5.「イタリアは孤独を輸出している」
次回掲載予定、第6話「完璧なパスタなんて存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
「おばあさん、今日もいい天気ですね」と僕は老婆に挨拶した。
老婆は僕の目を見て、「行動を伴わない想像力は、何の意味も持たない」と言った。
「チャーリー・チャップリン」
僕と老婆は互いに微笑み、すれ違った。
僕は引き続きパスタとサンドウィッチを作り続けていた。
どんなパスタやサンドウィッチを作るかは自由だったから、僕の気分でペペロンチーノだったりクリームパスタだったり、BLTサンドだったりを作った。決まっていたのは、パスタかサンドウィッチを作ること。それも10キログラムを毎日作り続けることだった。大きな鍋に何度もパスタを放ち、またはひたすらに食パンを重ねて切っていた。作り終えた料理は夏に預けることになっている。
冷めたパスタはおいしくないと思うのだが、預けた料理がどのように保存され、どのように分配されているかは僕にはわからなかった。夏に預け、僕の視界から消えると、それは概念としての存在に過ぎなかった。どこかにあって、どこにもない、僕の冷めたパスタ。
この街に来て、一ヶ月が過ぎようとしていた。
ここのところ一段と冷え込みが増し、明日には雪が降るかもしれない。容赦のない寒さは、人から意志を奪い、深い孤独に導く。雪の街には共通した陰鬱さがあるのだ。
雪が降る前に、僕にはやらなければならないことがあった。そう、影に会いに行くのだ。
◇◆◇
この街は、周囲を10メートルほどの高い壁に覆われている。北は深い森に覆われておりわからないが、南には門があり、唯一の出入口と思われる。そこには丸太のような門番がおり、僕は影に会わせて欲しいと言った。
「そうだな、そろそろ頃合いだ。中に入りな。会うとよくわかるさ」
門番は、大きな門の横にある勝手口を、錆びた鍵で錠前を開けて僕を中に通した。時代に取り残されたような、遺物的な鍵だった。
門の中に入ると、やはり壁に覆われたサッカー・コートくらいの広さの空間があり、奥には同じような門があった。その先は外なのだろう。門の内側よりも、一段と冷気が刺してくるように感じた。広場の脇にベンチがあり、そこに僕の影が座っていた。
「30分くらいしたら呼びにくる。何を話してもいいが、あまり入れこまないように。つらいだけだからな」と門番は言って、門の内側に消えた。
「やあ、元気そうだね」と影は言った。
自分の影と話すのは、妙な気分だった。でも、それは間違いなく僕の影であり、疑いようのない確かな親密さが内在しているのを感じた。そしてそれは同時に、幼い頃の地元の同級生に久しぶりにあったような、どうしようもない時間による断絶を感じさせた。影は切り離されてしまったのだ。どうしようもないくらいに。
影は少し元気がなさそうだった。ここは寒いのだ、と言った。広場の隅に地下室があり、影はそこで暮らしている。日は差さず、冷気は積もっていく。
「このままだと、僕はゆっくりと死んでいくだろう。完璧な街に、影は不要なんだ。でも、僕は僕でありたいし、このまま死ぬのを待つのも嫌だ。一緒にこの街を出よう」と影は言った。
「僕だって、自分の影がなくなるのは嫌だ。できれば一緒にいたいと思う。でも、壁は高いし門は堅く閉ざされている。街の外がどうなっているのかもわからない。ここは『世界の終わり』らしいから」
「僕に諦めて死ねと言うのかい? 大丈夫、きっと出口はある。門番は、『この街は完璧な街だ』と言っていた。それならば、入ることができるということは、出ることができなければならない。均衡を保つために。だから、なんとか出口について探ってくれないか。僕はここから出られないから」
門番が時間を告げに来て、僕は門の中に戻った。影は下を向き、何もない地面を眺めていた。
門番は勝手口を閉めると、「気持ちを切り替えるんだ。自分の影がなくなるというのは辛いことだが、それを受け入れて前に進まなけりゃならない時もある。そして、今がその時だ。いつまでも同じ時間にしがみついていられるわけじゃない」と言った。
僕は混乱していた。それはつまり、自分の影をとるべきか、この街で安穏と暮らすことをとるべきかという二択を迫られているということだった。自分の影を見殺しにするのは気が進まなかったけれど、この街での暮らしは悪くなかった。身動きの取れない袋小路に入ってしまったのだ。
僕は重い足取りで家に帰った。
◇◆◇
家に帰ると、夏から電話がかかってきた。時計を見ると、午後三時だった。
「もしもし、申し訳ないんだけど、今手が話せなくて」と僕は言った。
「あ、ごめんごめん。忙しかった?」
「うん、今ちょっとパスタを作ってて」と言いながら、僕はグツグツ煮立った想像上の鍋に、架空のスパゲッティーをひとつかみ回し入れた。
「そっか、大した用事じゃなかったから、またパスタを持ってきた時にでも話すよ」
「ごめんね、またあとで」と言って、僕は鍋の中で踊るスパゲッティーが絡まないように箸でそっとかき混ぜた。
「またあとで」と夏が言って、電話が切れた。
想像上の鍋と架空のスパゲッティーは、電話とともに午後三時の静寂の中に消えた。
僕は混乱していて、誰とも話したくなかったのだ。世の中には、二種類の人間がいる。混乱したときに、人と話す人間と、話さない人間だ。僕は生まれた時から後者であり、それは予め決められていることなのだと思う。ある程度整理がつくまでは、一人になりたかった。整理がつかないまま誰かに話すと、どこかで誰かが傷つくのだから。
こういう時は、考え込むよりも何かをしている方がいい。僕がやるべきことは、パスタを作ることだ。
キッチンのキャビネットからスパゲッティーの袋を取り出した。何気なく裏を見ると、『原産国:イタリア』と書かれていた。
イタリアは孤独を輸出している。僕はそう思った。