奏だが、親はコンクールや賞を強いる方ではなく、今まで自由に音楽をしてきたらしい。
ピアノ教室には一時期通っており、ある程度の技術はそこで身に付けたという。
絶対音感といい、今の技術といい、それらは奏本来の才能だ。自身の才能に、気付かないのは仕方ない。
彼女が自ら進んで公の場でピアノを弾くことは、滅多にないのだ。
「……よしっ。行こう」
奏の手を強く握り返し、会場を見据えた。
「じゃあ、頑張ってね。翠、奏ちゃんも」
「はーい。ちゃんと、見ててよね」
「ありがとうございます」
二人の送迎をしてくれる母の声を背に聞き、二人は控室へと向かった。
それぞれの、戦場へ。
選んだ曲は、サンサーンスのクラリネットソナタ、第四楽章。
難易度は高めと言った所だろうが、その分表現力が問われる、翠の中では全力を尽くせる一曲だ。
奏などからは第一楽章が好みだという意見も出て論争になったが、結局、一番難しい第四楽章を選ぶことになった。
――届け。
眩いほどの地明かりとシーリングライトを浴びる。いつも通り、火照った翠の身体をさらに熱くする。それを真直ぐに見上げ、息を吸い込んだ。
――全部、あの人に。
奏が鍵盤を叩き、それにならいチューニングとして音を出す。
今の翠は、人管一体。
翠の本気が、楽器の本気となり、音程はもちろん、身体に響くすべての音が、翠史上最高のものになっている。
始まりは、奏の伴奏とほぼ同時――。
強い想いをぶつけ、しかし乱暴にならないよう、息を込める。
諸々の注意を、逐一頭で考えてはいけない。
これまでの練習で、すべて身体に沁み込んでいる。
それを、さらけだすだけだ。
意識を捨てた無意識で、聴こえているのは、見えているのは、自分の音と奏の伴奏だけ。
世界にただそれだけのように思えて、それが、とてつもない快感だった。
――ああ、ああ……。
――これが、私だ。
――私の、すべてだ。
全身を蝕む痛みも、この時だけは、忘れられた。
何度も聴いた、吹いてきた終わり。
第一楽章の形を完全に回想し、静かに、曲を終えた。
そっと、口からリードを離す。
数瞬自分一人の世界を感じて、奏に合わせ一礼。
間髪入れず、拍手喝采が翠を包んだ。
――……終わった。
――私の、さいご……。
静かに翠は、奏と連れ立ってステージを下りた。
しかし、ステージが終わっても翠の心はざわついたままだった。
むしろ、先の無意識の落ち着きと比べれば、今こそ胸は騒いでいるといえる。
「奏っ、早く!」
「ちょっと、待ってよぉ」
ステージ用の煌びやかな服をはためかせながら、翠は会場の裏から、再度、今度は観客として会場に向かった。
次の演奏が始まり、今はまだ中に入れる状態ではない。
「まだ全然余裕あるじゃんー」
奏が軽く息を切らせながら、ぼやく。
今さらだが、淡い青のドレスに身を包んだ彼女は、とても、可憐だ。
「……でも……」
「着替える時間も、ぎりぎりだけどあるよ?」
エントリーナンバー八番の、翠と奏。翠の想い人コトハとそのペア桐渓秀弥少年は、十二番。
それまで、三十分ほどの時間がある。
しかし、翠の逸る気持ちは、そんな時間を会場の外で過ごすことは許さない。
常にステージの見える場所に居ないと、気が治まらないという。
「ま、いいよ。ここまで来たら、最後まで付き合うよ」
言って、開かぬ扉が開くのを待つ。
出会ってから、ずっと。奏にはこうして、迷惑をかけてばかりだ。
中学では出会ったばかりの奏に伴奏者を進め、無理矢理部活に引き込んだ。
今では、彼女の意思とはいえ同じ高校にまで、ついてきてもらっている。感謝しても、しきれない。
今さらながら、いや、いまだからこそ、それがわかってくる。
大事を越えた後だと、意外と人間は冷静になれるものだ。
「……なんか、今さらだけど、……本当、ありがとね、奏。私に、ついてきてくれて」
「……本当に、今さらだねぇ」
苦笑しながら、緊張もほぐれ壁に背を預けていた奏は、語り出す。
「前にも言ったかもだけど、カナが今翠と一緒に演奏してるのは、好きだからやってることなんだからね? 元々音楽には限界感じてたのに、翠がもう一度、カナを音楽の世界に戻してくれた。……そして、今まで以上に、本気を出せた。こんなに楽しいの、翠と、音楽以外じゃ、絶対にない。――だから、ありがとうは、こっちだよ」
――そう、「好きだから」、やるんだ。
珍しい奏の本心に、翠は思わず、頬を赤く染めた。
数瞬遅れて、奏の顔にも、赤が灯る。
改めて照れたようで、視線を、綺麗な絨毯に向けた。
「……照れ、る……」
暫しの沈黙の後、先に口を開いたのは翠だった。
目線は前に、時折奏の顔を覗き込みながら、それだけ言った。
「今だけ、だよ。この状況だから、言えること」
「……さいご、だしね」
弱く呟いた翠の言葉は、奏に届いたのだろうか。彼女は、黙って前を向いている。
その横顔が、すでに芸術作品のように整っている。
「さいごには、ならないよ」
「……」
真剣な、眼差し。
こちらを見るその瞳に、翠は何も返せない。視線を合わせることすら、できない。
「ここで金賞とって、県大会までいける成績なら、まだまだカナたちの演奏は終わらないよ」
そう言って、奏は、悪戯っぽく笑った。
そう。基本的に音楽のコンクールは、演奏の成績にあわせ上から金、銀、銅の賞を貰えるのだが、このアンサンブルコンクール地区大会では、金賞の中でも上位二組が、県大会に進む切符を手に入れられるのだ。
「……だね。今は、コトハ先輩の演奏と、その結果待ちだ」
奏の柔らかい笑みにつられて、翠も微笑む。この二人の間には、もうそれで、十二分だった。
数分後、会場に入ると、しかし二人は、会場後ろのその位置から移動しなかった。
ステージの正面ではあるが、大きなコンクール会場ともなれば、距離は大分ある。
だが、二人は知っている。視覚やその他の感覚に頼らない音だけの世界が、何よりも音楽と演奏者を感じるのに、適しているのだと。
「……コトハ先輩は、次の、次……か」
それが近づいてくるにつれて、どうも落ち着かない心持になってくる。
楽器を吹けばこんなざわつきも収まるのだが、会場に入ってしまえばそうはいかない。
空いている後ろの席を二つ確保して、座る。
音の吸収も考えて、隣近所に人がいない場を選んだ。
翠の本命はコトハではあるが、それでも、学生だけではなく一般の演奏者も交じるコンクールは、地区予選でも十分楽しめる演奏が続いた。
何とか、彼女の演奏の前に、心を落ち着けることができそうだ。
数組の演奏を聴き終えると、コトハの演奏が次であると告げるアナウンスが入る。
焦らず、落ち着いて、翠は前を見据えた。
落ち着いた色のドレスを纏った少女が、ステージに立つ。
前髪の長い、何処か暗い印象を受ける少年も、少女――コトハに続いて、ステージに上がる。
少年の叩く鍵盤に合わせて、コトハが一つ、音を奏でる。それ一つとっても、翠の心に感じさせるものの違いがあった。
翠とは違う綺麗な黒髪。異国の血が混じっているのだろうか、少し童顔なその目は、綺麗な蒼だった。
多少の距離はあっても、視力の良い翠には、吸い込まれそうなその瞳がよく見えた。
――曲は、アメイジング・グレイスだった。
「――!」
技術的な面であれば、コトハの伴奏者、桐渓秀弥のピアノは全国でもかなり高いレベルなのだろう。
詳細は知らないが、彼のピアノ演奏は、かつては数多くの賞を総なめにしていて、とても学生とは思えないレベルだ。
しかし注目すべきは、そのピアノに負けずとも劣らない、フルートの演奏だろう。
今回は伴奏ということもあり控えめな桐渓の演奏が、コトハのフルートを、より一層引き立てている。難易度としてはあまり高くないそのタイトルが、この二人にかかれば、恐ろしいまでの仕上がりとなる。
演奏は、圧巻の一言だった。
――この曲で、ここまでやるか。
コンクールにおいて、演奏者の腕前はもちろんのことではあるが、選曲も、かなり重要な部分となる。
それこそ、演奏者との相性でクオリティを大きく左右する。
この曲は、紛うことなく彼女たちにとって最高の選曲である。
彼女たち独特の表現も、元の曲を壊さない程度に、注目点となった。
ゆっくりと、曲が終わる。
コトハが楽器を下ろしてから数秒、会場は静寂に包まれた。桐渓が立ち、二人で礼をする。
他の演奏者のそれとは比べ物にならない拍手喝采が、会場を包んだ。
ちらほらと、スタンディングオベーションすらある。
翠はといえば、半開きになった口も気にせず、頬を紅潮させている。
うっすらと、瞳に水の膜すら張っている。
「……翠……」
流石の奏も、苦笑いである。
しかし、その奏も、この演奏には胸を打たれた、彼女たちは間違いなく、今後の音楽の風向きを変える存在になりえるだろう。
翠の本命の演奏も終わり、二人は控室へ着替えに戻る。後は落ち着いて、結果発表を待つばかりだ。