6、入学案内は届かない
使った食器を片づけながら私は窓の外を見ていた。
雨は降らないだろうけれど、重たそうな曇り空だ。うちの部活ではこういう空を「ロンドンの空」なんてふざけて呼ぶ。その名も「イギリス文化研究部」だから。
顧問の先生が言うには、イギリスは雨が多いらしい。でも、多いのは降る量ではなく回数で、一日を通じて降ったり止んだりを繰り返すからいつもこんな感じの空なのだという。
私たち部員の今のちょっとした関心は、そんなイギリスと「いつも雨だった」と歌われる長崎のどちらが雨が多いのだろうということだったりする。
イギリス文化研究部の活動は、お茶を飲んだりイギリス映画を見たりピーターラビットを読んだり、とにかくイギリス文化に触れることならなんでもいい。その時々にテーマをもうけて調べ物をしたり、それを文化祭の展示で発表したりもする。顧問の先生が英語の担当だから、たまに簡単な原書を読んだりスピーチの大会に出たりもする。
そのせいか表向きはなんだかとっても真面目な部活として通っている。
でも実際は、放課後部室に集まったらまったり過ごしているだけで、堅苦しいところは一切ないけれど。
「美紅ちゃん、洗えた?」
「うん、大丈夫」
「じゃあこっち貸してー」
私は洗い終えたティーポッドを優梨ちゃんへと渡した。白地にちょこちょこっと可愛いイチゴ柄が描かれているなんちゃってウェッジウッド。なにか掘り出し物がないかと部活のみんなで行ったフリーマーケットで見つけたものだ。部室でお茶を飲むときにイギリスっぽいものが欲しくてずっと探していたから、たとえそれが見た目も値段も明らかなニセモノでも嬉しかった。
「茶葉で淹れると美味しいけど、後片付けが面倒だから嫌だよね」
「だね。ティーバッグ万歳だよ。たとえそれが間違いが始まりだとしても」
「偉大な発明だよね」
優梨ちゃんと伶奈ちゃんは以前先生から聞いた紅茶のティーバッグの誕生秘話を大げさにありがたがっている。茶葉を小売するために小さな袋に入れて売り出したところ、そのままお湯に入れて使う商品なのだと勘違いされて売れた、というあの話だ。
家で緑茶を淹れてよく飲む私としては、別にティーポッドの片付けは苦にならないけれど、茶葉で淹れるときはお湯の温度に気を配らなきゃいけないのが少し面倒だと思う。
でも、ちょっと手間がかかるけれど道具を揃えて淹れる紅茶は、ペットボトルで飲むものと同じ飲み物とは思えないくらい美味しい。
「そういえば、美紅ちゃんのところの猫、もうお家に慣れた?」
「うん。もうずっと前から家にいるみたいな顔してるよ」
手を拭いてから、私はクッションにまるでオッサンのように横たわるミケの写真を二人に見せた。猫らしい香箱座りなんかもするけれど、元が人間のせいかオッサンくさいことが多い。
「そういえば、名前はなんだったっけ?」
「ミケっていうの」
「黒猫なのにミケ? あ、ミケランジェロとかそんな感じ?」
「うん、まぁそんな感じ」
ミケの名前を勝手に解釈した伶奈ちゃんは「ミケランジェロかー。んーカエサルとかのほうがよくない?」なんてよくわからないことを言っている。いや、ミケランジェロじゃないし、私がつけたわけじゃないんだよと心の中で思いながら、私はそれを聞いていた。
「それにしても、悪そうな顔してるね。マオーって感じ」
ミケの写真をしげしげと見ながら優梨ちゃんはそんなことを言う。これは本人が聞いたら喜びそうだなと思っていると、伶奈ちゃんが冷静に分析する。
「悪い顔はしてるけど、小物臭も拭えないよ? これはせいぜいつまみ食いをして逃げてきた感じだね」
「つまみ食い! たしかにやりそう!」
「それか下着ドロ!」
「やりそう!」
猫の姿になっているのにこの言われようだ。気の毒だなとは思うけれど、私もミケのことを怪しいとにらんでいるから、仕方がないのだろう。にじみでる胡散臭さは隠せないのだ。
「悪そうだよね。お父さんが言うにはミケはブリティッシュショートヘアの血が入ってるんじゃないかって。でも、写真を検索する限りもっと可愛いんだよねぇ」
ネットで検索して本物のブリティッシュショートヘアをたくさん見たけれど、たしかにこの猫自体も悪者感というかボスの風格があった。でも、どれもミケより可愛い。まぁ、それはミケが猫じゃないからかもしれないけれど。
「ブリティッシュってことは、イギリスの猫なの?」
「そうかも」
「じゃあミケちゃんに会うのも部活の一環だね」
「会いたいー! 本場の毛並みさわるー!」
ミケの悪役顔とブリティッシュという言葉が気に入った二人は、それからしばらくミケの話題で盛り上がっていた。
部活を終えて二人と道が別れるまでの帰り道はいつもにぎやかだ。だから私は家に帰ってからもしばらくその余韻のおかげで、淋しいと感じずにいることができる。
「ただいま」
ミケが来てから私は一応玄関で「ただいま」を言うようになった。
本物の猫を飼っていたらこの帰ってくるまでが不安なのだろうけれど、うちにいるのは胡散臭い異世界人だからなんの心配もない。
私が学校に行っているあいだ、ミケは好きにテレビを見たり調べ物をしてすごしてもらっている。調べ物というのは、魔術のことだ。
もとに戻る方法や帰る方法、そしてミケが魔術を使えなくなっている原因について、こちらの世界で調べられるだけのことは調べると言っていた。
そのために、私が持っている魔術関連の本を勝手に見てもいいと言ってあるし、タブレットも渡してある。使い方を教えると、ミケは猫の可愛い手で器用にタブレットを操作していた。
「ミケ、良い子にしてた?」
「あ、ミクおかえり」
私の姿を一瞥すると、すぐに手元の本に視線を戻したミケを見て、今日も調べ物は進んでいないのだと悟った。数日前からミケはあるシリーズの本に夢中で、彼が今広げているのもその本だから。
「ずいぶん読み進めたね」
「いやー止まんなくてな。やべぇよ。もうどこでやめたらいいのかわかんねぇ」
「そんなに面白いのかぁ……」
ミケがハマって読んでいるのはあの有名な魔法使いシリーズで、全十一冊あるうちの半分以上を読破したみたいだ。
私は最初の数冊を読んだだけで、あとは部屋にあるだけで満足してしまっている。
もともとは私がネットで魔術関連の本を注文したのを知ったお父さんが、魔法使いが好きなのだと勘違いして買ってきてくれたものだ。だから特別読みたかったわけでも思い入れがあるわけでもない。
「ミクはこの物語は結末まで知ってるのか?」
「うん。映画は全部見たから」
「じゃあさ、あの人は死んでしまったのか? 俺、それが気になって」
「ああ……」
ミケがどのシーンのことを言っているのかわかって、私は苦笑した。たしかに本文でも映像でも、そのキャラクターの生死についてはわかりにくい表現がしてあった。私も優梨ちゃんたちと話したけれど、結局シリーズのラストまでわからなかったくらいだから。
「えっとね……」
「あー! やっぱりいい!」
答えを言おうとすると、ミケは激しく首を振ってそれを止めた。じゃあ最初から聞かないでよねと思うけれど、知りたいけど知りたくない気持ちはわからないでもない。
「俺も魔法学校に行きたいなぁ。俺のところにも入学案内が届かないかなぁ」
キリのいいところにしおりをはさみ、ミケはうっとりとして言う。
「魔術使えるのに魔法学校に行きたいの?」
「魔術と魔法は違うんだよ。魔法は“血”がないと使えねぇけど、魔術はほぼ誰でも使えるとされてる。一応な。生まれ持っての魔力の量とかセンスとかは関係するけど、魔法みたいに魔女や魔法使いの血が発現しなければ使えないってわけじゃねぇから、門戸は広く開かれてるな」
「そんな違いがあったんだ……」
これまで、魔法と魔術の違いなんて考えたことはなかった。なんとなく魔術のほうが難しいのかな、くらいにしか思っていなかったけれど、血が流れていなければそもそも魔法は使えないだなんて。
「ミケは選ばれし者になりたいんだね」
魔法学校に入りたいということは、つまりきっとそういうことなのだろう。素養がなければ使えないものに憧れる気持ちというのはわかる。
「違う違う。俺はこの物語の学校に憧れてんだよ!」
それからミケは、物語の魔法学校のなにがいかに素敵かを熱く語り出した。まぁ、要約するとあのスポーツがカッコイイとか、パーティー最高とか、そんなことばかりだったけれど。
でも、語りながらミケはどんどん元気をなくしていき、やがてぺったりと床に寝そべってしまった。
「……いやぁ、やっぱり学校はいいや……学校なんて」
つぶやくように吐き出した言葉だったけれど、私はなんとなくこれはミケの抱える事情の根っこなのだなと気がついた。
「そんなことよりミケ、調べ物を進めてよ」
「お、おう……」
ワケありなのは最初からわかっていたことだ。だから、何かありそうだなと思ってもわざわざそれを突っ込もうとは思わない。
でも、床でくったりとしている姿はかわいそうで、私は抱き上げて膝の上でその毛並みを撫でてやった。