瞑想の章
なんで、わたし、グイルの部屋にいるんだろう。
ひび割れた木枠の隙間から、朝日が差しこむのを恨めしく睨んだ。
飲み過ぎたせいだと言い訳もできるけど、わたしの意志が弱いだけだという結果を変えてはくれない。
ぼろきれのようなシーツから、そっと抜け出そうとした体に、背後から熱が絡みついた。
「アメリ……やっぱお前の体が一番締まりがい、ってえな! 殴んなよ、よく鍛えてるなって話してるだけだろうが」
「あんたは、いちいち下種いのよ」
男女の欲を晴らした朝なんだから、言いたいことはそのままだ。
平然と他の女と比べる言葉を口にする無神経さに、わたしも今さら本気で腹を立てているわけではない。
しくじったと、唇を噛んだ。
なんで誘いに乗っちゃったのよ。
グイルは無造作に腕を伸ばし、毛先が跳ねるうなじから髪に手を差し入れ、逃れようとするわたしの身体を引き戻す。
「飴色ってのもいいよな」
そう評されたわたしの、日に焼けてぱさぱさの髪が視界に入る。
眇められたグイルの目は、まるで愛おしいものに触れたように見えるが、ただ下半身に頭をやられているだけなのだと今は知っている。
こっちの気も知れず、いい気なもんね。
首に押し付けられた頭が下がっていき、無精髭が胸に赤い筋を引く。
「ちょっと、やめてよ」
人の話を聞かず、当たり前のようにベッドに押し付けてくる肩を叩いた。
「やめるよ、後でな」
苛立ちが募り、拳で殴るようにして体を押しやる。そうでもしないと本気で嫌だと分からないのだ、こういった男たちは。
そのなかでも特に、頭ん中のどこかが吹っ飛んでしまったように鈍感な、冒険者の男には――。
「なんだよ、汗まみれになるの好きだろ?」
「依頼があんのよ」
「おい、そんなこと晩には何も言ってなかったろう! 久々に昼までやれると思ったのに」
「あんたが聞かなかったんでしょ」
分かってたら、他の女を選んでたのにってことね。
まったく、心底腹が立つ。
物があふれた床から、投げ捨てられた服をわたしが見つけて着る間、グイルはにやつきながら人の体を舐めまわすように見ていた。以前と変わらず。
げんなりする。
「アメリ」
呼びかけられても無視していると気配が変わり、横目に様子を窺う。
これまでの記憶と違いなく、グイルはベッドに横になったまま片手で頭を支えつつ、わたしを見ている。
今違うのは、視線に真剣味があることだ。
「……なによ」
「またな」
しかたなく返事したというのに、それだけ?
「ないわ」
「それ、前も聞いたな。で、この状況はなんだ? 嫌々であの反応はないだろ」
やっぱり何も変わってない。ただの下種だ。
噴き出すのを堪えるように俯き、喉を鳴らして笑うグイルに、腹が立って言い返さずにはいられなかった。
服を着こむと、振り返って笑顔を見せてやる。
「あんたも、まあまあ立派だからね。『雷帝の饗宴』の奴には劣るけど。ああ、もちろん、けっこう鍛えてるよねって話よ?」
グイルの呆気にとられた顔を見て、本当に可笑しくなってきた。
「雷帝の饗宴だ? ハッ、天上級<クラス・スカイハイ>クランの奴と寝ただと? 開眼級<クラス・サーチ>止まりのお前が? 見栄をはるのも大概にしろよ」
そうバカにしながらも苦い表情を見せるグイルに満足して、わたしは部屋を飛び出した。
あいつの言う通りだ。最上級の奴らが、わざわざ同業の女を抱く意味はない。
華々しい活躍をした男たちを、街の小娘どもが放っておかない。
冒険者の女なんかと違って、髪を切る必要のない女を、選び放題なんだから。
わたしより、一つ級が上がったグイルの顔が浮かんでしまう。
何杯か飲むのに付き合うだけのはずが、ここまで長くなってしまった昨晩を思い返していた。
◆
その夜、冒険者ご用達の酒場の一つ『お手上げ亭』、わたしたちの間での通称<虫けら亭>は、大層な賑わいだった。年に一度あるかないかの大繁盛だ。
理由はめでたくない。中心にいる顔ぶれを見て固まった。
いつもなら極力避けている酒場だけれど、この日組んだ相手に任せたら、ここだった。
そんな時に限って、よりによって最も会いたくない男が騒ぎの中心にいる。
グイルの率いるパーティが、この酒盛りの主催者らしい。
「やった、アメリ! ただ酒だって!」
一緒に来た相手が、そこらで馬鹿騒ぎする連中から話を聞いて弾んだ声を上げるのを、皮肉気に笑って聞いていた。気分は最悪だ。
なにか高額の依頼を達成したってことだけど、それにしても派手なことだった。
ただ大金が入っただけなら、低級の奴らの僻みから守るためのお裾分けだけど。
誰彼構わず奢るのは、ただ儲けただけではない理由がある。
もう一つは、新たな伝手の開拓。
その場合は、特別なことがあったということになる。
級が上がるとか、後ろ盾が付いたなど立場的な変化があった場合だ。
足りない技術を持つ者を取り込みたい意図があり、嫌いで避けていた相手だろうと、話す口実を作るためだ。
接する機会の少ない者同士の情報交換を活発にすることで、新たなことを知る足掛かりにもなる。
それが、避けている相手に、声を掛けるべき儀式のようなものにもなっていた。
騒ぎの中心人物らの話題だ。すぐに理由は分かる。
人を掻き分け、なるべく店の隅の壁際に向かっていると歓声が上がった。
「新たな跳躍級<クラス・トリガー>に、乾杯!」
「級上がりに乾杯!」
どうやら、なにかでかい山を当てて、級上がりを果たしたってことのようだ。
やる気があるのか疑わしいグイルたちパーティーに先を越されたと思うと、気分はますます盛り下がる。
同じ世代のほとんどは、初心者から一つ級が上がっただけの、開眼級<クラス・サーチ>だったのに。
最近では、徐々に跳躍級へと上がっていく。
なるべく店の中心から視界を外すようにして壁にもたれたが、グイルがこちらを向くのが見えた。
そのまま無視してくれると思っていた。いつものように。
願いも空しく、グイルは人を掻き分けると、わたしの前に立った。
木杯を二つ手にしている。
髪は焦げた薪のような暗い色なのに、瞳は残された灰のように明るい。
その瞳に、梁から吊るされた灯りの炎が揺らめき、不思議な輝きを見せる。
それは特別な光に見えた――過去の、愚かなわたしには。
「よう、まだ生きてたか」
「……あんたもね」
いつも、たまに出くわしたところで、挨拶どころか視線すら合わせず互いに無視する。そんな相手だっていうのに。
腹立たしいほど上機嫌に木杯を押し付けられ、嫌々受け取ると、わたしの頭の横には空いた手が付かれた。
それが当たり前のように、グイルは私を壁に押しやり体で行く手を遮る。圧力をかけるように、身体を寄せて上から見下ろした。
このクズは、相手が女なら誰にでもこうする。
「アメリ、来ると思ってた」
本当に図々しいやつ。
相変わらず態度はだらしなく、髪も跳ねるままにしている薄汚い身なり。だというのに、唯一、輝きを放つ瞳に間近で覗きこまれると、頭の芯が痺れるようで落ち着かない。どうにか目を逸らした。
「おあいにくさま。わたしは誘われてきただけ」
顔は強張っているだろうけど、一応の礼儀は果たそうと、手短に祝いの言葉を告げて終わるつもりだった。
そんな態度も、グイルは気にかけもしない。
「連れねえ? で、そいつはどこに居んだよ」
言われて側を見れば彼女の姿はなく、グイルの背後の人垣の間から頭を出し、ゴメンと口を動かすのが見えた。
逃げたわね。
腹立ちまぎれに勢いよく杯を呷ると、枯草色の液体が首筋を伝って落ちた。雫は鎖骨にとどまらず、固く巻きつけたさらしが盛り上げた隙間へと流れる。
古くて襟元の緩んだシャツだ。悪びれもせずグイルは視線を落とす。
「いい眺めだ」
杯をグイルの鼻先に突きつけながら、本来の用事を思い出させてやる。
「おめでと。それで?」
「もうちっと、愛想よく言えねぇのか」
「他にも挨拶したい奴が待ってるでしょ」
義理でも口をきいてやるだけ、感謝してほしいくらいだ。
でもグイルは動こうとせず、目を細めると口の端を上げた。何か企んでる顔だ。
まるで、あの頃と関係は何も変わっていないかのように、グイルは私の耳元に顔を近づけ、かすれたような低い声で囁く。
「少し、別の場所で話さないか」
「なによ依頼? 仕事のことくらい普通の態度で話せないの?」
「つまらない女になったもんだ。昔は頬を緩めて……おい」
「蹴り入れられたくなければ、その辺でやめておいた方がいいと思うけど」
膝はグイルの股間を狙っている。見栄っ張りなグイルが、祝いの席で醜態をさらしたくはないはずだ。
意外なことに、グイルは厭らしい表情を引っ込めただけで、その場を動かない。
「その通り、真面目に依頼の話だ。お前に、頼みたいことだ。割りはいい」
わざわざ、わたしに頼みたい――そんな仕事といったら、ダンジョンで隠し部屋でも見付けたんだろうか。
資料を見せたいというグイルに、部屋までついていくなんて、どうかしていた。
グイルの暗い部屋で、肌を合わせる。
どうせ、この一時だけ。
これは憂さ晴らしの一つで、それ以上のことはない。
誰もがその時々で、気まぐれに体を重ねる。
酒や勝利、敗退もが体を酔わせる……質の悪い薬水のように。
たとえ心を移しても、わたしたちが互いの未来を重ねることなんか無意味だ。
そう言い訳しながら、自ら体を委ねるのを抑えられなかった。