表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
生きていたくないこの世界で。  作者: 蒼伊織
一章 クレッシェンド 終りに向かって強くなる何か
2/36

一章 一

     一


 (すい)がその姿を初めて見たのは、まだ年端もいかない、幼い頃だった。

 彼女は、恋に落ちた。

 自分にとってのそんな人生の転機を、どうしてここ十年近く忘れていたのだろう。

 それを思い出したとき、翠はそんな疑問を自分にぶつけた。




 鼓膜を、お気に入りの鍵盤の音が叩く。

 B♭。クラリネット奏者である翠が、最も多く聴く音で、同時に、最も多く奏でる音でもあった。

 身体の一部と言っても過言ではない愛楽器に、息を吹き込む。


 今日も翠の相棒は、優しく、しかし全力で彼女に応えてくれる。

 鍵盤と寸分のズレもなく、美しい単音が音楽室に響いた。

 彼女のパートナーである(かなで)が響かせた鍵盤の音と、まるでそれのみで一つであるような音を作り出す。


「……おっそろしいほど、ぴったりだねぇ」


 奏の溜息。響きが完全に途絶えると、そっと閉じていた瞼を上げ呟いた。

 翠と違って生まれつきの完全な絶対音感を持つ奏は、翠の奏でる音を、いつも心地良さそうに聴く。

 翠がそうであるように、パートナーの音は、互いにとって一番心地良い音なのだろう。


 本来なら気温や日によってずれる楽器の音程が、どうも翠の場合常に完璧らしい。

 絶対音感を持つ奏にとって、それはとても、聴き心地の良いものだという。


 今翠は、今月末にあるソロコンクールに向けて、伴奏者である奏と共に尽力している。

 所属している吹奏楽部自体は、万年地区大会銅賞の弱小ではあるが、幼少期からそれぞれの楽器に慣れ親しんできた二人は、そうでもなかった。

 翠は九歳の頃から親の影響でクラリネットを続け、奏はもっと前、幼稚園に上がる前から自宅のグランドピアノに触れてきたという。


 二人の出会いは中学時代――学校全体の行事としてある、合唱祭だった。

 クラスが違って部活も、翠はクラリネットを続けるため吹奏楽部だったが、そこではピアノを弾けるわけではないので、奏は陸上部に所属していた。

 奏は、ピアノの腕前はもちろん勉学や運動面でも、かなりの良成績を叩きだすのだ。

 

 翠はその合唱祭で、伴奏者の席に座っている名も知らぬ隣のクラスの少女――の腕前――に、惚れ込んだ。

 合唱祭が終わると、すぐさまその少女――奏に駆け寄って、自分の思いのたけをぶつけた。

 翠はあまり、自分の感情を押し隠す人間ではなかった。


「よし、ぼちぼち休憩にしますか」


 基礎練習の後二時間ほど二人で合わせの練習。

 正午を過ぎたところで、奏は翠に休憩を促す。

 彼女の言葉が無ければ、翠はいつまでも、食事も忘れ練習に明け暮れてしまう。

 今は、コンクールまで一カ月を切っているので、特に燃え上がっている。

 今回のコンクールは、翠にとって重要な、自分の人生最高と言っても過言ではないステージなのだ。


「待って、もうちょっと」


 その分、気合も入る。のだが。


「だーめ。吹きすぎると、翠も楽器も疲れちゃうよ」


 休憩時間になっても個人練習をやめない翠を、奏は半ば無理矢理準備室へと向かわせる。 

 彼女の言うことは間違っていないので、翠も渋々それに甘んじる。


 最初こそ翠が強引に奏を自分の元に引き込んでいるのだが、元々運動部で我の強い所のある奏は、翠の、物事に一直線で周りを気にしなくなるその行動を、修正する役割を担っている。

 絶妙なバランスで、この二人の関係は成っているのだ。

 今も奏は、中学時代から続けていた陸上をやめ、この吹奏楽部に入ってきてくれている。


「はー、疲れた。ってか静かー」


 基本的に休日に活動はしないこの部活。

 高校ともなれば中学よりも自由で、口を聞けば自主練程度は許されるため、非常に嬉しい。

 それらのスケジュール管理は、奏が行い顧問にも話を通してくれている。


「だねぇ。運動部居るから今はあれだけど、夏休みは、凄かったなぁ」

「うん。学校中静まり返ってた」


 脱力する翠の顔を、彼女に気付かれない程度で凝視する奏。

 ――まぁ、顔色は悪くないか。

 ある理由で非常に今回のコンクールに気合の入っている翠。

 伴奏者である奏は、彼女よりも気負いは少ないが、それでも、また別のある理由で、気を張っているのだった。


「夏休み、楽しかったなぁ。あ、翠、髪伸びた?」


 弁当を広げ翠の正面に座る奏。ふと思ったように言われたので、翠も、自分の髪に触れてみる。

 そう言えば、ここ最近前髪以外を切った記憶が無い。セミロングの髪は、少しばかり「彼女」への憧れもある。


「そだねー。前髪は邪魔になったら切っちゃってるけど」

「あぁ、なるほど。カナは、邪魔になったら全体切っちゃうけど」


 と言う奏の髪は、セミショート。

 中学時代は陸上部ということもありもう少し短かったが、ここ最近は、ずっとそのあたりまで伸ばしている。

 自分の容姿にはあまり興味のない性格だが、奏は


――可愛い。


 容姿の面で言っても、運動部であっただけにスタイルはかなり良い。

 性格もべたべたしておらず、男子でも女子でも分け隔てなく接する。


 ――私とは、違う。


 翠もまた、普段は他の評価など気にする性格ではないが、コンクールが近づくにあたり、気になるものは、気になって来た。


 ――可愛く、なりたい。


「……なんか、今から緊張してきた」


 翠がそんな正直な気持ちをぶつけられるのは、奏が相手だから、だろうか。


「今までコンクールなんて山ほど経験してきたくせに」


 悪戯に笑んで、奏が茶化してくる。

 確かに、九歳からクラリネットを始めて、アマチュアのコンクールには幾度となく出てきた。

 しかし今回は、違うのだ。


「今回は……コトハ先輩がいるから……」


 箸を休めて、視線を下に移す。

 彼女の名前を呼んだだけで、顔が熱くなるのを感じた。

 非常に厄介な、人間特有の感情である。


「好きだねぇ。コトハさん」


 さして気にしていない奏が、今さらどうこう言うことは無い。翠がその少女にただならぬ想いを抱いていることなど、既知のことなのだ。


「……ん……好き」


 耳まで真っ赤に染めて、翠は、正直に頷いた。

 その感情が普通ではない、特殊なものであることも、わかっている。

 実感としての理解はないが、奏は翠のその気持ちを受け入れ、尊重すらしているつもりだ。

 だからこそこうして、彼女の伴奏者を務めている。

 もっともそれは、奏の演奏家としての血からくる、自分を試したい欲求でもあるのだが。


 ただ何より、奏自身気が付いていない、翠への特別な感情が、それを押している事実も、またあった。

 恋とはまさに、少年少女を揺るがす天敵であり、強い味方でもある。


「うん。食べた食べた」

「ごちそうさま」


 律儀に手を合わせる奏にならい、翠も食後の礼を取る。

 常に持ち歩いている布袋の中から、規定の錠剤を取りだす。

 食後は、合計三種類の薬を飲むことが、主治医により義務付けられている。


「コトハ先輩、今回は何吹くかな」


 翠が熱を上げる、恋の相手は、二人とは違う高校に通う一つ上の先輩で、フルート奏者だ。

 彼女の腕前も然ることながら、伴奏者である少年の腕も学生の域を疾うに達しており、コトハの音色をより引き立てている。

 コトハのフルートのソロというよりも、二人のデュエットと言った方が正確ですらある。


 数年前に一度、翠はコトハをあるコンクールで見たことがあり、以前、彼女同様参加者として行ったソロコンクールで再びその姿を目に留めた。


 気付けば、恋に落ちていたのである。


 地区大会を簡単に通り抜け県大会でも金賞を取った二人は、この世界ではかなりの知名人だ。

 彼女の通う音楽専攻のある高校も、相当名の知れている学校だ。

 当初、受験ではそこを目指そうと考えていた翠も、その後の進路などを考え、今の普通科高校を受けた。

 成績ではもう少し上を目指せたはずの奏も、翠についてきてくれた。

 地区は彼女と同じ場所で選んだので、大会で姿を認めることも、多くなるはずだと踏んだ。


「さぁ。受験するならだけど、二年生は本格的に部活できるの今年で最後だろうし、やっぱりアメイジング・グレイスかアヴェ・マリアなんじゃない?」


 あの二人の勝負曲といえば、この二曲である。

 かなり幅広く、様々な曲を演奏する二人だが、ここぞというときにはこの二曲のどちらかを披露している。

 中学時代にも、アメイジング・グレイスで金賞を取っていたはずだ。

 管楽のソロとしては有名でないので、やはり、何かしら思い入れのある曲なのだろう。


「あー……っ。コトハ先輩のアヴェ・マリア、聴きたいなぁ」

「……そ。聴けると、良いね」

 錠剤が苦手で一錠一錠流し込む翠から、何となしに奏は目を逸らす。

「……翠も、コトハさんに見てもらうんだから、頑張らないとね」

「うんっ。頑張る!」


 少しずつ、強くなる想い。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ