一章 一
一
翠がその姿を初めて見たのは、まだ年端もいかない、幼い頃だった。
彼女は、恋に落ちた。
自分にとってのそんな人生の転機を、どうしてここ十年近く忘れていたのだろう。
それを思い出したとき、翠はそんな疑問を自分にぶつけた。
鼓膜を、お気に入りの鍵盤の音が叩く。
B♭。クラリネット奏者である翠が、最も多く聴く音で、同時に、最も多く奏でる音でもあった。
身体の一部と言っても過言ではない愛楽器に、息を吹き込む。
今日も翠の相棒は、優しく、しかし全力で彼女に応えてくれる。
鍵盤と寸分のズレもなく、美しい単音が音楽室に響いた。
彼女のパートナーである奏が響かせた鍵盤の音と、まるでそれのみで一つであるような音を作り出す。
「……おっそろしいほど、ぴったりだねぇ」
奏の溜息。響きが完全に途絶えると、そっと閉じていた瞼を上げ呟いた。
翠と違って生まれつきの完全な絶対音感を持つ奏は、翠の奏でる音を、いつも心地良さそうに聴く。
翠がそうであるように、パートナーの音は、互いにとって一番心地良い音なのだろう。
本来なら気温や日によってずれる楽器の音程が、どうも翠の場合常に完璧らしい。
絶対音感を持つ奏にとって、それはとても、聴き心地の良いものだという。
今翠は、今月末にあるソロコンクールに向けて、伴奏者である奏と共に尽力している。
所属している吹奏楽部自体は、万年地区大会銅賞の弱小ではあるが、幼少期からそれぞれの楽器に慣れ親しんできた二人は、そうでもなかった。
翠は九歳の頃から親の影響でクラリネットを続け、奏はもっと前、幼稚園に上がる前から自宅のグランドピアノに触れてきたという。
二人の出会いは中学時代――学校全体の行事としてある、合唱祭だった。
クラスが違って部活も、翠はクラリネットを続けるため吹奏楽部だったが、そこではピアノを弾けるわけではないので、奏は陸上部に所属していた。
奏は、ピアノの腕前はもちろん勉学や運動面でも、かなりの良成績を叩きだすのだ。
翠はその合唱祭で、伴奏者の席に座っている名も知らぬ隣のクラスの少女――の腕前――に、惚れ込んだ。
合唱祭が終わると、すぐさまその少女――奏に駆け寄って、自分の思いのたけをぶつけた。
翠はあまり、自分の感情を押し隠す人間ではなかった。
「よし、ぼちぼち休憩にしますか」
基礎練習の後二時間ほど二人で合わせの練習。
正午を過ぎたところで、奏は翠に休憩を促す。
彼女の言葉が無ければ、翠はいつまでも、食事も忘れ練習に明け暮れてしまう。
今は、コンクールまで一カ月を切っているので、特に燃え上がっている。
今回のコンクールは、翠にとって重要な、自分の人生最高と言っても過言ではないステージなのだ。
「待って、もうちょっと」
その分、気合も入る。のだが。
「だーめ。吹きすぎると、翠も楽器も疲れちゃうよ」
休憩時間になっても個人練習をやめない翠を、奏は半ば無理矢理準備室へと向かわせる。
彼女の言うことは間違っていないので、翠も渋々それに甘んじる。
最初こそ翠が強引に奏を自分の元に引き込んでいるのだが、元々運動部で我の強い所のある奏は、翠の、物事に一直線で周りを気にしなくなるその行動を、修正する役割を担っている。
絶妙なバランスで、この二人の関係は成っているのだ。
今も奏は、中学時代から続けていた陸上をやめ、この吹奏楽部に入ってきてくれている。
「はー、疲れた。ってか静かー」
基本的に休日に活動はしないこの部活。
高校ともなれば中学よりも自由で、口を聞けば自主練程度は許されるため、非常に嬉しい。
それらのスケジュール管理は、奏が行い顧問にも話を通してくれている。
「だねぇ。運動部居るから今はあれだけど、夏休みは、凄かったなぁ」
「うん。学校中静まり返ってた」
脱力する翠の顔を、彼女に気付かれない程度で凝視する奏。
――まぁ、顔色は悪くないか。
ある理由で非常に今回のコンクールに気合の入っている翠。
伴奏者である奏は、彼女よりも気負いは少ないが、それでも、また別のある理由で、気を張っているのだった。
「夏休み、楽しかったなぁ。あ、翠、髪伸びた?」
弁当を広げ翠の正面に座る奏。ふと思ったように言われたので、翠も、自分の髪に触れてみる。
そう言えば、ここ最近前髪以外を切った記憶が無い。セミロングの髪は、少しばかり「彼女」への憧れもある。
「そだねー。前髪は邪魔になったら切っちゃってるけど」
「あぁ、なるほど。カナは、邪魔になったら全体切っちゃうけど」
と言う奏の髪は、セミショート。
中学時代は陸上部ということもありもう少し短かったが、ここ最近は、ずっとそのあたりまで伸ばしている。
自分の容姿にはあまり興味のない性格だが、奏は
――可愛い。
容姿の面で言っても、運動部であっただけにスタイルはかなり良い。
性格もべたべたしておらず、男子でも女子でも分け隔てなく接する。
――私とは、違う。
翠もまた、普段は他の評価など気にする性格ではないが、コンクールが近づくにあたり、気になるものは、気になって来た。
――可愛く、なりたい。
「……なんか、今から緊張してきた」
翠がそんな正直な気持ちをぶつけられるのは、奏が相手だから、だろうか。
「今までコンクールなんて山ほど経験してきたくせに」
悪戯に笑んで、奏が茶化してくる。
確かに、九歳からクラリネットを始めて、アマチュアのコンクールには幾度となく出てきた。
しかし今回は、違うのだ。
「今回は……コトハ先輩がいるから……」
箸を休めて、視線を下に移す。
彼女の名前を呼んだだけで、顔が熱くなるのを感じた。
非常に厄介な、人間特有の感情である。
「好きだねぇ。コトハさん」
さして気にしていない奏が、今さらどうこう言うことは無い。翠がその少女にただならぬ想いを抱いていることなど、既知のことなのだ。
「……ん……好き」
耳まで真っ赤に染めて、翠は、正直に頷いた。
その感情が普通ではない、特殊なものであることも、わかっている。
実感としての理解はないが、奏は翠のその気持ちを受け入れ、尊重すらしているつもりだ。
だからこそこうして、彼女の伴奏者を務めている。
もっともそれは、奏の演奏家としての血からくる、自分を試したい欲求でもあるのだが。
ただ何より、奏自身気が付いていない、翠への特別な感情が、それを押している事実も、またあった。
恋とはまさに、少年少女を揺るがす天敵であり、強い味方でもある。
「うん。食べた食べた」
「ごちそうさま」
律儀に手を合わせる奏にならい、翠も食後の礼を取る。
常に持ち歩いている布袋の中から、規定の錠剤を取りだす。
食後は、合計三種類の薬を飲むことが、主治医により義務付けられている。
「コトハ先輩、今回は何吹くかな」
翠が熱を上げる、恋の相手は、二人とは違う高校に通う一つ上の先輩で、フルート奏者だ。
彼女の腕前も然ることながら、伴奏者である少年の腕も学生の域を疾うに達しており、コトハの音色をより引き立てている。
コトハのフルートのソロというよりも、二人のデュエットと言った方が正確ですらある。
数年前に一度、翠はコトハをあるコンクールで見たことがあり、以前、彼女同様参加者として行ったソロコンクールで再びその姿を目に留めた。
気付けば、恋に落ちていたのである。
地区大会を簡単に通り抜け県大会でも金賞を取った二人は、この世界ではかなりの知名人だ。
彼女の通う音楽専攻のある高校も、相当名の知れている学校だ。
当初、受験ではそこを目指そうと考えていた翠も、その後の進路などを考え、今の普通科高校を受けた。
成績ではもう少し上を目指せたはずの奏も、翠についてきてくれた。
地区は彼女と同じ場所で選んだので、大会で姿を認めることも、多くなるはずだと踏んだ。
「さぁ。受験するならだけど、二年生は本格的に部活できるの今年で最後だろうし、やっぱりアメイジング・グレイスかアヴェ・マリアなんじゃない?」
あの二人の勝負曲といえば、この二曲である。
かなり幅広く、様々な曲を演奏する二人だが、ここぞというときにはこの二曲のどちらかを披露している。
中学時代にも、アメイジング・グレイスで金賞を取っていたはずだ。
管楽のソロとしては有名でないので、やはり、何かしら思い入れのある曲なのだろう。
「あー……っ。コトハ先輩のアヴェ・マリア、聴きたいなぁ」
「……そ。聴けると、良いね」
錠剤が苦手で一錠一錠流し込む翠から、何となしに奏は目を逸らす。
「……翠も、コトハさんに見てもらうんだから、頑張らないとね」
「うんっ。頑張る!」
少しずつ、強くなる想い。