2.「君には、パスタとサンドウィッチを作って欲しい」
朝起きると、僕は柔らかいベッドに包まれていた。
そうだ、悪い夢だったんだ。そう思って寝直そうとしたが、布団の感触がいつもと違っていた。
ホテルのパリッとしたシーツのように、どこかしっくりこないのだ。
仕方なく上体を起こし目を開けると、まるで見覚えのない部屋だった。
ベッドの右側は大きな窓に面し、淡いグリーンのカーテン越しに柔らかな陽光が揺れている。
上体を起こしたまま正面を見ると、北欧風の木製のタンスがあった。家具は詳しくないが、ひと目で丁寧に作られた高級なものであることがわかる。正面から左に視界を移していくと、部屋の入り口のドアが見え、コートのかかった鹿の角があり、ベッドの左手には深く腰掛ける安楽椅子が二つあった。椅子の間にはちょうどチェスのボードが置けるくらいの丸いテーブルがあり、ガラス製の灰皿が備えてある。いずれもやはり高級そうだ。
そして、これだけ趣味の良さそうな部屋に不釣り合いな、ブルーグレーの軍服に身を包んだ老人が一人、椅子に深く腰掛けてこちらを見ていた。胸元は勲章で埋め尽くされ、手にしたパイプからは紫煙が細く伸びている。
「起きたかね」と老人は僕に尋ねた。僕は状況がまったく飲み込めず、うまく返事ができなかった。
「無理もあるまい」と老人はパイプの灰を灰皿に落とした。
僕はバツが悪そうに、ここはどこで、何故僕がここにいるのかを尋ねた。老人は目を閉じ、右手でまぶたを三度押さえた後、ゆっくりと口を開いた。
「君には、パスタとサンドウィッチを作って欲しい」
意味がわからなかった。僕は怪訝な顔をしながら、「なぜパスタとサンドイッチを作らなきゃならないんですか?」と聞いた。
「サンドウィッチだ」
「え?」
「サンドイッチじゃない。サンドウィッチだ」
これは悪い夢なんだ。パスタを喉に詰まらせたのも悪い夢だし、知らない部屋で知らない人にたかだかサンドイッチの発音を咎められるのもまた、悪い夢なのだ。
僕が頭を抱えていると、老人が静かに立ち上がった。
「もうすぐ冬がくる。長く、厳しい冬だ。獣達は寒さに身を屈め、我々は秋までの蓄えを少しずつ切り崩しながら、じっと息を潜めて春が来るのを待つ。ある意味、それは永遠にも思えるものだ。それには、パスタとサンドウィッチが必要なのだ」
そうですか、と僕は言った。
「新人には夢を読んでもらうことになっているんだが、君は本来ここに来る予定ではなかったようだ。だから、他のことをしてもらいたい。申し訳ないが、寝ている間に門番が君の影を切り離してしまったから、あとで会いに行ってくるといい」
まったく結論に辿りつかない問答だった。僕は、ゴールもわからないまま無理やり走らされている盲目のランナーを思い浮かべた。40歳を過ぎ、少し腹も出始めた彼は、不幸なことに大事な一人娘を人質にとられ、犯人から言われるままに走らされているのだ。なんて不幸なのだろう。
だめだ、よくわからない問答をしていると、思考までおかしくなってしまう。
根気よく話を聞いた結果わかったことは、確かに僕の影がなくなっていることだけだった。どうやら、門番とやらに会いに行かなければ話が進まないらしい。
やれやれ、と僕は思った。
次話掲載予定「あなたってタフね」