7.「僕はカツ丼が食べたい」
「僕はカツ丼が食べたい」
実際に言葉にしてみると、それはとても重要で重大なことのように思われた。丁寧に折り畳まれ、センスのいい海外の便箋に入れられた、秘密の手紙のような響きだ。
そう、僕はカツ丼が食べたいのだ。何が悲しくて、パスタとサンドウィッチばかり食べて、ビールでナッツを流し込まなきゃならないんだ。何が完璧な絶望だ。冗談じゃない。
今日も朝から雪が静かに降り注いでおり、暖かいはずの昼の光は厚い雲に遮られている。昼食後、僕の家に残ってコーヒーを飲んでいるのは夏と赤鼻だけだった。
「赤鼻さん、たまにはいい子にプレゼントくらいあってもいいんじゃないか?」と僕は尋ねた。
「それはサンタの仕事だ。俺のじゃない。もし仮に、ここにいい子がいたとしても、だ」
互いのビジネスに踏み入らないのが、この街のルールだった。
「だいたい、カツ丼なんて学生か肉体労働者の食うもんだ。いい大人が食べるもんじゃない」と言って、赤鼻は鼻を鳴らした。
「いいじゃないか。たまにはカツ丼だって食べたいし、味噌汁も飲みたいんだ。借りてきた装飾品みたいな食生活はまっぴらなんだ!」
僕は声を荒げた。もう誰にも僕を止められない。カツ丼が食べたい。カツ丼をかきこみたい。半熟の卵でとじられた、ややしっとりとしたトンカツを醤油の風味の乗った玉ねぎと一緒に食べ、そのままの勢いで熱々の白飯を食べたい。丼にそのままかぶりつきたい。徹底的に、完膚なきまでに、米ひと粒残さぬよう丼の中を蹂躙しつくしたい。今の僕の気持ちを表現するには、賛美歌を歌う十人単位のちょっとした聖歌隊が必要になるだろう。
僕が悶絶していると、赤鼻が「カツカレーじゃダメなのか?」と尋ねた。僕は、何もわかってないな、これだからトナカイは、という顔をした。
「あれはカツとカレーだ。邪道なんだよ。トンカツは卵と組み合わせることでその潜在能力のすべてを発揮することができる。トンカツは具材でしかない。卵でとじられることで、完璧な料理となる。そう、完璧なんだ。カツ丼は魂なんだ。魂の叫びなんだ」
そう言って、僕は遠い記憶にある、母の作ってくれたカツ丼を思い浮かべた。あれこそまさに、形而上学的存在としてのカツ丼であった。メタファーと言ってもいい。何でもいいからカツ丼が食べたかった。
我々が言い合っていると、窓から外を見ながらコーヒーを飲んでいた食材担当の夏が口を開いた。
「よし、作ってみよう! 私も食べたくなってきたから、協力するよ」と言って、冷蔵庫の中をテキパキと確認し始めた。
「卵と玉ねぎはこのまえパスタ用に持ってきたのがあるね。米は、ピラフ用のものが私の家にあったはずだから、後で持ってくるよ。酒は、白ワインでなんとかしてくれるかな。日本酒はちょっとアテがないから。あとは醤油と豚肉か」
夏は冷蔵庫の扉を締めた。パタン、という小気味のいい音が響いた。
トンカツ用の厚めの一枚肉を出してくれるところが思い当たらないとのことだった。
「うーん、薄い肉を重ねるのじゃダメかな?」
「嫌だ。風情がない」僕は力強く却下した。一枚の厚い肉を切り分けねばならない。カツ丼とはそういうものだ。
僕は赤鼻をじっと見つめた。赤鼻はうろたえた。
「おい、まさか俺を食おうってわけじゃないだろうな?」
「トナカイのカツ丼というのも、趣向としては悪くないかもしれない」と僕が言うと、夏も「それもそうね」と合わせた。
「そう言えば前に厚めのポーク・ジンジャーを食べたことがあったな。行ってきます」
「よろしい」
赤鼻は慌てて家を出た。
「あとは醤油か。夏にも心当たりがない?」
「アテがまったくないわけじゃないんだけど、結構難しくてね」
「醤油があれば、和風パスタも作れる。肉じゃがだって作れる」
「素敵な響きね。わかった、頑張ってみる」
ありがとう、と言って、僕は夏を見送った。
◇◆◇
日の沈んだ頃、赤鼻と夏が戻ってきた。
「米、ここに置いておくね。パン粉がなかったから、とりあえず手元にあったフランスパンを持ってきたよ」
「ありがとう。赤鼻も、やればできるじゃないか」
赤鼻は得意げに蹄を鳴らした。ここから僕の戦いだ。
僕はフランスパンを無心で千切り、刻み、炒めてパン粉を作った。卵は既に冷蔵庫から出し、常温にしている。パン粉の粗熱を取る間に、油の入ったフライパンを火にかけ、玉ねぎを薄くスライスして、トンカツ用とカツ丼用に卵も軽く溶いておく。豚ロースの筋を包丁の先を指すようにして切り、包丁の背で軽く肉を叩く。左手で豚肉を持ち、小麦粉をつける。余分な薄力粉は払い落とし、左手で持ったまま溶いた卵につけ、卵を満遍なくつける。その間に油が170度まで上がっている。パチパチという気持ちのいい音が広がっていく。まだだ、まだ慌てる時間じゃない。ほどよくきつね色になったトンカツを引き上げ、1cm間隔で包丁を入れる。別のフライパンに醤油と砂糖と白ワインを入れ、玉ねぎを炒める。その間に炊きあがった米を器に盛り、トンカツをフライパンに入れて卵でとじる。フライパンから滑らせるようにトンカツを乗せると、僕の周りで天使がラッパを吹く音が聞こえた。完璧だ。
僕達は無心でカツ丼を食べた。一切の妥協を許さない、一切の油断も許さない、そんな張り詰めた戦いだった。やや衣の柔らかくなったトンカツを前歯で噛み切る喜び、塩味を帯びた口内に白飯をかきこむ喜び。そう、ご飯はのどごしなのだ。咀嚼などという軟弱な行為は唾棄すべきである。
ものの5分で、我々は丼の中を蹂躙し尽くした。圧倒的な侵略であった。一方的な簒奪であった。そして、完璧な幸福に包まれていた。
「これが、完璧ということなのね」と夏は言った。
そう、これが完璧なのだ。パスタや絶望に完璧なんてない。完璧が許されるのは、ただカツ丼のみなのだ。その存在には、神さえ膝を折る。
その頃、広場には厚い雪が積もっていた。その隅にある地下室では、扉を締めてもどこからか冷気が忍び寄ってくる。影は出口の情報を待ち続けた。毛布を手繰り寄せ、震えながら、夜が明けるのを待った。
次回掲載予定、第8話「井戸とイドをかけるなんて、最高のセンスだね」