愛が二人を分かつまで(東御満)
今話の主人公は、満です。サブキャラとして巡、純、仁が登場します。
※ボーイズラブメインです。一方的ではありますが、近親相姦の要素も多少含みますのでお気をつけください。
「けっこん」
呟いたその単語の意味は、思っていたよりも重く、俺は深い絶望を覚えた。
けっこん。結婚か。ああ、いなくなっちゃうんだ。次第に鼻からまぶたにかけて熱さが広がっていく。たぶん、顔は真っ赤だった。
兄に今度結婚すると言われたのは、大学から帰ってきてすぐ、夕方のリビングだった。巡くんの方も帰ってきたばかりらしく、前髪は上げたまま、しかもスーツ姿で座っていた。相変わらず似合うなと考える程度には、俺は馬鹿だった。
「え……結婚?」
「ああ。満には最初に言っておきたくて」
「誰が? ……巡くんが?」
「俺以外の報告、お前にしてどうするんだ」
巡くんはいつもの困り顔でそんなことを言ってきた。巡くんというのが俺の兄である。血の繋がりのある実の兄。その兄の結婚相手がまだ高校二年生のはとこ、純ちゃんだと知った時、どんな顔をしていいのか分からなかった。
やめてよ。と。俺は言えなかった。
よかったねだとかおめでとうだとかを言って部屋に逃げてきて、既に一時間は経過している。巡くんは来ない。心の中に怒りはなかった。ただ、死にそうなくらいの痛みがあった。
「たすけて……」
巡くん。
次の日サークルに顔を出したら、休憩中らしい後輩の仁くんが俺を見上げてこう言ってきた。
「死にそうですけど……大丈夫ですか?」
「……仁くん。そういう言葉は話を聞く覚悟と暇ができてから言ってよ」
「あっ今休憩中だったんで」
「それは分かってる……」
仁くんと話していたら、主将が気づいて俺の方を見、おっすと一言。軽く手を振って、とりあえず荷物を置いた。久しぶりに来てみたけど、なんだかんだここが一番落ち着くな。靴下ごしに伝わる床の冷たさに、入ってくる十一月の風。弓が的に当たる音が断続的に続く空間。次の大会で三年生は引退だが、そもそも弓にあまり興味のない俺には関係のないことだった。
……ここにいても、巡くんの色を見てしまうのか。よく考えたら、いやよく考えなくても、巡くんのいたサークルなのだから当たり前だ。せっかく気持ちを落ち着けるために来たのに、意味がない。
死にそうな顔をしているらしい俺は、怪訝そうな仁くんに微笑みかけ、大丈夫だよと呟く。大丈夫だと、言っておかないと駄目になりそうだった。……なんて。
「そろそろ戻りますね」
「がんばれ」
──見ているとしみじみ思う。 仁くんは袴が似合わない。大体誰でもかっこよくなるはずなのに、なんだか日本人らしくない雰囲気の仁くんは、どうしても着られている感じになってしまうのだ。はっきり言うとださい。そんな仁くんに和む。
仁くんの太めでごつい手が弓を引き、矢が的に当たる。
練習終わり、特に用事もなくなって帰ろうとした俺の横に並び、歩きながら仁くんが言う。
「飲み行きますか?」
「俺そんなに心配させる顔してる?」
「えっ……わざとそういう顔してるんじゃないんすか」
「……おごらないよ」
「あっいや、すみません」
「嘘だよ」
「ていうか、練習終わるまでいると思わなくて」
途中で帰ってもよかったのに、という思いを受け取ってため息を吐く。実際二時間ほども引退前の、それも弓を触らない人間がいたら邪魔だろう。けれど俺はあそこが落ち着くのだ。巡くんのことを感じていたかったのだ。本当はもう何も考えたくなかった。でも、感じていたかった。
着いたのは、仁くんとは何回か飲んだ店だった。うるさいのが嫌いな仁くんのお気に入りらしい。
この前来た時は、仁くんの好きな子の話を聞いたんだっけ。不器用すぎる仁くんはなかなか思いの丈を吐き出せずにいたようで、俺に言うのが最初だと言っていた。まあ満さんには分からないでしょうけどとかなんとか、いらない一言を付け加えて机に突っ伏していたのだった。
……本当にいらない一言だ。
「ウーロンハイ一つ」
「俺も同じのでいいや」
それからつまみになるものを何品か頼む。仁くんは何も言わない。その沈黙を俺も仁くんも破らないうちに、酒が運ばれてきた。静かにグラスをぶつけ、一口目を流し込む。酒の苦味が広がる。再びのため息に、今度は仁くんもため息を吐いた。
「なんなんすか、もう……」
「仁くんはさあ」
「はい」
「好きな人が、……」
結婚。
俺は視線を落とし二口目をあおる。言えない。せめてもうちょっと飲まないと、何も言葉を出せない気がした。仁くんが困ったように俺を見ているのが分かる。
仁くんはつまるところただの後輩だった。友達に連れてこられた仁くんと、元々弓に興味がなかった俺はなんとなくお互いに空気を察して、何度か大勢で飲みに行った後、二人で飲む仲になった。でもまあ、個人的な相談をするほどではなかったというか、そう、巡くんのことを話すほどの信頼は置いていなかった。巡くんのことを誰かに話したことなんてないけれど。
真面目で頭が堅い仁くん。中学生の妹がいるらしい。なかなか生意気で手を焼いていると言っていたのが、どうにも引っかかった。
出会っていたのが仁くんだったら、巡くんではなくて、仁くんだったら?
「軟骨でーす」
「あ、どうも」
「モヒート! お願いします」
仁くんが少し驚いたように俺と俺のグラスを見た。かしこまりましたーと言って店員は戻っていく。考え込んでいる間に一杯目は空いてしまっていた。酒は弱い方ではない。どちらかと言うといつも仁くんの方が先にグラスを空けて先に酔っ払っている。そうして困ったような顔で笑うのだ。大騒ぎしてる奴がいないのって、やっぱり楽しいですね。
「今日だめ」
「見れば分かります」
「もっと酔ったら話す」
「満さん全然酔わないじゃないですか……」
「モヒートお待たせしましたあ!」
──飲んで、飲んで、飲んで、それでも俺は、泣かなかった。息を吐き出すと、体の熱が口から出ていくのを感じる。ああ。思考がまとまらない。たぶん俺は酔っているのだ。ねえ仁くん、こんな出来の悪い弟がいたらどうする? 何杯目かも分からないアルコールを口に入れる。熱くて右目を押さえると、生理的な涙が眼帯に染みた。
「満さん」
「ん?」
仁くんがこっちを見ている。頬杖をついたまま向かいの仁くんを見下ろすと、目が合った。が、その目はどうやら今押さえていた右目を、眼帯を見ているようだった。
「それ……ずっとつけてますけど、治らないんですか?」
「うん。生まれつき、なんか、汚いんだよね」
「汚い?」
「いびつって言うのか。気持ち悪いってさ」
「……すいません」
「何が?」
「聞いちゃって」
「ふふ」
思わず笑いが漏れた。嫌だな。最高な気分だ。隣の席のサラリーマンらしき二人組が立ち上がる。帰るのか。もうそろそろ電車の時間を気にしないと。巡くんが心配してくれたのは、高校までだった。帰りたくないな。今、どんな顔で巡くんに会えばいいのか分からない。だって巡くんは、俺という人間を一番理解していない。
ぐちゃぐちゃだ。
仁くんがスマホを取り出す。時間を見たかっただけなのか、一瞬画面を見てテーブルに置いた。それから酒を口に含みつつ店内を見る。すっと手元に目を戻し、つまみの残りを食べる。その一連の動作を眺めていたら、苦しくなった。仁くんの天パな髪が揺れる。満さん、と口が動く。普段なかなか笑ってくれないのに、一緒に飲むとだんだん顔が緩んでくる。前髪を邪魔そうにいじっている。記憶と現実が混ざり合う。切ればいいのに。声に出したつもりはなかったが、すぐに仁くんは、いや、と言った。
「切りに行く時間がとれなくて」
「お金じゃなくて?」
「まあそれも」
「仁くん」
「はい?」
「泊めて」
「は?」
「泊めて」
「……それが今日の目的ですか?」
仁くんは間を空けて、呆れたように答える。逡巡した後、スマホを手にとった。仁くんは実家暮らしだ。言わなきゃよかったなと思うと同時に、アルコールの力の偉大さに感心してしまった。
「……すいません、妹が……」
「駄目って?」
「すいません」
「こっちこそ、ごめんね。変なこと言って」
「家まで送りましょうか」
「仁くん酔ってる?」
「いつもほどじゃないっす」
そうだね、曖昧に呟いて俺は財布を鞄から引っ張り出した。
別に家に帰れないほど酔っていたわけじゃない。そんなことは仁くんだって分かっていたはずだ。でも、俺はただ、仁くんといられる時間を終わらせたくなかった。俺の家から仁くんの家までは電車で二駅。俺を送ってから帰っても終電はギリギリ逃さないだろう。それに仁くんのことだから、どうせ電車の時間を調べた上での提案だ。
終電に近いこの時間の車内は、酔っ払いのおじさんやら仕事帰りのOLやらでそれなりに賑わっている。席は空いていたが、なんとなく立っていたくて俺はドアにもたれた。ドアから外を見ると、自分の顔越しに夜景が流れていくのが目に入って、目を閉じる。電車の音と、人の声だけが耳に響く。
「満さん」
仁くんだ。目を開け、隣に立つ仁くんを見る。と、腕を引っ張られた。どうも目線が低いと思ったら、気づかないうちにずるずると下がってしまっていたらしい。
「大丈夫ですか」
少しずつ酔いが覚めてきたのか、仁くんは心配そうな顔で俺を覗き込む。やめてくれ。……やめてくれ。俺は答える代わりに仁くんの頭に手を置く。
駅から家までの道中、何をどう言えばいいのかと考えた。何故だか仁くんには話さないといけないと思った。けれど、言いたくもなかった。だから、結局何も言えなかった。
俺が気持ち悪いと言われたのは、右目のせいだけじゃない。ひどく、臆病になっていた。
「寒いですね」
「秋だから」
「もう十一月ですよ」
「寒がりだね」
「そんなことないっす」
満さんがおかしいんですよと不服そうに言い、白い息を吐いた。仁くんはマフラーをまいて、もこもこの上着のポケットに手を突っ込んでいる。寒そうだと他人事のように思う。
アルコールは抜けている。もう変なことは言えない。家が見えてくる。巡くん。
たすけて。
「駅までの道分かる?」
「そこ曲がってまっすぐですよね」
「うん。付いてきてくれてありがとう」
「いや、泊めらんなくて」
「真面目だなあ」
「そうですか?」
「そうだよ。じゃあ、また明日」
「あ、はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
手を振って仁くんを見送る。曲がり角に消えていくまでずっと見ていたら、なんだか、寒さに目が痛くなった。……帰ろう。
門を開け、ドアに鍵を差し込む。いっそ開かなければいい。ガチャ、と鍵が開いた感触がある。あーあ。吐いた息はやっぱり白い。
リビングの電気が消えている。全員寝たのだろう。こんな時間になったのは久しぶりだ。階段を上り自分の部屋に入る。鞄を下ろす。ベッドに座る。疲れた。しばらく仁くんは誘えないな。……話したら、笑ってくれただろうか。俺よりでかいくせして臆病だって、そんな適当なことを言って笑っただろうか。
気持ち悪い。気持ち悪い。大きく息を吸い込み、そのまま後ろに倒れこむ。喉が痛い。結婚がなんだっていうんだ。今生の別れでもない。相手は純ちゃんだ、知らない女じゃなかっただけよかったじゃないか。頭も痛い。
分かっていた。巡くんが純ちゃんを好きだってことぐらい。まさか結婚にまで至るだなんて思っていなかったけれど、それは考えようとしなかっただけだ。巡くんももう二十五才になる。恋人がいたって、結婚の話になったって、何の不思議もない。まさか、「まさか」なんて、言い訳だ。
両手で顔を覆う。眼帯が濡れている。強く押さえたせいで、頬まで痛くなった。
弟なんかに生まれてきたくなかった。なんで家族なんだ。なんで、よりによって兄弟なんだ。赤の他人なら。せめて俺か巡くんが女なら。だからと言ってどうにかなったとは思わない、それでも、どうしたってそう恨まずにはいられない。恨む。誰を? 嫌だ。もう嫌だ。運命なんて幻想だ。こんなのは不毛だ。今結婚してくれてよかったって、そう思えるくらい強くなりたかった。でも、だって、結婚したからって俺の何が変わるんだ? 俺は巡くんと付き合いたかったわけじゃない。ぐしゃ、と前髪を掴む。
俺は、巡くんに幸せになってほしかったんだ。これでよかったんだ。俺なんかを見る巡くんじゃなかったことが、唯一の救いだったんだ。
「巡くん」
「お前、目腫れてるぞ?!」
「……巡くん」
「昨日やけに遅くまで帰ってこないと思ったら、どうしたんだそれは」
朝、なんとか会う前に家を出ようとしたのに、玄関で捕まってしまった。
巡くんは怒ったように俺の手を引く。俺より少し小さく太い手。巡くんは兄なのに劣っていると気にしていた。でも俺はそんな男らしくてお兄ちゃんみたいな手が──。手首が痛く、思考を一旦切る。学校には十二分に間に合う時間だったのだ、少し遅れたところで何も問題はないが、この状況からはとても逃げたい。
てきぱきとタオルを水に濡らし、絞る。小さい頃みたいだ、とぼんやり考えながら眼帯を外す。いつだって巡くんは俺のお兄ちゃんで、俺は巡くんの弟だった。
お兄ちゃんみたいな男は、お兄ちゃんなのだ。
「ほら、しばらく冷やせば大丈夫だろ」
「うん」
「眼帯の替え出しとくぞ」
「うん」
「そんなに飲んだのか?」
「まあ……」
「……なんかあったか?」
「えっ? あ、ううん、違うよ。友達に付き合わされて」
「けど、お前一昨日から」
「違うってば!」
「……満」
タオルを目から離し、自分より頭半分ほど低いところにある巡くんの目を見る。たれ目がちな、俺とは違う澄んだ瞳。巡くんは俺を見て、苦しそうな表情をしている。分かっていないはずだ。俺がなんで泣くのか、巡くんには一生かけても分からない。それでいい。
「満、今日は遅くならないか?」
「たぶん……なんで?」
「純が来る。お前に会いたがってるんだ」
「……純ちゃんが?」
純ちゃんが、俺に会いたがってる? 家を出てからも俺はその理由を考え続けていた。
純ちゃんは何を考えているのか分からないところがある。関係性のせいかどこか遠慮されているように感じることも多いが、実際は俺に対してどんな感情を抱いているのか、あの真顔からでは測れない。
俺と巡くんと純ちゃんは親戚関係にある。俺たちの祖父と純ちゃんの祖父が兄弟の、つまりははとこ。はとこと言うよりも、幼馴染と言った方がしっくりくる。
そしていつからか俺は、純ちゃんの目線の先には巡くんがいて、巡くんの目線の先には純ちゃんがいることに気づいてしまった。……色々なことに気づいたのは、俺より純ちゃんの方が早かったかもしれない。何も知らなかったのは巡くんだけだ。小さい頃からずっと一緒にいて、ずっと好きで、それなのにこの年までこういうことにならなかったのは、単に純ちゃんの年齢の問題もあるが、巡くんの鈍感のせいが大きい。
悶々と考えていると、風と共に電車がホームに入ってくる。スマホ片手に社会人やら学生やらが動き出す。そういえば課題の提出は明日だったっけ、帰ったらやらないと、でも純ちゃん来るのか、頭の隅で現実を思考する。電車に乗ると、端の席で寝ていた男の人が顔を上げた。焦点が定まっていない。俺と目が合うとすぐにまた眠りについてしまう。俺は口の中でため息を飲み込む。
純ちゃんはリビングの椅子に静かに座っていた。白いブラウスに赤いリボン、赤のチェックのスカート、白のハイソックス。椅子の背にグレーのブレザーがかけられている。制服だろう。肩にかからないくらいの髪を内巻にしている。お嬢様なのに、誰に言われたのかほとんど黄色みたいな金髪。二年前これを初めて見た時は、おばさんの驚いた顔が見えるようだった。似合っているからいいと思うけれど。
「満さん」
「久しぶり」
へらっと手を挙げるが、いつもの仏頂面は崩れない。逃げられない空気だった。この空気を無意識に作り出してしまうから質が悪い。俺は鞄を床に置き、純ちゃんの向かいに腰を下ろした。微妙な沈黙。テーブルクロスの端をいじり、自分の中で間を埋めようとする。そこに母親がお茶とお菓子を持って現れ、少しだけ空気に隙間ができる。
「あら帰ったの」
「うん」
「すぐお茶を淹れてくるわ。どうぞ純ちゃん、お口に合うか分からないけれど」
「ありがとうございます」
「純ちゃん、俺手洗ってくるね」
「どうぞ」
母親が作ってくれたチャンス、逃せない。キッチンに戻っていく母親に続くべく立ち上がる。純ちゃんは俺を見なかった。
ハンドソープを手につけ、泡を立てる。いつにも増して丁寧に手を洗う俺を母親がちらっと見た。ティーポットから湯気が立ち、紅茶の香りが鼻につく。
「満、戻るなら自分で持っていってね」
「うん」
「巡さんももう帰ると思うから」
「うん」
お茶を受け取ってリビングに戻る。これでもう部屋には帰れなくなってしまった。純ちゃんの目が、俺を射抜くように見つめる。体の大きさだけで言えば俺よりはるかに小さいこの女子高生の、目線が、怖い。お茶の水面が揺れる。純ちゃんがカップをソーサーに置く。カチャ、というその音が合図だった。
「ごめん」
「ごめんね」
予想外に同じものが重なる。俺は思わず顔を上げ、純ちゃんの目を見た。目が合わない。どうしてこの子は、こっちが見ると逸らすのだろう。
ごめん。謝罪の言葉だ。何故それが純ちゃんの口から出てくるのか。そう思ったのは俺だけではないようで、少しだけ不可解そうに「なんで」と呟いた。
「……満さんは、私が謝るのが不思議なの?」
「そりゃあ、不思議だよ」
「ふうん。私もなんで満さんが私に謝るのか不思議で仕方ないけど」
「……だって、ずっと気づいてたでしょ。純ちゃんに分からせちゃったこと自体も悪いなって思うし、」
「ずっと気づいてたってことに気づいてたんでしょ?」
言い終わる前に言葉をかぶせられ、うつむく。でも、それでも、違うのは俺なのだ。正しい人に謝られる理由なんて、ないのだ。
純ちゃんの強い視線を感じる。焼けてしまいそうだ。たまらなくなって俺はカップに口をつける。若干冷めた苦味が喉を通り、胃に落ちていく。アールグレイは純ちゃんの好きな紅茶だったと思い出す。余計なことばかり積もっていく。
「私と満さんはお互い知っていた」
「……うん」
「私は女で満さんは男だった」
「うん」
「私が謝る理由はそれで充分じゃないの?」
「……」
「結婚だよ」
「けっこん……」
「ここは日本なんだよ」
「……」
「巡さんはノーマルだったんだよ」
「……」
「私以外、誰があなたに懺悔できるの」
懺悔という単語は俺の身を固くさせた。懺悔だなんて、純ちゃんが考える必要はないのに。もちろんわざと強く、重く言っているということは分かっている。でも懺悔なんて、懺悔なんてまるで聖女じゃないか。純ちゃんは珍しくうつむきがちに言葉を並べていく。黄色の髪が眉にかかり、邪魔そうに片手で流す。綺麗に切り揃えられた爪が見えて、変わってないなと思う。めんどくさがりなくせに。
純ちゃんがここまで思っていたとは気づかなかった。そのことに罪悪感を覚える。けれど、理由を述べられていくごとに、何かで深く内部に傷を付けられているような痛みを感じた。聞きたくない。もうそれ以上、俺と巡くんを切り離そうとしないで。
「ごめん。謝るのもおこがましいってことは分かってる。でも謝らなきゃいけないと思った。満さんにだけは、謝らなきゃいけないって」
「純ちゃん」
「はい」
息を吸い込む。目を閉じる。まぶたの中の熱さがじわりと広がる。ああ。ああ、俺が死ぬのは今なんだな。切り傷からゆっくり血が流れていく。息を吐き出す。目を開ける。ぶれた女の子が視界に入る。
「おめでとう」
「……満さん」
「それと、謝りにきてくれてありがとう」
「待って、待ってください。私はあなたが、あなたを」
「うん」
驚くほど、崩れた表情だった。
「あなたを幸せにしたかった」
結婚式。華やかな舞台、女子の憧れ、誓いの言葉、人生の墓場。俺の墓場だった。純ちゃんは巡くんの横でウエディングドレスを着て、仏頂面を少しだけ緩ませた営業スマイルを浮かべていた。
十二月二十五日。
後から聞いた話だが、純ちゃんは巡くんに継がせるために結婚したらしい。その情報だけで純ちゃんの言ったことを疑ったりはしない。可哀想なのはおばさんだ。二人三脚でやってきたはずの娘が親戚と結婚しないと継がないなんて言い出したんだから、ご愁傷様である。そんなおばさんも、娘のウエディングには涙が抑えられなかったみたいだ。
俺は結局、準備を終えた二人に祝福の言葉を送って、式場から逃げ出した。親の呼び止める声が俺の背を押す。おめでとう。心から言えた。きっともう、この思いを取り戻すことはないのだろう。外に出ると、さすがにパーカーでは寒い。雪でも降るのではないかと曇り空を見上げた。
歩きながら右手の拳をぐっと空に突き出す。掌を開くと思いがばらばらと破片になって風に乗る。
「好きだった……」
巡くんは俺を心配してくれるだろうか。純ちゃんは俺を探すだろうか。嫌だな。嫌だ。胃の中身を全て吐き出してしまいたくなる。
『満さんが大事なんだよ。家族として一番好きだから泣いてほしくない。あなたはずっと巡さんを見ていた。私じゃ慰めることもできない、私が満さんに何を言えたのか分からない』
無性に仁くんの好きな子の話を聞きたくなった。俺と違う世界に住む人たちに会いたかった。たとえ檻越しでも、世界を見つめたかった。
そうして俺は、閉じ込めるのだ。
急に向かい風が吹いて、破片が心に突き刺さる。血は流れなかった。