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5、遠くに行きたい

 玄関が開く音に続いて、バサバサバサッという音がした。そして、騒々しい足音が近づいてくる。


「泥棒か?」


 耳をそば立て、ミケが身構える。


「あんなうるさい泥棒はいないよ。……たぶんお父さん」


 たぶんというか、間違いなくそうだ。

 なんでこんな時間に? という疑問はわくけれど、予想は外れるはなかった。


「あれ? 美紅、今日は早いね」

「おかえり、お父さん。今日は中間試験だったから」

「そうか……もうそんな時期か」

「うん。ねぇ、その荷物はなに?」

「おお! これな」


 お父さんは両手に持っていた大きな袋を置くと、中からものを取り出しはじめた。

 出てきたのは大袋のカリカリ、パウチに入ったウェットフード数種類、猫砂、それを入れておくトイレ、そしてたくさんのオモチャだった。


「昨日の今日で、まだ猫ちゃんのものが家に揃ってないんじゃないかと思ってな。トイレなんて、大変だったんじゃないか?」


 猫グッズ一式を前に、得意げにお父さんは言う。たしかにミケが普通の猫ならありがたいけれど。


「お父さん、この子ね、トイレは人間のトイレでできるの」


 たくさんの猫グッズを前にしてわなわなしているミケが気の毒で、私はすぐに説明する。トイレは昨日すぐに場所と使い方を説明しておいたし、ミケの世界のトイレ事情も同じようなものらしい。


「おお! すごいな! でも、ご飯やオモチャはいるだろう?」


 トイレを組み立てて、さぁここでしなさい、なんて言い出さないか心配だったけれど、お父さんはすぐに気持ちを切り替えた。

 紐の先に羽飾りがついた棒を振り、一生懸命ミケの気を引こうとしはじめたのだ。

 羽を振りつつ、トンネル型のオモチャや小さな抱き枕のようなものを指差し「ほれほれ」なんて言っている。

 これは、ミケがなんらかのアクションをしないかぎりおさまりそうにないなと思い、私はミケに目配せをした。ミケは嫌そうな顔をしつつ、のっそりとトンネル型のオモチャに入っていって、そして出てくる気配はなかった。


「まだ、人慣れしてないみたいで……」

「いいんだ。猫はな、人間の思い通りにならないところがいいんだから」


 お父さんは目尻を下げ、トンネルから出てこないミケをいろんな角度から覗いていた。たぶん、なにをしても可愛いと感じているのだろう。でも、残念ながらそれは猫じゃなくて怪しい男なんだよ、というのはかわいそうだから間違っても教えられない。


「お父さん、猫好きだったんだね」


 こんなに喜ぶなんて、想像していなかった。反対はされないだろうくらいにしか思っていなかったから、正直この反応はびっくりした。

 お父さんはたぶん、誰もいない時間にこっそり帰ってきて、ミケと遊ぶ気でいたのだ。出張が多い仕事で、その出張と出張の合間に一時的に帰宅できる機会を利用して帰ってきたのだろうから。


「犬もいいけど、こうやって見ると猫が好きだなぁ」

「じゃあ今までなんで飼わなかったの?」

「そこはな、美紅が『私がちゃんとお世話するから飼いたい』とか言って欲しかったわけだよ」


 いつもはトンチンカンなやりとりばかりでスムーズに会話ができないけれど、今日はミケという話題があったからめずらしくお父さんと話ができていた。

 それなのに、お父さんは軽はずみな言動で私の地雷を踏む。


「……私はね、家でひとり待たされる淋しさとかがわかるから、これまでなにか飼いたいなんて言わなかったんだよ」


 腹が立つ、と思ったらスルリと言葉が口から出てしまっていた。声に出すと、その内容や声の感じがすごく駄々っ子みたいで、ものすごく嫌だ。

 いつもだったら、「そうだったんだ」とか適当に流せたはずだし、そうすべきだったのに。


「……おっと、飽きたのか? もういいのか?」


 空気がズンと重くなって、お父さんも私も固まった。それを察してくれたらしく、ミケがにゅるんとトンネルから出て、ゆったりと私のほうへ歩いてきた。猫らしい思わせぶりな歩き方でお父さんの横を通り過ぎ、ソファの上にジャンプするうちに、空気の重さはなくなった。


「ミケっていうの」

「ミケ? 黒猫なのに? なんだか哲学だな」

「そうでしょ」


 哲学ってなにが? と思ったけれど突っ込まなかった。もしかするとお父さん自身もわかっていないかもしれないから。せっかくよくなった空気をまたおかしくするのは嫌で、私はただニコニコしていた。

 それからは私は変な空気にならないよう精一杯気をつけてお父さんに接した。

 お父さんも私のことには触れずに、ミケや猫の話をしていた。

 お父さんは本当に猫が好きらしく、黒猫にもたくさんの種類があることを教えてくれた。アメショーはシマ猫だけじゃなくて黒猫もいるというのが何より驚きだった。いろんな猫の写真を見ながら「ミケはブリティッシュショートヘアに似てるな。血が入ってるんだろうなぁ」なんて言っていておかしかった。



 そんなふうになにげない話をして、また次の出張先に行くお父さんを見送って、私はまた自分のいつもの生活に戻るつもりだった。

 ーーそれなのに、今日に限ってまたイレギュラーなことが起こってしまった。





「ただいまー。メールの返信なかったけど、美紅ちゃん寝て……って」


 お母さんが帰ってきたのだ。

 時計を見るともう七時前で、たしかに帰ってきてもおかしくない時間だ。いつのまにか結構長いこと、お父さんと話をしていたらしい。

 お母さんはリビングに入ってきて、そこにお父さんの姿を見て固まった。たぶん、両手に袋を持っているから、よく足元を見ずに靴を脱いであがってきたのだ。お父さんの靴に気がついていれば、もっと反応は違ったはずだから。


「……お父さん、帰ってたの」

「あ、ああ……猫のものを買ったからそれを置きにな」


 そう言葉を交わしたきり、二人は黙ってしまった。気まずい空気が再びだ。


「お母さん、それなぁに?」

「ああ、これは牛丼。美紅ちゃん、明日もテストだし今日は猫ちゃんのこともあって疲れてるだろうから作るの面倒かなって思って」


 お母さんは手に持っていた袋をテーブルにおいて、中から牛丼を取り出した。二人分の牛丼。それは、お父さんは当たり前のように数に入っていないことを表している。


「夕飯時か。じゃあ、お父さんは新幹線の時間があるから行くな」

「あ、うん。いってらっしゃい」


 なんとか空気をとりなそうとしたけれど、それもむなしくお父さんは立ち上がってカバンを持って玄関へ向かってしまった。

 玄関まで行ってお見送りをするほど私は無邪気な歳じゃなくて、どうしようかとためらっているうちにパタンとドアが閉まる音がした。


「さぁ、食べちゃおうか? 急いで帰ってきたからまだあったかいのよ」

「うん」


 めったにないお父さんとの遭遇に、お母さんも少し動揺したみたいだったけれど、すぐに平気な様子になった。そういうのは、さすが大人といったところだろうか。

 それでもどこか戸惑いが見え隠れしていたから、私はミケを病院に連れていけなったことや試験の出来なんかについて話して聞かせた。

 会話ではなく、食事の間その場をもたせるためだけに私は話した。お母さんはそれを笑顔で聞きながら、どこか遠くを見ていた気がした。






「俺、あんなふうに緊張した食事ははじめてだ」


 食事を終え部屋に帰ってくるなり、ミケはクッションの上でだらりと横になった。

 私も、だらしがないと思いつつベッドに横になる。


「なんなんだ、お前の両親は。なんか変だ」


 いらだったようにミケは後ろ足でクッションに蹴りをいれる。そんなふうにするなら、お父さんが買ってきたけりぐるみを持ってあがっておけばよかった。


「変かな……まぁ普通じゃないよね。エンカウントしないですむようにお互いの行動パターンが頭に入ってるのに、別に仲良くないのよ。今日はお父さんがいつもと違う行動とったから、ああして鉢合わせしちゃったの」


 結婚してもう十五年以上だ。仕事が忙しい時期や曜日は頭に入っているだろうし、なんとなくで相手の行動も読める。だから、ほとんどお父さんとお母さんは顔を合わせることはない。それを避けているから。今日みたいなことは、本当にまれなのだ。まれだから、すごく緊張する。


「お前さ、よくあんなんでグレねぇよな」


 呆れたように大あくびをしながらミケは言う。ミケの世界にもグレてしまう人がいるのか、と私は的外れな感心をしてしまった。


「グレたらさ、お父さんとお母さんは仲良くしてくれるかな? 私のこと、もっと見てくれるかな?」

「それは……」

「無理だと思う。たちまち離婚だよ。あの二人はね、私がいるから離婚しないの。……この場合は、できないって言ったほうが正しいのかもしれないけど」


 私がまだ小さかったときは、二人はよく喧嘩をしていた。一度とんでもなく激しく長い喧嘩をしたときに、私は両親が離婚してしまうのではないかと思った。その心配を口にすると、彼らは反省したのか、それ以来喧嘩はしなくなった。喧嘩どころか、顔を合わせることもほとんど少なくなって、今のような生活になった。

 そして、二人とも私をどう扱っていいものかと戸惑いをにじませて接するようになった。


 そんなことを、話しても仕方がないのに私はミケにつらつらと話してしまった。

 ミケはまるでお行儀の良い猫のようにそれを聞いていた。つまらない話だったはずなのに、今度はあくびをしなかった。


「やっぱりさ、お前は一度ブチ切れしてやったほうがいいんじゃねぇか? じゃないと息がつまるだろ?」


 猫の顔だからよくわからないけれど、たぶんミケは今すごく真面目な顔をしている。そして、その声はすごくいたわりを含んでいるのがわかった。


「そんなことより、私は遠くに行きたいってずっと思ってた。それか、人間をやめたいって」

「それで……でもな、あんまりオススメしないね」

「そっか」


 猫の姿になったミケの言葉は重みとともにおかしみもあって、私は笑ってしまった。ミケもそれを見て、猫の顔で笑った。


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