天上の章
待ち合わせの門前には、すでにグイルたちが居た。珍しいことだけど、今回の依頼が、それだけ特別なんだ。
「馬車なんて豪勢ね」
「来たか。乗れ」
これも支援者の金なんだろう。ありがたく狭い荷台に乗り込んだ。
わたしが合流すると、すぐに出発した。
一番後ろの端に座り、離れていく外壁を眺める。
幌付きの馬車は、視界を確保するため前後の幕を開いてあるけれど、日差しをほどほどに遮り、風が吹き抜けて心地よい。
前方を見れば、グイルが地図らしき紙切れを手に何かを指示している。それを聞いて頷く、御者台に座る男はラティスだった。パーティーのサブリーダーで、しょっちゅうグイルとつるんでいる。
日程に関わるから馬車を借りる代金は出すけど、人を雇うまではしない。その程度の懐具合ってことなのか、グイルたちへの期待度が、その辺ってことだろう。
まあ、この件が今後に関わるのかもしれないけれど。
引き受けざるを得なかった、確実に手渡しだろう依頼書を思い出すと、頭痛がぶり返すようだ。
依頼を伝えた手紙の差出人は実のところ、そう大した相手だったわけではない。
グイルの態度が大仰だったから、逆に拍子抜けしたくらいだ。
ただ、わたしには断り辛い立場にある相手だったというだけ。
それは、都にある組合本部の偉いやつから直々に受け取ったものだった。
グイル経由というのは腑に落ちないけど、少しでも本部に名が売れる機会なんて、次にいつあるか分からない。ふいにするには惜しい。
それに、もし断ったなんて話が伝わったらと考えたら、引き受けるしかないじゃない。
「まったく、グイルのやつ……」
やばいことに巻き込まれたらどうしようかと、話を持ちかけられたときは本当にひやひやした。
同じ組合の仕事に違いはないんだから、あんなもったいぶった態度でなくても良かったのに。
それに乗せられたと思うと癪にさわるから、依頼に集中しなきゃ。
――依頼は、視察だ。
そう、ただ指定された現地へ赴いて、何かしら情報をまとめて報告する。
それだけ。
街道から外れてはいるけど、特に旨みもないから冒険者も滅多に近寄らないという、中途半端な場所がある。
そういった場所はけっこうあるけど、ともかく魔障が好みそうな洞穴が見つかったらしい。
そんな場所も幾らでもあるけれど、そこが不審なのは、元はもう少し小さかったはずとのことだった。
数年内に大きな変化があったなら、魔障が関わっている可能性は高い。
小物は出るらしいけど、それはどこでも同じ。今のところは特に被害はないけど、広がる種類なら早めに把握できたほうがいい。
周知する必要があるかとか、どう対策をとるかを決断するためにも、現地の情報が必要というだけだ。
規模が小さいのだから、跳躍級<クラス・トリガー>の一パーティへの依頼で済ませるていどの依頼。
依頼の出どころを考えれば僻まれるだろうし、大っぴらに言えないのは納得だけど。
そんないい話を、疎遠にしていたわたしに持ちかけるなんて、なにを考えてるのかと言いたくなるのは変わらない。
もちろん、洞穴の中にいる魔障の反応を知るための魔道具を、わたしが使えるからというのが一つの理由だとは分かってるけど。
ちらと馬車の中に、視線を巡らせた。
現在のパーティは四人。魔法使いの姿はない。
彼らに加わって間もなく、彼女は仕事に慣れると、あっさり他のパーティへと移った。
理由は知らないけど、グイルはあと一歩、我慢が足りないのがダメなところね。
「おい、アメリ」
せっかく良い景色を眺めていたのに、不躾に名前を呼ばれる。それだけでなく、荷台のあちこちに散っていた、おが屑まで飛んでくる。
「ザラク、わたしも一応、言葉は理解できるんだけど」
背後の警戒を担当しているはずの、はす向かいに座っていたザラクが、舌打ちした。鞘に納めた片手剣を側に置くと、身を乗り出す。
「ガタガタとうるさくて、よく聞こえねぇんだよ。いちおう聞くが、道具は忘れてないだろうな?」
「ああ、そういや、見てなかったな」
ザラクの隣に座っていたロアナが、同じく弓を置いて同調した。もう暇なの?
また、こいつらは。そんなの、気になるなら出発する前に確認することでしょ。
本当に、どうやって、こんな堅実な依頼をもぎとってきたんだか。
どいつもだらしなく、人当たりも良くはないし、特に他の奴らより秀でているところがあるとも思わない。
ツテを頼るにしろ、大した相手はいなかったはず。
ふと、よく隣町から来る行商人の姿が浮かんだ。
たしかグイルたちは、よくその護衛を引き受けていた。
他に顔の広そうな知り合いなんて、聞いたことはない。
珍しく気が合ったのかも。だとしたら、その商人もろくな奴じゃない。
「硝子なんだから、無暗に見せらんないのは分かるでしょ。こんなに揺れてる中で開けて、割れたらどうすんの?」
二人はわざとらしくうんざりした顔を見せるが、珍しく引かない。
仕方ないから文句だけは聞かせつつ、黙らせるために袋の口だけ開いて見せてやる。
見えるのは木箱だから中身は見えないけれど、蓋の中心には魔法具屋の焼き印がある。
「おう、確かにあんな」
「それがなけりゃ、評価が下がるからよ」
「分かってる。わたしの評価にも関わるから」
急いで道具袋をしまう。二人は満足してくれたようで下がろうとした。
「後ろを見てろと言ったろ」
二人との間を、グイルが割って入った。ザラクが不満げに返す。
「魔法具の確認だ」
「そういえば忘れてたな。あったんだろ? 戻れ」
グイルはザラクを押しのけて、わたしの隣に座った。
「あんたこそ、怠けてんじゃないの」
「後で交代するんだよ」
だからって、なんで体を近付けるのよ。
間に置いた荷物は、落ちたらどうすると下げられた。
「言っておくけど、移動中に変な気を起こさないでね。わたしの奥の手は、加減が出来ないから、みんな死ぬよ」
これまでは、どんな危険な場面でも使わなかった。だって死ぬときは、あっさり死ぬもんでしょ。都合よく使う時間を稼げて起死回生、なんて当てにしない。
こけおどしでしかないのよ、そんなもの。
自ら行使できるという時にだけ、それが意味を成す。対等に交渉するためなんかに。だから使う気はなくとも、本気で一財産を注ぎ込むもの。
冒険者なら、決して知られてはならないものだ。
女相手だろうと冒険者に警戒するのは、どんな致命的な物を隠し持ってるか分からないから。
それを思い出させてやったっていうのに。
「そりゃ、怖ぇな」
面白そうに口元を緩めるだけだった。
腹立ちまぎれに、言い辛いことを聞いてやる。
「だから、なんで、あんたらがこんな依頼を手に入れたか、まだ聞いてないんだけど」
「そうだったか? 天上級のパーティが出ちまっただろ。それで舞踏級<クラス・フラッター>の奴らが、穴埋めするように動いてる。だからさらに下の跳躍級も人手がたりなくなってるんだ」
「なるほど。そこに都合よく、昇級したあんたらが居たんだ。へぇなるほどねえ」
組合は、せっかくの戦力を手放したくなかったはずだ。
人が減った分の、補充。成功させた依頼ってのは、初めから試験だったのかも。
なんとなく、そう思って言ったんだけど、ザラクたちも苦笑したのを見れば合っていたみたい。
グイルはわたしを見下ろすと、まるで太陽が眩しいというように目を細めた。
「嫌味を言ったんだけど。なにが面白いのよ」
「久しぶりだな。お前と出るのは」
目を逸らすように正面を向いて黙った。
わたしに、力がないからだ。
グイルたちのパーティは、やる気もなくてバカだから、主に魔障掃討をやっていくことを選んだ。大抵、なんの技術もない、身一つで出てきた奴らはそうする。
たとえ、わたしが一緒に居たいと思っても、無理なことだった。
跳躍級<クラス・トリガー>、先へと手を伸ばせ。
わたしたちの言葉で、戦いはここからだ。
グイル達は、冒険者として一人前の戦力になったんだ。
「ま、それはいいだろ。でな……」
それから、なにかと思えば、わたしにはどうでもいい話を続けている。
自分の仕事ぶりを大げさに話すグイルの笑顔を横目に見ながら、もっと若かった日々を思い出していた。
こうしてわたしの隣で、こんな風に話す横顔に、惹かれていた日のことを、嫌でも思い出してしまっていた。
◇
数日して目的地に到着した。近くの宿場町に馬車を預けて、森へ入る。
「ここだな」
指定の洞窟は、森の浅い場所にあり驚いた。
灯かりを手に洞窟を歩きながら警戒するけれど、ただの自然にできた洞窟にしか見えない。
狭い通路をしばらく歩くと、広くはないが、吹き抜けになっている場所に出た。
正面の壁を見上げると、家の二階くらいの高さに穴がある。まだ奥があるってことだ。
「こっちから登れそうだ」
壁沿いに、でこぼこした岩の段差が、その穴の辺りまで続いている。
そこまで登ってから、吹き抜けの天井を見上げると、どうも壁が薄い。小さな穴から日差しが差し込んでいる。
これは、魔障の影響の特徴だ。
「当たり、か」
「面倒くせぇ」
何も起こらずに金だけもらえるのを期待していたのだろうグイルたちは、気を抜けない事態になったことでぼやいている。
暗がりから生まれる魔障にとって、こういった天然の洞窟は絶好の棲み処なのだろう。魔障らはより棲みやすくなるようにか、洞窟内を削る。そして、光が漏れそうになると見るや削るのを止めるのだ。だから、魔障の影響があるのは間違いないのだけど。
それだけならば、あちこちの似たような洞穴に見られる。
問題は、その規模だ。
棲みついた魔障を放っておくと、その中で力を付けて強大になり、それに見合った大きさに育っていく個体がある。そいつが洞窟内の魔障を統率し、厄介な存在になる。
だから定期的に潰しに来なければならないのだ。
あまりに深く広がってしまい、討伐が追いつかず魔障が固定化されてしまったような場所をダンジョンと呼んで、上の級のやつらは、そちらの手入れに取られてしまう。だから、こうした小さな場所を、中級以下の者が請け負う。
それらの光景を思い浮かべながら、比べるように周囲をよく見回す。横穴は部屋のようになっていた。
さらに奥にも、細い道が幾つか続いている。
まだ作りかけの小さなものだから、すぐに行き止まりのはずだ。
「どう見ても、魔障のせいで出来た穴だな。ここで調べよう」
グイルの指示に、わたしは頷いて箱を取り出す。
魔障の影響があると分かったなら、奥を確かめる前に、ここで実際の影響の度合いを調べる判断は正しい。
そういった慎重さ
「終わったら呼んでくれ」
「こんな場所で、よく寛げるよね」
「体力は少しでも温存しておかなきゃ、所長も言ってるだろ?」
気を抜くこととは違うんじゃないの、とは言わず仕事に取り掛かった。
手のひらで地面を撫で、なるべく平らな場所を探し当てると、鞄を広げて魔障の反応を調べる道具を取り出した。
ちょっと暗いけど、このくらいなら手探りで、どうにかなるかな。
傍らの大きな岩の側に、グイルが屈みこむ。
グイルは手のひらに、短い蝋燭を乗せていた。火を点け、側の岩に蝋を垂らして貼りつける。
暗いなと思っていたら、余計な気を回してくれた。いつも、そう。
それを横目に、道具を設置していく。
「なんなの、それ。すぐ消えそう」
「細かく分けてりゃ、荷物を詰めるのが楽だ。突然魔障に襲われて放棄するのも最小限で済む。便利だろ?」
その岩に肘を乗せて頬杖しながら、にやにやとわたしを見下ろしている。
「その手さばきを、夜も発揮しろよ」
「気が散る。黙って」
口を開けば、それしか言えないの?
わたしがあれこれと調べる間、そんな風にからかって暇をつぶしている。
ふと、炎が揺れた。息でも吹いて遊んでるのかと横目に見れば、グイルは揺れた炎を、険しい顔を浮かべて見つめていた。
そして視線は周囲を見渡す。
それからグイルは、暗がりの一点に視線を定めると、ゆっくりと体を起こした。
「ザラク、あっちを」
グイルが静かに指示すると、だらけきっていた他の奴らも、気配が変わる。
全員が即座に武器をとった。
「お前は、続けろ」
「分かってる」
小さく答えると、最後の部品をはめ込んだ。
ザラクが壁際へ背を寄せながら、奥の暗がりへと、すり足で移動する。
やや後方にラティスが続き、ロアナは弓を手に、わたしたちを庇うように立つ。
気が付けばグイルは、わたしの背後に移動していた。
いちおうは、気を遣ってくれてるらしい。
そこに疑問はない。
何度か依頼を共同で受けたこともあった。動きは知っている。
意志力を込めた小瓶の蓋を開け、道具へと流し込む。
火打石のように、加工された魔障石で刺激を与える。
するとランタンのような硝子の入れ物の真ん中に、淡い輝きが浮かんだ。
そして、周囲に魔障の影響があれば取り込み始める。輝きの中心に、黒い影が浮かんだ。聞いた通りなら、小さな影を見せるはず。
影は動きを止めず、淡い輝きの中に広がっていく。
――強い。
おかしい。反応が大きい。
見た限り洞窟は、そこまで深く大きなものではない、はずだ。
それなのに、まだ止まらず、輝きの縁までを黒く塗り替えようとしていた。
「グイ、ル……!」
伝えようとグイルを振り向いたとき、振動が、わたしにも伝わった。
「なんだ、これ。ここまでのヤツがいるはずは……」
ラティスが異様さを伝える。
奥の通路から続く暗がりが、広がっていくのが見えた。
誰の者とも知れない焦りが伝わってくる。
「……バカな」
違う、暗がりよりも、暗い闇。
体に纏う闇の霧は、洞窟内を包むように、黒く、黒く、塗り替えていく。
「魔障<イビル・フェノメナ>」
分かっていても、呟かずにはいられなかった。
――これが、本物の魔障なんだ。
巨大さよりも、恐怖を掻き立てたのは、その体の中心。
今まで見た小物が、紛い物に思えるほどの、濃い闇だ。
見ていると、うっかり吸い込まれそうな闇の――。
その姿が、奥の通路から完全に這い出るより先に、グイルの叫びが届いた。
「走れ!」
固まっていた体が、動きを取り戻す。
「撤退だ!」
グイルに腕を掴まれ、半ば引きずられるように走る。
すぐ後を、ラティスとロアナが追う。先頭にいたザラクも追いついた。
細く、低い唸り声が背後から追い、体を絡めとるように反響する。
全身から噴き出る汗が、体から熱を奪い取る。
走らなければ、逃げなければ。
腕を引くグイルの力が強く、足がもつれそうになる。
わたしが、皆のように走れないから、次々と追い越されて最後尾になる。
辿りついた横穴の縁、そこは崖だ。
首筋を、闇の霧が掠めた。
息を呑む。
わたしには無事に着地できない高さ。
だけど、もう背中を闇が舐めている。
このままではグイルも――わたしは腕を振りきろうとして、それは叶わなかった。
「飛べ! ラティス、頼む!」
グイルに、わたしは突き飛ばされていた。
崖下に落ちながら、あいつの半身が、黒く、欠けるのが見えた。
闇が、グイルを、捕らえた――。
すぐに、体に衝撃が来る。ラティスがわたしを掴んで、着地していた。
他のやつらも、すぐに体勢を立て直す。
わたしはラティスの手を振りほどいて、両手を伸ばした。
血の雨と、ただの部位となった人の欠片と一緒に落ちてくる、グイルの体を受け止めた。
上から見下ろす巨大な闇は、ロアナが矢を射かけると下がっていった。
下りるには高すぎると思ったのか。
「ま、待ってて、グイル。血を、すぐ血を止めるから……こんな傷、神祠魔法なら、すぐに治るから……」
「やめろ、アメリ」
「あんたら仲間でしょ、早く、連れていかなきゃ!」
「無理だって、言ってんだよ!」
布を巻こうとする腕を、乱暴に止められる。
魔障を警戒した怒鳴り声は、低く抑えてあるが、表れた怒りは本物だ。
「なんで」
「期待をもたせるな……」
ラティスは、わたしの耳元で小さく呟き、肩を叩いた。
だって、まだ、彼は――グイルは、私を見上げているのに。
いつものように、口の端だけ上げる、厭味ったらしい笑みを浮かべて。
「なん、で、お前が、泣くんだ、よ……」
わたしが泣く?
グイルの顔に落ちた透明の雫は、彼の頬を伝って地面に落ちる。地面を染める赤い水たまりに、混じって消えていく。
グイルの手が、わたしに伸ばされる。それは一瞬で。
赤いぬめりか頬を撫でて、落ちていった。
どこを見ているか分からない、閉じない瞳。
唯一の輝きを放っていたのに、そこだけが、あんたの一つきりの良いところで、わたしは、それがたまらなく羨ましくて、眩しかったっていうのに。
落ちた涙を受けても、瞬きすらしなくなった瞳を見て、どうしてこんなに胸が痛むのかと叫びたかった。
なんで、わたしが泣いてるかって?
なんで、それが、最後の言葉なの。
どうして、あんたは、私を傷つけてばかりなの。
まだ温かいグイルの両頬を包み込み、時を止めた瞳を見下ろし続ける。
今、反射する光はわたしの涙によるものだ。
――バカだよね。こんなやつに、本気になるなんてさ。
暗い洞窟内に、低く気だるげな唸りが反響し、近付く。
高さに戸惑ったのか、それとも餌を咀嚼する時間だったのか。
一度引っ込んだ魔障は、再び顔を出した。
「アメリ、いい加減に立て!」
ラティスが怒鳴り、わたしを吹き抜けの場所から出口へと引きずっていく。見上げると、壁を滑るようにして闇は降り立った。
「逃げるんだよ! まずい……!」
対峙した闇は、深く、大きい。
でも、この痛みを消してくれるほどではない。
「おい、何考えてんだ。よせ……!」
わたしはナイフを取り出しながら、出口とは逆に向かって駆け出した。
奥の手を使う。
こんな場所で、他にどんなものが現れるかしれない。
でも、構わなかった。もう、何もかも。
許さない。
わたしの男を奪ったお前は。
お前だけは、連れて行く――――。
闇夜を、蜥蜴の形にしたような巨体を見上げた。
二の腕に、思いきりナイフを突き立てる。
皮膚を裂き、流れる雫は後を流れていく。
乾いた音を立て、刃の先にあるものが割れ、生温い光が手を包む。
皮下に埋め込んでいたのは、意志力を込めた石だ。
その意志力は、手袋の内にある指輪へと吸い込まれていく。
魔法の使えない者が、財産をはたいて買う魔法を込めた道具と、意志力を込めた石。
わたしを飲み込もうと、闇が上下に割れる。
固く握りしめた拳は、その真っ暗な口へと真っ直ぐに進んだ。
餌を捕らえて閉じようとする闇の中、逆の手で胸を叩いた。意志力を生成する場所に命令するように。
わたしの、ちっぽけな意志力も、全てを注ぐようにと。
ありったけの意志力を込めて、魔法に形を与える。
「――――炎環の神柱<フレイム・ピラー>!」
闇は、無数の赤い亀裂に飲み込まれた。
わたしの視界も、音も焼き切れる。
真っ暗なのか、真っ赤なのか。それらも、次々と弾けていく。
耳鳴りがする。
目蓋に映るのは闇と紅。
全てを薙ぎ倒すような風が、狭い洞窟内に吹き荒れる轟音が体に伝わる。
出口を求めて風はあちこちを殴る。その対象は、詠唱者もだ。
背中を押しつぶされたような衝撃に、意識がはっきりしてきた。
風に弾き飛ばされ、壁に体を打ち付けたらしい。背後の岩に手をかけて、立ち上がる。
あいつは、どこ――。
「バカやろう! 大技つかうんなら言えや!」
目を開けると、視界には、炎。
暗闇の化け物も、赤く染まっている。
「アメリぃ!」
炎の中に、黒い巨体が揺らめいている。でも、首から砕け散った体からは、黒い霧も消えている。
もう、終わったのだと告げていた。
一歩、踏み出した。
熱が顔をなぶっていく。
「ばか、近寄るな!」
無残に崩れ落ちた黒い塊、その足元に、火に呑まれかけている身体がある。
地面に横たわっていたからか、グイルの体は、そのままだ。
「もういいだろう、来い」
「どいて」
ラティスが遮るのを、押しのける。
グイルの服が裂けて、胸元から小さな袋が露わになっていた。
忘れようもない、魔除けを込めた緑色の袋。
魔法で起こした空気の流れが、袋の中身を散らしている。
嫌なにおいに顔を歪めながら、それを見つめた。
飴色が舞う。
舞い上がった飴色は、火の粉となって消えていく。
それがあった、元の場所に手を伸ばした。
今は汗で頬に貼りつく髪に。
「わたしの、髪。まだ、持ってたの……?」
ずっと、手放さずにいてくれたんだ。
「髪だ? お前……!」
強く、腕が引かれる。
でも、視線は外せない。
「ラティス、もう放っておけ! こっちからも魔障が来てる! 早く出ねぇと囲まれるぞ!」
「待て、ザラク! こいつ、アメリが、グイルの『女神』だ!」
「はぁ!? チッ……仕方ねぇ。ロアナ、道を開けるぞ!」
「クソッ、こうなったら、意地でも生きて戻らなきゃな」
金属を打ち鳴らす音。
慌ただしく動き出す気配と同時に、体が浮いた。
「いや、だ。はなしてよ」
「うるせえ、てめぇは死なせられねぇんだよ」
ラティスは、わたしを抱えて走り出していた。
ここに置いて行ってと叫びたかった。
いや、叫んでいたのかもしれないけれど、音がこもったように曖昧で、世界が遠くなっていく。
目に映るものだけが、現実だった。
ラティスの肩越しに、遠ざかる光景を見続ける。
炎に包まれた魔障の身体が倒れ、大きな振動と共に、壁が崩れ落ちる。
降る破片と火の粉が舞い、それらもすべて炎に呑まれ、グイルの体も包まれていく。
見えなくなっていく。消えて行ってしまう。
全部、なにもかもが粉々になって、影の一部になってしまう。
グイルは、わたしの半身は、天上へと進んだ。
残されたわたしは、地上から叫ぶだけ。
どうして、いつも、わたしを置いていくの。
どうして、いつも、先に進んじゃうのよ――――!
胸の奥が、軋んでいる。
石になって砕けた心臓の欠片が、内臓を食い破っているように。
魔法は、選ばれた人間のみが使える奇跡。
人間の敵である魔障と戦っているのは、わたしたちなのに。
わたしたちには、奇跡に縋る権利さえない。
それで、どうして、神を信じろなんて言えるの?
頭が割れるほどに泣いても、涙も叫びも止まらない。
どうして、本当に潰れてしまわないの。
あの場で、一緒に潰れてしまえば良かった。
痛みは、続く。
死がふたりを別つまで。
そして片割れを失った者は、生きたまま死の世界を生きるのだと知った。