当世戦車作家気質(一夜限定スズナリの会)
文章至上主義者の錫さんへ。
諸君は「作家を缶詰にする」という言葉を聞いたことがあるだろう。締め切りを守れそうにない作家に対して、編集者がやるあれだ。作家をホテルなり旅館なりに閉じ込めて、一切の俗世と交わりを断たせて、ただひたすら原稿用紙と向かい合って、頭蓋骨が軋むまで文章を搾り出すあれである。
これを見て、諸君、驚いてはいけない。なぜなら、缶詰にされる作家は恵まれた作家なのだ。缶詰にされているあいだの費用は全部出版社が持つ。酒はやれないが、温泉くらいは入れるし、宿の飯はうまい。煙草銭もくれる。ここまで書けば、わかるだろう、諸君。そう。缶詰にされる作家というのは缶詰の費用を出してでも原稿が欲しいと出版社が思っている売れっ子作家なのだ。
売れっ子作家というのは余裕をもった締切日さえ守れない極道が多いので、この缶詰を利用して、ひどいことをやらかすやつがいる。つまり、作品を先に仕上げておいて、細君の前ではさも作品が終っていないように見せかけて、わざと缶詰になりにいく。魚心なんとやらでそこらへんは編集者も心得ているから、作家を缶詰にしてやる。旅館についても仕事がないのだから、何をするのかと思えば、要するに妾を呼び寄せて、よろしくやるのだ。家で細君が夫が小説を生み出す苦しみを味わっているとホロリと涙を流している。だが、畜生にも劣る夫くんはそんな心知らず、妾と温泉旅館でしっぽりやるわけだ。夫も夫だが、それにおもねて、妾との逢引を手配する編集者も編集者だという意見があるだろうが、諸君、編集者というのは作家を生きたままボリボリとむさぼり食うような輩だ。仕方がない。
まあ、とにかく缶詰は売れっ子作家のもので、では、それ以外のろくに売れない作家が締め切りを守れそうにないと、それでおしまい。ハイ、サヨナラ。二度と使ってはもらえないわけだ。
つまり、作家のタイプは缶詰にしてもらえる売れっ子と缶詰にしてもらえない三流の二種があるわけだが、実はここに第三のタイプがある。
それは戦車に缶詰にされる作家たち――つまり、我輩のような作家連だ。
売れっ子には程遠いが、まあ、作品はそれなりになんとなく体裁が整ってるから、万が一売れっ子が原稿落ちをした際に紙面を埋めるときにつかえるストック。擦り切れるまでこき使い、不具合が出てきたら捨てられる自転車のタイヤのような作家なのだが、我輩を含めたこうした輩、宿やホテルは贅沢すぎると思われた輩は締め切りを守れそうになくなると、えい、戦車に漬けちまえと、戦車に缶詰にされるわけだ。
たとえば、我輩の編集者が我輩の進捗状況を見て、どうもこいつは締め切りに間に合いそうにないぞと思うと、編集長にご注進して、戦車を手配する。宿代をもってやるほどのやつではないが、一発で斬り捨てるにはもったいない、まだ使い道があると思われているわけだ。
しかし、諸君。戦車というものは諸君の生活にまったくかかわりのないものであるから、その内部がどうなっているのかはきっと想像に及ぶまい。一言で言うなら狭い。おまけに機関銃だの弾薬庫だのがあって、スロットル・レバーがにょっきり伸びていて、横腹をつつかれる。
最初のうちは戦車缶詰も楽しいものだ。いちおう電気水道コンバットレーションはもらえるし、男子たるもの子どものころは戦車のプラモデルの一つや二つはつくる。我輩が最初に漬けられた戦車はドイツのティーガー戦車であった。あのときは我輩も若く、いろいろ楽しませてもらったが、今ではもうティーガー戦車など見たくもない。
ここで、諸君、戦車缶詰経験の豊富な我輩からいくつかの所見を述べてみたいと思う。諸君も心してききたまえ。
まず、その一。回転砲塔はクソである。
回転砲塔というのは、まあ戦車の上についている戦車砲がついている部分で三六〇度ぐるぐるまわるのだが、あれがついている戦車はクソである。理由は簡単だ。あれだけのデカブツをぐるぐるまわすにはかなり大きな発動機と発電機が必要になるから、その分戦車のなかが狭くなる。いや、その戦車が回転砲塔かどうかで戦車の価値は大きく異なるのだ、諸君。
回転砲塔が駄目ということは第二次世界大戦の戦車のほとんどは駄目だということになる。ドイツ軍の突撃砲くらいのものであろう、回転砲塔がないのは。
ああ、それと我輩たちは箸にも棒にもかからないチンピラ戦車作家だから、あてがわれるのも所詮はチンピラ戦車だ。エイブラムスとか一〇式戦車といった最新の戦車はあてがわれない。戦車の内部構造は国家機密だし、だいたい費用が馬鹿みたいに高すぎる。ホテルに漬けたほうがまだ安いくらいだ。
だが、第二次世界大戦時代の戦車には冷房も暖房もない。
夏はクソ暑く、冬はクソ寒い。今までよく熱中症で死ななかったものだと我輩もつくづく思う。
戦車に缶詰にされる作家たちの酷さがだいたい分かっていただけたところで、では、どんな戦車が詰められるに上等かといえば、ずばり第一次世界大戦のときの戦車がいい。何せ回転砲塔がないから、広いのだ。英国のマークⅣ、ドイツのA7V、フランスのサンシャモン突撃戦車などは乗員を四名から七名に考えてつくられているから、一人で缶詰にされても窮屈な思いをせずに済む。だが、第一次世界大戦の戦車にも油断のならないやつがあるから注意しなければいけない。編集者がニヤニヤしながら、「先生、次の缶詰は第一次大戦のやつですよ」とかいい、こちらを期待させておいて、やってきたのがルノーFTだった日には軽く殺意が湧く。
ルノーFTの何が嫌かといえば、こいつは回転砲塔なのだ。というよりも、こいつが世界で初めて回転砲塔を乗せた戦車らしい。
ルノーFTは二人乗りで回転砲塔持ちだから、本物の缶詰みたいに狭い。シロップ漬けの蜜柑かオイルサーディンになったのではないかと思えるほど狭い。アムネスティ・インターナショナルはなぜこのような蛮行をほったらかしにしているのか解せぬ。
しかし、もっとひどいのは装甲列車の缶詰である。電車一両を戦車のようにしていて、しかも機関車で引っぱるから装甲車両そのものにエンジンがない。だから、なかはかなり広い。一番過ごしやすいA7Vの二倍以上の広さがある。
じゃあ、編集者さんはその装甲列車一両に一人の作家を缶詰にするんですねと考えた純真な諸君は諸君の幸福のために作家になるのをあきらめたほうがいいかもしれない。というのも、編集者のやつらは平気でこの装甲列車にダース単位で作家を詰め込むからだ。まさに悪鬼の所業。戦車一両くれてやるのも惜しいヘボ作家と思われたものたちがこの苦界に沈められる。
装甲車両に漬けられるのを業界用語で「ケンタッキーされる」と呼ぶ。一車両に詰められるのが三十六人。つまり、三ダースなわけだ。カーネル・サンダース。
ふざけた語呂合わせだ。
実は我輩も一度この装甲列車に詰められたことがある。あれは四回連続で締め切りを守らなかったころで、編集長直々に制裁として我輩を装甲列車に詰めろという指図があったとか。
まさに地獄だった。夢野久作の瓶詰地獄というのがあったが、装甲列車詰め地獄というのが、これにあたろう。なにせ、詰められたのは締め切りを守れない連中だから、計画性がない。だらしがない。自分勝手。ルサンチマンのかたまり。装甲列車に詰められるとまず一番楽な場所――弾薬棚のあいだをめぐって戦いが始まる。これは序の口だ。装甲列車の缶詰というのは自己の生存をかけた闘争の連続なのだ。原稿用紙を引っかくカリカリという音、突然ぐしゃぐしゃに丸められる紙と奇声、男ばかりが三十六人詰まったむさくるしさと腋臭持ちの腐乱死体のごとき匂い。
誰かがチッと舌打ちし、
「てめえ、全身ファブリーズしてこい」
「うるせえ、馬鹿。殺すぞ」
つのるイライラ。湿気で装甲の内壁に水が浮いている。突然誰かが発狂して席から飛び上がり、天井の鉄板に頭をぶつけて、再び原稿用紙へと突っ伏したりするが誰も振り返らない。この地獄から抜け出すには原稿を仕上げるしかないのだ。だが、出てこない。何せ三ダースの作家がいるのだ、呻り声が止まないのもそうだが、隣の作家――顔一面鳥撃ち用の散弾をくらった痘痕面の青瓢箪がどんな作品を書いているのか気になる。ひょっとすると、おれよりも面白いものを書いているのではないかと気になりだすともういけない。隣の青瓢箪が鉛筆をカリカリやる音に耳がいってしまう。そいつが頭をガリガリ掻くとき、その頭のなかでスバラシイ構成が整えられているのではないかと思ってしまう。まあ、そんなわけはない。そんないい作品が書けるなら、そもそも装甲列車に詰められたりしない。普通はそう考える、だが、我輩がいるのは普通の場所ではない。三ダースのチンピラ作家が詰められた装甲列車である。そこでは普通であることは贅沢だ。普通にはなりません、書くまでは。
末期症状になると、作家たちは商売道具の言葉を失う。原稿用紙に書かれているものがヴォイニッチ手稿と化し、判別がつかなくなる。これまでの世界の全てが歪んでいて、この装甲列車のように全てが角張っている世界こそ正常な世界なのだと思い、一切の曲線を欠いた文字を原稿用紙につづっていく。
だが、もし原稿を書き終えれば、戦車に詰められたものだけが味わうことのできる快感を浴する権利が与えられる。
書き上げた原稿を大砲に装填して発射するのだ。
世界へ向かって、自分の作品を撃つ。
そのとき、装甲列車のなかを爆音が響き渡る。音が何度も反響して、装甲列車が巨人に蹴っ飛ばされて、ぐるぐるまわったような物凄い感覚。
自分の作品が世界に命中し爆発しめちゃくちゃにする。
こうして脱稿し、装甲列車の外へ出るとき、期待が湧くのを抑えられない。それはシャバに戻った囚人の期待ではない。
ゴッホの期待だ。
我輩の作品が隠れた才能の昇華であることが認められ、核弾頭のごとく世界を変えてしまう期待。
そう思ってハッチを開ける。
――そこには普通の世界が広がっている。
団地の公園。住宅街。清掃会社の駐車場。交番。ガソリンスタンド。中学校。うねうねと曲がる国道。
発射した砲弾はすぐそばの地面に転がっていて、編集者に分解されて、原稿はもう持ち出されていた。
己が作品で世界を変える?
まあ、現実はこんなものだ。
いやはや。
お題「機甲文学」。
もちろん、本物の機甲文学とは異なるなんちゃって機甲文学です。
すいません。