許して、憧憬(吾妻真尋)
今話の主人公は、前話主人公純の友人、吾妻真尋です。サブキャラとして、日御碕純、有馬聖羽、秋野海、水島、吾妻 海里、彼、叔父が、名前だけ満が登場します。
彼の体に腕を回す。彼は私の髪をなでる。まただ。また私は彼とこうして体を重ねてしまった。どうしよう。どうしよう? 私はそうしてずるずると彼に抱かれる。
友人が結婚するらしい。おめでたい。法的な関係になってくれる男がいて、その男は初恋の相手だなんて、おめでたい以外の何物でもない。「真尋」彼が頬に触れ、自分が目を閉じていたことに気づく。唇が重なる。ルーティンをこなしていく。友人に思考を戻し、それから彼女に思われた、利用された男たちを思う。あの子はいい女だ。真っ白で、その名の通り純粋なのに、影がある。成熟しているとは思わないが、同じ年の子に比べれば大人っぽい。でもやっぱり、考えを聞くと、年相応に悩んでいて、正しく生きているなと思う。純はきれいと言われるのが嫌いらしい。本人に自覚があるかは怪しいが顔に出る。ああ。両足を持ち上げられる。今こんなことを考えるのはやめよう。他のことを考えるななんて言ってくれる人はいないのだ。
推薦で既に進学先が決まっている私は、最後の部活までのカウントダウンをしながら、毎週火曜日と木曜日、部室に向かう。鍵を開け、ドアノブに手をかけたところで、後輩が駆け寄ってきた。
「先輩!」
「お疲れ。早いわね」
「先輩に会いたくて! うふふ。なんて」
「なんて、さえなければねえ」
有馬聖羽、中学三年生。女装男子。いわゆる明るく元気な子で、我らが写真部のムードメーカーである。我らが写真部──何故か暗い子が多い、この部の。
もう今年の文化祭で私は引退しているが、現部長である水島に任され、私が鍵を借りている。純にでも頼めばいいものをと思ったが、無愛想で不器用で暗い二人ではそのやり取りも難しそうなのでとりあえず引き受けた。
……純、私の親友と言って差し支えない程度仲のいい一つ下の友人、日御碕純。
水島は極端に影が薄く、時々存在を忘れかける、純と同じく高校二年生の女子だ。私は未だに下の名前を覚えられない。
部室に入り床に鞄を置く。古くてぎしぎしうるさいパイプ椅子にコートをかけ、一息ついた。
「海は掃除です!」
「あら」
「日御碕さんは?」
「もう授業は終わってるはずだけど。まあ、そのうち来るでしょ」
「そうですね」
海、というのは、聖羽と同じクラスの秋野海のことだ。海は聖羽とは反対に大人しく、そのへんの男子と比べ背も低いので聖羽より女の子みたいだ。そんな二人はとても仲がいい。
現在写真部は、私たち五人と幽霊部員の十四人で構成されている。最上級生としてはまだ一つ下に二人いるので不安はないが、そこから先、純と水島が卒業してしまったら実質二人になるのが悩ましい。今年も一年生は入らなかったし、来年どうにか彼らの後輩を所属させないとまずい。幽霊部員も私の代がほとんどなので、まずい。本当にまずい。
「ってことで」
「はい?」
「あのね、あと三か月ぐらいで私とほとんどの幽霊さんは卒業でしょ?」
「そういえば、そうですよね……」
「だから部員を集めなきゃ」
「うーんそうなんですけど、なんとかなるかなって!」
「聖羽……あんたのポジティブはそこで発揮されちゃ駄目よ……」
「あたし写真部がなくなるのは嫌だけど、無理に新しい人入れようとしなくてもいいって思うんです」
「なくなっちゃうのに?」
「存続できるにしても、なくなっちゃうにしても、なんていうか……自然とそうなるもんですよ。そりゃ、できる限りのことはしたいですけど、そんなに頑張らなくても、っていうか。……なんか、うまく言えないです」
腕を組む。うん、まあ、確かにそうなんだよな。今までの先輩たちには申し訳ないけれど、なくなるならもう、ここを必要とする人がいなかったってことで諦められる。写真部なんて名前だけで、もちろんみんな写真は好きだし撮るが、それよりも居場所を求める人間が集まっているというのが大きい。
……他の三人も同じようなことを思っていそうだ。
写真部は私にとってもクラスより大切で幸せでいられる、青春の在処だった。青春を感じていられる場所だった。壁の写真たちを見る。狂わない見事な風景ばかりの純の写真、ぶれているものも多いが部員の表情がいきいきとしている聖羽の写真、まんべんなく自身の周りを撮った海の写真、何気ない一瞬が輝いている水島の写真、空と部員しかない私の写真。卒業してしまった先輩たちの撮った写真はアルバムにまとめてある。
入ったばかりの頃は、家の手伝いが忙しかったこともあり、あまり来ていなかった。それに、部活なんかにかける時間がもったいないと思っていたのだろう。学校以外のことで精神がやられている時期でもあった。
ここに来るようになったのは、私が中学三年生の時、小さなことで純との仲が深まってからだ。理事長の姪で、しかも生徒会の一員だった私は、顔も知られていたのに油断していた。放課後繁華街で彼と会っているところを、車で通りかかった純に見つかり、口止めのために家に呼びもてなしたことがきっかけ。その時私は初めて彼女が同じ写真部員だと知り、初めは口止め、それからだんだん純の人間性を気に入り仲良くなっていったのだ。
あの頃は彼のことが大好きだった。……だった、なら今は? きっと何も疑うことなく愛を向けることができていたのだ。今でも好きだ。けれど色々なことに気づき始めてから、純粋な思いは少しずつ薄れていっている。
「あっそうだ! 先輩、見てください」
「ん?」
カメラを見ていた聖羽が声を上げる。向かい側に座っている聖羽は楽しそうにカメラの画面を私の方に向けた。
「お兄ちゃん! かわいいでしょ!」
「お兄ちゃん? ……確かにかわいいわね」
「このカメラで撮ったことなかったなって思い出して、日曜一緒に遊んでる時撮ったんですよ。嫌がられましたー」
「嫌がってるのがよく伝わってくる写真だわ」
そういえば、いつか聖羽には兄がいると聞いた気がする。今の今まで忘れていたけれど。
聖羽もかわいらしい顔立ちをしているが、お兄さんはまた一段とかわいらしかった。聖羽と同じ真っ黒な髪に真っ黒の目、不意に撮ったのだろう、止めようと伸ばしかけている手は小さそうだ。海みたいな感じなのだろうか。嬉々としてお兄さんの写真を撮る聖羽の姿が容易に想像できて笑ってしまった。
「お兄ちゃんは、かわいいけどかっこいいんです。こんな言い方あれですけど、王子様みたいで! ちっちゃい頃から、守ってくれて」
「聖羽はお姫様みたいだもんね」
「えへ」
「いいお兄ちゃんじゃない」
「自慢のお兄ちゃんです!」
お兄さんも聖羽のことが大事なんだろうな。聖羽は人の好意というものに敏感だ。その分悪意にも。守ってくれたというのは比喩ではないのだろう。
私も自分のカメラを取り出し、写真を見返す。最近はあまり撮ることに時間がとれず、最後に撮ったのは一週間前だ。何枚か戻ると校内の写真が出てくる。そうか、そういえば学校の至る所の写真を撮ったんだった。夕日の色になった階段が美しい。卒業か……。
「そういえば日御碕さんの」
「失礼します」
聖羽が言いかけたところでドアが開き、海が入ってくる。華奢な体、色素の薄い髪。私が勝手に思う、冬の中に溶けてしまいそうな男子ナンバーワン。
海はお疲れ様ですと言いながら後ろ手でドアを閉める。他愛のない会話が聖羽と海の間で交わされ、私は……その景色をただ見つめた。
「吾妻さん、それで、言いかけたことですけど」
「ああ、うん」
二人の視線が私に向いた。悟られないように、笑顔を見せる。
「日御碕さんの同級生に弟さんいるんですよね?」
「へえ、そうなんだ」
「聖羽に話したっけ?」
「前、ちらっと聞いただけですけど」
「まあ……いるけど、それがどうしたの?」
「写真ないんですか?」
「急ね」
「お兄ちゃん見てたら思い出して」
「聖羽ちゃんのお兄さんの写真、見たい」
「いいよ!」
海が聖羽のカメラを見ている間に、弟の写真を探す。一つ下の弟、海里は、単純馬鹿で体育以外の成績が悪い、見ていて心配になる子である。純とは違う、ヤンキーくさい金髪にしてもう何年かになる。仲は悪くない。私に似なくてよかった部分と悪かった部分が見えて、複雑な気分になるのだ。本人は楽しそうなのでいいと思うけれど。
「これ」
「不良……って感じですね」
「イケメンだー」
「ただの馬鹿よ」
それからその日は純たちが来て、部員集めの話を少しだけ、あとはクラスで何があったとか、バイトがどうとか、そんなことを話して終わった。
「あっおかえり姉ちゃん!」
「ただいま」
「やっと飯にできるー」
海里には彼女ができない。いや、すぐフラれるだけでできることはできるのだが。そもそも彼女ができるのだって顔が少しよくて運動神経で目立つからで、たぶんだらしないところやかっこよくないところは知られていないのだ。というより、見てくれる女に出会えていない。
そんなものなのだろう。
一度だけ、三か月くらい続いた彼女を紹介されたことがある。家に連れてきたとかではなく、たまたま学校ですれ違った時、嬉しそうに紹介してきたのだ。いい子そうだったが、ギャルっぽさが強く、まあすぐ別れるだろうなとは思った。その後海里に、私が駄目だと思った子は駄目になるから駄目だと思うなというようなことを言われた。いやいや。
「叔父さんは?」
「まだ学校だろ? 待つのめんどいし食べよう」
「そうね」
なんだ、一度も帰ってきていないのか。木曜日は比較的早いのに。
叔父さん、というのが我が校の理事長である。諸事情で三年ほど前から私たち姉弟は叔父の家で暮らさせてもらっている。厳しい人だ。厳しくて、自分を律することのできる強い大人の人。ちゃらちゃらしていて成績もよくない海里はあまり得意ではないらしいが、決して悪い人ではない。しかし仕事の関係で特に平日は帰りが遅く、結局のところ二人きりの食卓であることが多いのが現実だ。
いただきます。
今日は海里の部活が休みだったので夕飯の準備は海里に任せたが、普段は私の方が帰りが早い。面倒ではあるが家事は女の仕事だと思っている。古い考えで育てられたせいだろうか。別にそういうのを抜きにしても、弟はほぼ毎日部活で疲れて帰ってくるのだから、私がやるべきだと思うけれど。
夕飯を終え、部屋に戻る。スマホ、教科書、筆箱、ノート。日常を手にして息を吐く。こんなことをして何か意味があるのだろうか、そう思いながらも私はルーティンを、ルーティンだけをこなしていく。
彼との未来を夢見たこともあった。けれどそんなものはどこにもなかった。そしてないと気づいた今も私は彼と一緒にいる。
四月からは大学生になる。たぶん自由な時間が増えて、それ以上に新しいコミュニティーがいくつも増えて、苦しくて、楽しいのだろう。彼が大学生になった時は色々なことが変わってしまった気がした。でも根本は変わらない。だからきっと私もそうなのだ。知らないけど。知らなくても、困らないけど。
全部なくなってしまいそうで怖かった。
でも卒業なんてずっと先の私からしてみればなんでもない。怖いのはこの一瞬だけだ。
怖いのは……。
スマホが鳴って肩が揺れる。慌てて画面を見ると叔父だった。
「はい」
『真尋か? 飯は済ませたな』
「ええ」
『家事をお前に任せてしまって』
「今日は海里がやってくれたので」
『そうか』
「……」
『もう戻る』
叔父との関係もうまくできないのに。ああ。悔しい。
嫌いだとかそういうことではない。感謝しているしあの人はすごい人だと思う。ただ、この年になって新たな大人に素直に甘えろというのも無理な話だ。長女だし。
だからって勝手に精神的ストレスをためこんだのは私の責任だ。寂しかったなんて言い訳に過ぎない。嫌なことを思い出した。……彼との思い出を、嫌なことに分類してしまう自分に、さらに嫌な気分になる。それら全てを振り払うように立ち上がり部屋のドアを開けた。
「帰ってくるって。先風呂入っちゃって」
「んー」
リビングでは海里がソファーに寝転がってテレビを見ていて、声をかけてすぐ戻る。私も朝は早い、海里が出たらすぐに入ろう。
ルーティンに意味はない。だから、淡々と繰り返す。
部室から出て鍵を返すために職員室に向かう。たまたま今日はみんないて、だけど部室の前で純以外の子とは別れた。何か話でもあるのだろうか、私は黙って階段を下りる。純はと言えば、相変わらず何を考えているのか分からない仏頂面をしていた。
「ありがとう、真尋」
「えっ? 何急に」
驚いて振り向く。目は合わない。こういう時に相手の目を見れない子なのだ。
「こないだ家に来た時、色々」
そう言われ、ああと頷く。純から結婚すると聞き、詳しい話をした時、悩んでいるこの子をよそに、私は無責任に色々なことをこの子に言ったのだった。
『叶わない恋だったのよ。それこそ誰の目から見てもね。もちろん満さん本人だって分かってたはず』
『……』
『めちゃくちゃ、すっごく、死ぬほどに傷つくかもね。でもあんたのせいじゃない。満さんはあんたを恨んだりしない。恨めない。ただ一生抱えていくだけ』
『そんなの……私のせいだよ』
『たまたま、でしょ。立場が逆だったら、あんたは相手を恨むの?』
『……そうかもしれないけど』
『私だったら恨めないわ。自分が悪いんだから』
「……」
「真尋に言われて、吹っ切れた。今度満さんに謝りに行く」
「謝りに?」
「ていうか、話しに」
「そう」
「だからありがとう」
「そんな改まって、どうしちゃったのよ」
まだ何か言おうとした純に気づき曖昧に笑って会話を終わらせる。純は不満そうに私を見たが、職員室が見えて立ち止まった。鞄を下ろし、二人で職員室に入る。
「あっ叔父さん」
職員室にはまだ多くの教師が残って何らかの仕事をしていたが、その中に普段は理事長室にいるはずの叔父がいるのを見つけ、私は思わず声を上げた。いつもなら見かけてもこんなプライベートにあの人を見ることなんてないのに。自分でも不思議に思いながら、こちらを向いた叔父に小さく会釈する。と、仕事の手を止め、叔父が私たちの方に来た。
「日御碕さん、だったか」
「はい?」
純に用事か? 言われた本人も何だか分からないようで、疑問形で答える。
「いつぞやぶりだが、まだ真尋と仲良くしてくれているみたいで嬉しい。いつも世話になっているだろう」
「えっ……いえ、真尋には私の方がお世話になっています」
「……真尋は、きついことも言うだろうけれど、……これからもよい友人でいてくれ」
叔父が少し詰まりながらそう言い、頭を下げる。何を言っているんだこの人は。驚いて言葉が出ない。隣の純を見ると、純も珍しくびっくりした様子で叔父を見ていたが、数秒の間の後綺麗な所作でお辞儀をした。……待ってくれ。なんだこれは。あまりに予想外の展開に思考がうまく働いてくれなかった。
そのまま叔父は鍵を受け取り、私の脳内混乱だけ置いて仕事に戻ってしまった。二人で職員室から出て鞄の下にしゃがむ。顔を上げると純が何とも言えない表情で私を見ていた。
「……何よ」
「なんか……前に会った時と印象が違う」
「私も」
「そうみたいだね」
「正直、よく分からない」
「うん」
もちろん、ちゃんと考えれば、面識のある友人と一緒にいるところを見かけたら保護者として言うべきはああいうことなのだろうけれど、何分叔父が誰かに頭を下げるところなんて見たこともなかったし、あんな風に言葉を詰まらせることだって、たぶん私や海里には特に見せないようにしてきたのだ。それがあの人のプライドなのは分かっていた。それでも私は、どこかであれが素だと思っていたのだろう。
学校を出、純と別れた私は、遠回りをしながら叔父の言葉を反芻していた。それに呼応するように頭に流れる弟、部活のみんな、それから彼との今まで。
私は何のために、ずるずると引きずってきたのだろう。色々なことにけりをつけろと言われているみたいだった。……叔父は叔父なりに私たちへの接し方が分からず悩んだのかもしれない。きっとずっと大切にされてきたのに。冷たい人だと思っていた私が馬鹿だった。分かっていた……。思わず額を押さえる。人の本質を見ようともしなかった。きっとだとかたぶんだとかかもしれないだとか、私の悪い癖だ。状況を確定しようとせず、見て見ぬふりをする弱さ。純は引きずったりしないのに、あの子は、運命を正しく享受しているっていうのに。
……。
私はケータイを取り出し、会いたいとだけ打つ。暇だったらすぐに連絡がくるはずだ。
一度家に帰り家事を片付けたあたりで、望んだ通りの返事が返ってくる。九時すぎには帰れるから、家に来てくれ。彼は一人暮らしだ。着替えや風呂など家を出る準備を済ませ、時間を待つ。ただただ、時計の音を聞く。
じわりと涙がにじむ。
夜、彼の指定通りにそこで待っていると、暗がりから彼が現れた。なんだか久しぶりな気がする。何日か前に会ったばかりなのに。
「お邪魔します」
見慣れた部屋。大学生の時から彼はここに住んでいる。寝床としてしか使っていないような、殺風景な部屋。実際のところはあまり多くの物を持ちたがらない性格による。
「なんかあったのか?」
スーツのジャケットをハンガーにかけ、ネクタイを緩めながらこちらを振り向かずに言う。彼と目を合わせたくない、私の意志とは合っていて、彼の目を見る普段の私の態度とはすれ違っていた。私は息を吐き、喋り出した。
「別れたいの」
「……え?」
ようやく彼が振り向く。
「あなたは付き合ってると思ってないかもしれないから、私の意見だけど。意見、っていうか……とにかく……」
「……」
うまくセリフがまとまらない。でも、だって、そんな言葉をはさみながら書いてもいない台本を頼りに喋っていると、私の向かいに座った彼が視線を向けてくる。だから私は叫びを並べ続ける。
「無理だよ。一緒にいても私が傷つくだけだもん。分かってた。けど言い出せなかったのは私の弱さだったから」
「お前はそれでいいのかよ。寂しくなるだけだろ」
「……利用されて、捨てられて、それでもいいって思えるぐらいあなたのこと好きだったわ。でも好きだからもうやめるの。寂しくても、私は今あなたから離れるべきだって思った」
「……」
「私だって私の幸せを求めたいのよ……」
彼は顔を背け、呆れたようにため息をついた。怖い。見捨てられるのが怖かった。好きだった、だっただけで、結局はしがらみだったのだ。依存していたのだ。彼が私のことなんて見ていないのは分かっていたのに。
こんな男を好きになった自分が悪い。「私だったら恨めないわ」。そういうことだ。そういうことだ……。
しばらく続いた沈黙を破ったのは彼だった。
「悪かったよ」
「……なにが?」
彼が近づいてきて私を抱きしめる。何が? 何が? どうして? 何も分かってないんでしょ?
ねえ!
彼のぬくもり。におい。手放したくない、全て。言葉の代わりに流れる涙。でも私は背中に腕を回したりしない。絶対に。
「お前がそこまで思ってたって知らなかった」
「……」
「やり直そう」
「……」
「なあ……」
「……なんにも、ない。私があなたに言うことなんてない。さよなら」
「真尋!」
彼の腕から抜け出し、距離をとる。引き留められるわけなんてなくて、すんなり逃げることができた。それが今までの全てを物語っていた。いつだって彼は私を追ったりしなかった。私は最後まで、どこかで小さく淡く傲慢に期待していた、でも、期待するだけ無駄だったのだ。
他の女の匂いがした。最悪の最後だ。私はバッグを掴んでその場から逃げだした。
たぶんもう会えない。いや、会わないのだ。私は私の意志で彼と、彼との今までと、全てと、別れを告げたのだから。
無意味に走って、疲れて、のろのろと歩く。夜は暗くて好きだ。よく晴れていて星が見えた。口から漏れる息が白いことに気づき、空気と私の内部の温度差に驚く。ああ、終わった。こんな、よくある話。涙は乾いて頬にこびりついている。涙の成分は血と精液と同じらしい。目じりのまだ乾ききっていないそれを指でぬぐい、冷えた空気にさらした。
冬休みに入る前に、公式ではないが生徒会の送別会が行われた。推薦でない人はこれから入試が始まるのだ。副会長だった私も例外なく送り出される。たくさんの後輩。手向けの言葉は心地よく、感傷に浸ることができた。
「副会長、お疲れ様でした!」
「吾妻先輩がいて、本当によかったです……」
何人か、私が直接関わった子たちが声をかけてくる。こんな私に涙を流してくれている。
ここは私を必要としてくれる場所だった。私の学校での基礎が出来上がった場所と言っても過言ではない。この六年間はきっと忘れられないぐらい深くて重いたくさんのものが詰まっていて、その全部が私のこれからの人生に影響を与えるのだろう。未練はないが、思いはあふれる。涙を流して、やっぱり、悲しくて、私は笑った。
「ありがとう」