葉子からの手紙
浦野奈々美は耳を疑った。
「だからぁ、これ結局全部あたしが作ったんです。浦野さんにも手伝ってもらおうかと思ったんですけど、忙しそうだったんでー」
「いやぁ、助かったよ。本当は僕がやらなきゃならなかったんだが、悪かったね」
社会人としては到底信用されそうにない舌足らずな喋り方と、鼻の下を伸ばしているのが見え見えなやりとり。わざわざディスプレイから目を離して振り向かなくても、声の主はわかる。高嶋沙弥菜と杉田課長だ。
二人が話しているのは、昨日杉田課長が緊急で頼むと言ってきたプレゼンテーション用の資料作りの件だ。それを沙弥菜が安請け合いして引き受けた挙句、わからない部分を奈々美に尋ねるような形をとりつつ、作業を奈々美に丸投げしたのである。
「お礼に来週、何か奢るよ。食べたいものはある?」
「えー、いいんですかぁ? そういえばこの間、雑誌の特集にこの近くのお店出てたんです。浦野さんも誘おうかなぁ。あー、でも予定あるって言ってたしー」
勿論そんなことを言った覚えはない。いつものことなので、溜息もつく気にならない。
――人の評判落とすこと考える前に、自分の仕事片付けたらどうなのよ。
奈々美は、そのうち自分が処理させられることになるであろう沙弥菜のデスクに山と積み上げられている伝票を睨みつけた。
結局、奈々美が職場を出たのは八時を回ってからだった。本来なら金曜日の今日はインテリアコーディネーターのスクールがあるので定時に帰りたかったのだが、沙弥菜が早退したのでその後始末をする羽目になったのである。頭痛がすると言っていたわりには、随分血色が良かったような気もするのだが。
電車を降りて家路を急いでいると、コンビニへ入って行く一人の女性が目に止まった。かなり距離が空いていたにもかかわらず気になったのは、十月にしてはまだ少し暑そうなマフラーをしっかりと首に巻きつけていたからである。しかし、店先の明かりにほんの一瞬照らされたその横顔は、奈々美のよく知る人物のものだった。葉子だ。後を追ってコンビニへ入ろうかとも思ったが、やめておいた。葉子は今、東京の大学へ通っているはずなのだ。遠目だったし、他人の空似だろう。
翌朝、奈々美は暑さで目が覚めた。冬物の掛け布団を出したのだが、却って裏目に出たらしい。時計を見ると九時半だった。いつもなら週末は昼過ぎまで寝ているのだが、どうにも目が冴えてしまって二度寝は出来そうにない。
ベッドから起き出してカーテンを開けると、太陽の眩しさが目にしみた。奈々美は大通りに面したマンションの三階に両親と住んでいる。視線を下に向けると、昨夜と同じ色のマフラーが目についた。顔は斜め上から見下ろす形でしか見ることが出来ないが、やはりあれは葉子だ。しかし、お盆や正月でもないのになぜ地元に帰ってきたのだろう。
奈々美は葉子の家へ行ってみることにした。
葉子の家は奈々美のマンションのすぐ近くにある一戸建てだ。幼馴染みだったのでしょっちゅう互いの家を行き来していたが、葉子が東京へ行ってからは訪ねることもなかったので三年ぶりの訪問になる。
チャイムを鳴らすと、しばらく間があって葉子の母親の声がした。
『……はい?』
「浦野です。浦野奈々美です」
『まあ、奈々美ちゃん? ちょっと待ってて、今開けるから』
ドアを開けて顔を出した葉子の母親は、最後に会ったときよりもかなりやつれて見えた。
「すみません、急にお邪魔して……。これ、どうぞ」
道中買ってきたバウムクーヘンの箱を差し出した。
「まあ、ありがとう。それにしても奈々美ちゃん綺麗になったわねぇ」
「……あの、葉子ちゃんこっちに戻ってきてるんですか? 今朝見かけたんですけど」
葉子の母親は表情を曇らせた。
「……いま葉子出かけてるけど、ちょっと上がってくれる?」
居間に通された奈々美が待っていると、買ってきたバウムクーヘンとコーヒーが運ばれてきた。
「奈々美ちゃんは、いま何してるの?」
「三月に短大を卒業して、事務職で働いてます」
「そう……」
葉子の母親が目を伏せると、しばらくの間沈黙が部屋を支配した。重苦しい雰囲気に圧倒されて、カップに手を伸ばすことすら躊躇われる。
「葉子のことだけどね、休学中なのよ」
「休学?」
信じられなかった。葉子は高校時代、担任からも今の成績では志望する大学は厳しいと言われていたが猛勉強を重ね、さらに一人暮らしの準備資金の足しにとアルバイトまでしていた。体育の時間に倒れてしまい、奈々美が保健室まで付き添ったことも何度かある。そうまでして行きたがっていた大学なのに、なぜ休学するのだろうか。
「……下宿先のアパートが、火事になってね。喉にひどい火傷をしたの。今はもう通院だけでいいようになったんだけど、ただ……」
母親は声を詰まらせた。
「……もう、声は、一生、出ないだろう、って」
翌日、奈々美は駅の近くに新しく出来たカフェの前で葉子を待っていた。昨日葉子の母親に葉子と会いたい旨を伝えたところ、夜に母親が電話をくれたのである。
そこへ、見覚えのあるマフラーを巻いた人物がやってきた。
「久しぶり」
三年ぶりの再会だったが、元気だった? と聞くわけにも行かず、そのまま店に入った。
「いらっしゃいませ、二名様ですか?」
「はい」
「禁煙席と喫煙席、どちらがよろしいですか?」
奈々美は煙草を吸わないが、喫煙席でも気にはならない。ただ、葉子はどうだろうか。
「禁煙席の方がいい?」
振り向いて尋ねると、葉子はコクンと頷いた。
「禁煙席で」
昼食には早い時間だったこともあってか、そのまま席に通された。
席は片方が壁を背にした造りつけのソファになっており、奈々美はそちらに座った。
店内は暖房がきいており、上着を着たままでは暑く感じる。
「上着、こっちに置こうか?」
葉子は頷くとテーブル越しに上着を渡してきた。マフラーははずさないのか、と訊こうとしたが、ちらりと見えた耳の下の皮膚が顔のそれとは明らかに色が違うことに気が付き、言葉を飲み込んだ。
「何にする?」
メニューを葉子の側へ向けて広げて見せると、迷う素振りもなくミルクティーを指差した。
「ホット?」
頷いたので、通りがかりのウェイトレスを呼び止めてホットミルクティーとココアを注文した。
「久し振りだね」
葉子は頷き返してきたが、どう言葉を続けるべきか考えがまとまらない。そうこうしているうちに、ウェイトレスがココアとミルクティーを置いていった。葉子が喋れないことには気が付いていないらしく、さして怪訝な顔もしていない。
「おばさんから聞いたよ。……大変だったんだね」
葉子は目を伏せた。
「四月には東京に戻るの? 学校、復学出来そう?」
葉子は頷くと、笑顔を見せた。奈々美は嬉しくなると同時に、肩にのしかかっていた重いものがフッと消えたように感じた。
「そう、良かった。……でも、あたしも仕事してて嫌になることとかあるけどさ、葉子のがずっと大変だよね。こんなことになっちゃって、かわいそうだなって思うし……」
そう言ってマグカップに手を伸ばした瞬間、ガタン、という音が響いた。顔を上げると葉子が立ち上がり、怒ったような顔でこちらを見下ろしている。突然の出来事に言葉も出せずにいると、葉子は千円札をテーブルに投げつけて上着をひったくり、足早に店を出ていった。
多分、自分が何か気に障ることを言ってしまったのだろう。でも、いったい何を?
ミルクも入れられていない紅茶が、飲まれることもないまま湯気を立てていた。
そのまま数日が過ぎた。葉子を怒らせた理由が気になってはいたが、電話では葉子から詳しい説明を聞けないだろうし、メールアドレスもわからない。加えて沙弥菜の仕事の丸投げもありかなり憂鬱になっていたが、そんなある日仕事から帰ってくると一通の手紙が届いていた。葉子からだ。
「奈々美、夕飯は?」
「先食べてて!」
母親の声に振り返りもせず部屋へ駆け込むと、上着も脱がずに急いで封を切った。
『奈々美ちゃんへ。
この前は急に帰ってごめんね。
たぶん奈々美ちゃんは私のこと心配してああ言ってくれたんだと思うけど、ちょっとカチンと来ちゃって。
私も声が出なくなったのはショックだけど、「かわいそう」って言葉は使ってほしくなかったんだ。もちろん大学に戻れても卒業したあと就職先見つけられんのかなーとかいろいろ不安に思うことあるけど、でも、私は私だよ。何か別のものになったわけじゃない。だから、できる限り普通に接してほしいんだ。
また今度、お茶でも飲みに行こうよ。 葉子』
読み終えると、奈々美はその場にへたりこんだ。自分でも気付いていなかったが、確かに声の出なくなった葉子を「かわいそうな人間」として見てしまっていた。葉子が自分自身のことを不幸だと言ったわけではない。奈々美が「声が出ない=不幸」と勝手に決めつけていただけだったのだ。
謝らなきゃ。
奈々美は机の引き出しを開け、レターセットを探し始めた。