序章
寄せてはひいていく、波。そんな平凡な一節が相応しい、美しい情景。
見慣れてしまったからという理由だけではない。
そんな美しい光景すらも、少女――コトハの心を揺るがすことは無かった。
この少女は今まで、胸が躍るような感情の昂りを感じたことがないわけではなかった。
初恋は、いつだっただろうか。いつの間にかそれは始まって、胸を焦がす想いを募らせた。一緒に居れば楽しくて、心が落ち着いた。彼が誰かと話しているだけで、苛立ったこともある。
けれどそれも、いつの日か失われて、消えて、存在しなくなった。
きっかけ。それは、何か、あったのだろう。
明確ではないそれも、とっかかりに過ぎず、始まりでしかなかった。その後の虚無に比べれば、大したこともない。取るに足らない出来事だ。
「……わたしには、何もなかった」
手を伸ばすのは、虚空。
そこには、コトハと同じ、何もない。眼下には、険しい崖がほぼ垂直に海から生えていた。コトハは、そこの一番上に立っている。
「何となく、わかっちゃったんだ」
セミロングの綺麗な髪と、高校の制服が風と遊ぶ。
「学校の成績も……運動も……何を書いても、読んでも、食べても飲んでも見ても聴いても触っても。わたしはそこそこ――それなりの成績は取れる、それなりの想いを抱くこともできるそれなりのものを感じることもできる。でも、そこまで。それ以上には行けなくて進めなくて戻れなくて逝けなくて聴こえなくて見えなくてほふれなくて。――全部、わかっちゃった」
数歩足を進めて、右足が、空を踏む。
「あんなに大好きだった秀弥とのデュエットも、今は、もう……。……わたしには、秀弥みたいな才能が、なかったから」
躊躇が、そっとコトハの中から消えていく。
「なかったから。だから、全部」
心地良い、柔らかな空気に全身が包まれるのを感じた。
「……捨てるんだ」
捨てるものも、無いのだけれど、捨てるのだ。
もう、やり直したくすらない人生を。