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世界の終わりに転生してやれやれ  作者: サトイチ
世界の終わりに
8/11

8.「井戸とイドをかけるなんて、最高のセンスだね」

「やはり、ジャズはレコードに限る。そう思わんかね」

  ブルーグレーの軍服に身を包んだ老人はそう言って、パイプを加えたまま紫煙を吐き出した。

  軍曹は、ジャズにうるさいようだった。その割には、マイルス・デイビスやジョン・コルトレーンあたりのレコードが棚に並べられており、まるで「ジャズ入門書」といった具合だ。


「ジャズは受容であり、共感だ。憎しみや不安は昇華しなければならない。憤ったところで、そこには終わりがないのだよ。誰かが断ち切らなければ」

 軍曹は、僕がこの世界に来たときと同じ格好で、同じように安楽椅子に座っていた。相変わらず家具の趣味がよく、ガラス製の灰皿はよく磨かれており、窓から見える雪だけが時の経過を告げていた。そう、今は冬なのだ。僕は影が弱って死んでしまう前に、この街から出なければならない。そのためには、北の森に行く必要があるのだ。


「軍曹は、北の森の管理をされているそうですね。森に行きたいので、入り口の鍵を開けてもらえませんか」

 そう僕がお願いすると、軍曹は腕を組み、ゆっくりと首を横に振った。

「若いときにしなければならないことは、目の前のことに真摯に打ち込むことだ。策を弄するのは、年老いてそれができなくなってからでいい」

「なぜ駄目なんですか。なんであそこだけ金網で覆われているんです? そんなに危険なんですか?」

「あそこは、特別なんだ。誰も入れることはできない。君にできることは、しなければならないことは、無心でパスタとサンドウィッチを作ることだけだ」

 軍曹はそう言うと、もう話すことはないとでも言うように椅子の肘掛けに頬杖をつくと、目を瞑って動かなくなってしまった。


「あの森には、松の実があると聞きました。ローストした松の実をツナとチーズとあわせてパスタにしたり、ああ、鳥の照り焼きにタルタルソースを和えて、松の実を乗せたものをホットサンドにしても美味しそうですね」

 軍曹の片眉がわずかに動いた。

「でも、森に行けないなら仕方ないですね。他にも食材が眠っているかもしれませんが、諦めましょう」

 軍曹は、「待ちたまえ」と言うなり、机の引き出しから一本の鍵を取り出した。赤錆びた、ちょっとした年代物の鍵だ。

「実は、今日は朝から具合が悪い。風邪を引いてしまったようだ。申し訳ないが、私の代わりに見回りに行ってくれないだろうか」

 僕は笑顔で鍵を受け取った。去り際、軍曹が「君のパスタは、最近本当に美味しくなった。あれだけが私の生きがいだ。私をまた孤独にしないでくれ。頼む」と言った。僕は右手でそれに答えた。


◇◆◇


「本当によかったの?」と僕は夏に尋ねた。

 北の森の門はもう目の前だ。吐く息は白く、森は昼過ぎだと言うのに陰鬱な影を落としている。聞いたことのない鳥の鳴き声が聞こえた。鳥かどうかすらよくわからない。

「うん、私も気になるから。私が言ったことだし」と夏は答えた。

 夏は膝丈の白いダウン・コートのポケットに手を突っ込み、茶色とグレーのチェックのマフラーに首を縮めている。森に近づくにつれて、張り詰めた冷気が雪とともに積もっているように思われた。


「おい、俺の心配はしないのか?」と赤鼻が言った。

「お前は呼んでない」と僕が言うと、赤鼻は鼻をフンと鳴らした。赤鼻の吐く息は軽く渦を巻き、冷めた大気の中へ霧散した。

 僕が軍曹から借りた鍵で門の錠前を開けると、ガチャン、という音がやけに響いた。僕は思わず周りを見渡したけれど、僕らの他には痩せこけた羊くらいしかいなかった。羊達はまるで暇潰しのように、雪の下の草を食んでいる。それは食事ではなく、口寂しさを埋めるための儀式のようだった。僕達は暗い森の中へと歩みを進めることにした。


◇◆◇


 軍曹が見回りしているためか、ある程度の道のようなものができており、それに従って我々は無心で足を繰り出した。それが目的の場所にたどり着く保証はなかったが、我々が頼りにできるものはそれしかなかった。まるで人生のようだった。一定のレールが敷かれているものの、それに沿って進むことが望む未来につながるとは限らない。しかし、そこから外れることは概ね社会的な死を意味するのだ。


 15分程も歩くと、雪を被った木々の合間からこじんまりとした小屋が現れた。ログハウス調だが、窓が小さく、寒冷地に合わせたものと思われた。これ以上歩いたところで何かあるかもわからず、いったん暖を取りたいという夏の希望もあり、小屋の玄関をノックした。一瞬の間を置いて、中から「お入りください」と女性の声が聞こえた。

 おずおずと僕が扉を開くと、年老いた羊が 安楽椅子に座り、手編みのマフラーを編んでいた。

「いらっしゃい」と羊が言った。羊が喋っただって?

「お母さん!?」と夏が言った。お母さんだって?

「羊が喋った!?」と赤鼻が言った。お前が言うな。

 僕はどこから話を始めるべきか、手掛かりを見失ってしまった。


「夏、大きくなったね。元気だったかい?」と羊が言う。

「お母さんこそ、なんでこんなところに?」

 話し始めると長くなるんだけど、と羊は話し始めた。それは実際長かった。ロシア文学のようにあちこちへと話が飛び、飛んでは戻り、思い出したように収束しては拡散した。夏は熱心にうなずき、赤鼻はいびきをかき、僕は睡魔と必死に戦った。剥いた卵のような、とらえどころのないツルツルとした睡魔だった。僕は朦朧とした意識の中で、影とこの世界を出るべきかと睡魔に尋ねた。あるいはそれは羊に尋ねたのかもしれないし、夢の中での出来事かもしれなかった。


「つまり、お母さんは心を取り戻してしまったために、ここに閉じ込められてしまったのね」

「ある意味では、そう言った側面もあると思う。でも、それだけがすべてではない。一部を見て全部と捉えることは、時に真実を歪めてしまうのよ」


 僕は、「なぜ心を取り戻すことができたんですか?」と尋ねた。

「摩耗した心を取り戻す方法は、感情の揺らぎを感じること。美味しい食事で味覚と嗅覚を、激しいロックで聴覚を、幻想的な絵画で視覚を、触れ合うことで触覚を、それぞれ刺激するのよ。そして私には夏が生まれた。こんなに愛おしいものがこの世に存在するなんて思わなかった。そして私は隔離されることになった」


 羊は編み物をいったん横に置き、ところで、と言った。

「あなたは影とこの世界を出たいの?」

 僕は正直に、わからない、と言った。どちらも正解かもしれないし、どちらも間違いかもしれない。どちらかを選ぶだけの優先順位をつける要素を僕は持ち合わせていなかった。

「この世界のどこかには深い深い井戸がある。本当に深いの。でもそれが何処にあるのかは誰にもわからない。この辺の何処かにあることは確かなんだけれど。それは深くて暗くてじめじめしていて、一度落ち込んでしまうと二度と戻れないかもしれない。一人でそれを見てはいけない。でも、いつかどこかで素直に見つめなければならない」

「井戸ですか?」

「それは本当にーー深いのよ」と言って、羊は編み物に戻った。

 眠りから覚めた赤鼻が、口を開いた。「それは、イドとかけているのか?」

 羊は編み物をしたまま、あるいは、と答えた。

「井戸とイドをかけるなんて、最高のセンスだね」


「お母さんをここから出すにはどうしたらいいの?」と夏が言うと、羊は手を止め、困った顔をした。

「私がここから出ることは、きっとできない。ボトルシップの船と同じように、入り口から出られるとは限らないのよ。ただ、あなた達ならまだ間に合う。急いで帰りなさい」


 夏は名残惜しそうにしていたが、また来るからねと言って小屋を後にした。

 小屋を出るとき、僕は羊に呼び止められた。

「あなたは特別な存在のようね。ここに留まることはきっとできない。顔のない羊を探しなさい」と言って、羊はもう話すことはないというように編み物に集中した。


◇◆◇


「おや、思っていたより遅かったですね」

 突然の来客にも、マスターは毅然とした態度で応対した。開店前の夕暮れのバーには、マスター以外は誰もいない。

「まさか、お前だったとはな」と言うなり、男はドラム缶のような胴体の前で、よく砥がれた大振りの鉈を構えた。

「正確には、私の一部、ですが」

「今日はあのトナカイ野郎はいないのか? トナカイの癖に言葉を話すなんておかしいとは思ってたんだ」

「開店前ですので。それにしても、いいのですか? 門を留守にして」


 男は丸太のような足をためらいなく交互に繰り出し、マスターに近づくと、一息に大鉈を振るった。

「違う、俺が門なんだ」

 バーの古い床板にマスターの首が落ち、鈍い音が響いた。

「おかしいというのは、おかしいと思ったときに言わないと、ただの負け惜しみですよ?」と首が笑った。

 門番は勢いよく首を蹴飛ばし、バーを後にした。

次回掲載予定、第9話「メタファーとしての井戸と顔のない羊」

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