2、マオーの世界のあれこれ
たっぷりとミルクを入れたカフェオレを飲みながら、私はミケの話を聞いていた。
一応部屋の真ん中に置いてあるミニテーブルには明日の試験の勉強道具を広げてはいるけれど、全く手をつけていない。思いのほか、ミケの話が面白いのだ。知らない世界の話を聞くのはすごく面白い。
それに、意外なことにミケは話し上手だった。でも、絵心はないけれど。
「ねぇ、このワルデルゴーとノルバンデュが接してる森ってどっちの土地なの?」
私はミケの描いた下手くそな地図を指差しながら尋ねた。猫の手だからということを抜きにしても、お世辞にも上手とは言えない。
ミケの暮らすグラフローズという国はひとつの大きな大陸なのだという。グラフローズはおおまかに王都・クーニス、東部・ウーストリベ、西部・ワルデルゴー、南部・ソーザンベ、そして北部のノルバンデュに分かれているらしい。
「森は全部西部の土地だ。それにユニコーンがいるから、基本通り抜けできねぇんだ」
「え? ユニコーン? あの綺麗な生き物がいるの?」
「綺麗なだけじゃねぇんだよ。おっかないぞ。人間の言うことなんか聞かねぇからな。前に王都の魔術学院の学生が勝手に森に入ってユニコーン捕まえたってことがあったらしいけどな」
「へぇ……」
ミケが当たり前のように話すことすべてが、私にとってはまるで物語の中のことのように感じられる。ミケは、すごい世界から来たのだ。
「ねぇ、移動手段はなに? みんな飛ぶの?」
「みんなは飛ばねぇよ。魔術を使えない人間もいるし、飛ぶのにもセンスがいるからな」
「そういうもんなんだね」
なんとなく、魔術は座学を頑張れば誰でもなんとでもなるものなのだと思っていた。でも、魔術を使えない人がいるのも飛ぶのが不得意な人がいるのも当然と言えば当然だ。
「主な移動手段は馬車だな。すげぇ足の速い馬もいるし、ある空間と空間を短時間で移動できる仕掛けなんてのもある」
「ワープだね」
「なんだそれ? ミクの世界にも空間と空間をつなぐ技術があるのか?」
「ない。まだない、って感じかな。私たちの世界で一般人も利用できる速い乗り物といえば、飛行機とか新幹線かな。そのうちリニアモーターカーも走るけど」
ノートパソコンをミケの前で広げて飛行機や新幹線の画像を表示させてあげると、ミケは興味深そうにそれを見ていた。
さっきテレビを見せたときはすごくびっくりしていたけれど、もう慣れたらしくノートパソコンの裏に回り込むことはしなかった。
「ミクの世界は魔術がないからどんなものなのかと思っていたけど、すごいんだな」
つけっぱなしにしているテレビや天井のシーリングライトに目をやりながらミケは言う。
「まぁね。科学ってすごいのよ。それに、魔術がなくたって強い人はいるし、武器も兵器もあるから世界征服は簡単じゃないと思うよ」
「はぁ……そうか。やっぱりどこも生きてくのは大変だな」
「別に、世界征服しようと思わなければ大変なことはないよ」
大それたことをしようとせず、普通に生きていくならそんなに大変ではないはずだ。むしろ、世界征服してやるという気合を別の場所で発揮すれば、なかなか大きなことをなせそうな気がする。
「ミケは世界征服したら、どうしたいの?」
「楽して生きたい! 何より、スゲー人って言われたい!」
「うわー頭悪そうー」
「なんだと!」
思わず、心の声がもれてしまった。でも、人が苦しむ姿を見たいとかじゃなくて良かった。もしそんなことを思っているような奴なら、猫のうちに始末しておかないといけなかった。
「ミクは、どうして魔術を学ぼうと思ったんだ?」
たくさん話して疲れたらしく、皿についでやった水をひとしきり飲んでミケは私に尋ねた。本当はミケにもカフェオレをあげたかったのだけれど、一応猫だからやめておいた。
「なんとなく。あの魔術を行おうと思ったのは、人間を辞めて動物になろうと思ったからだけど」
「あ、わかった! 試験が嫌で動物になろうと思ったんだろ?」
ミケはテーブルの上の勉強道具を指差して言った。私が明日試験なのだと言うと苦いものを食べたような顔をしていたから、ミケはどうも勉強や試験が嫌いらしい。
「ミケと一緒にしないでよ。私、勉強はわりと得意なのよ」
そうなのだ。学校の勉強は、あまり苦労せずできる。授業を集中して聞いて、それでもわからなければ先生に質問して、家に帰って復習すれば大丈夫。
勉強をきちんとして、模範的な子どもでいれば、私の両親は安心する。私が良い子だと信じて疑わないから、こうしてたいして構いもせずにいられるのだ。
「なんだよ、ガリ勉かよ。勉強好きなのか?」
ミケは信じられないものを見るような目で私を見ていた。猫って、こんな顔もできるのか。
「勉強は別に好きでも嫌いでもない。義務だよ、義務。それにね、勉強をきちんとするのは、両親の私への罪悪感を少しでも減らしてあげたいからだよ」
「はぁ? なんだよ、それ」
こうして私を家にひとりにしておくことが多くても、両親は私に対して申し訳ない気持ちを持っていることを知っている。
お互いが顔を合わせたくないがために、両親はあまり家に寄りつかない。でもそうすると、私とも疎遠になってしまう。仕事が忙しいのは確かなのだろうけれど、意図してそうしている部分があることを彼らは気にしている。
だから私は良い成績をおさめ、問題を起こさず、彼らの助けなどなくてもまっすぐ育っていることをアピールしているのだ。
もうそうすることがいつの間にか癖になっていて、抜け出し方がわからない。
「それより、ミケはどうして日本語がそんなに上手なの?」
「これは魔術だ。厳密に言うと俺はその日本語とやらを話してるわけじゃなくて、俺の言ってることがお前の耳に届く頃には日本語になってるだけだ」
「すごいね。そんな魔術を使えるなんて優秀じゃん」
「いや……それほどでもない。色々準備してきたんだよ、世界征服のために」
「そのまめさを別のことに活かせばいいのに」
うまく話をそらせたみたいだ。
それからミケはいかに準備が大変だったとか、魔王とはなんたるかを話しはじめた。
その話を聞く限り、ミケは全く魔王っぽくないのだけれど。
「あーあ。魔術がない世界に来れば俺は最強になれると思ったのに。魔術使えるやついるし、しかもそいつのところに転送されたし」
ぐったりと体を横たえて、ミケは不満をもらす。でも私は、私のところに出てラッキーだったんじゃないかと思う。私以外の人のもとに現れていたら、きっと通報されていたに違いない。
それにしても転送先を設定できないなんて、ミケは魔術の腕がいまいちなのだろうか。どこに出るのかわからないなんて、不便極まりない。
「ねぇ、なんで私の世界に魔術がないって知ってるの?」
「え? いや、せん……知ってる人に、この世界の人間と付き合ってるって人がいるんだ。それで、話を聞いて知ってた」
「ふーん……」
なにげなく気になっていたことを聞いたつもりだったけれど、なにかミケの秘密に触れかけたらしい。
ポロリと何らかのことを話してしまいそうになったミケは、慌てて私から目をそらした。
「ミケ、なにをかくしてるの?」
「わ! な、なにもかくしてねーよ!」
「うそ! 怪しい!」
「怪しくねーよ! お前、魔王に向かってなんてことしてんだ!」
脇の下に手を入れ高く抱き上げると、そこから逃れようとミケは必死の抵抗をした。ジタバタと手足を動かしながら文句を言うけれど、所詮は猫だからたいしたことはない。
「ミケ、魔王じゃないんでしょ?」
「はぁ? 魔王だよ。俺が魔王って言ったら魔王なんだよ」
「なにそれー」
ミケを抱きかかえたまま、おかしくて私は部屋を歩き回った。私くらいの歳の頃を指して「箸が転げてもおかしい年頃」と言うけれど、これはまさにそんな感じなのかもしれない。
そうやってしばらくミケとふざけまわっていると、玄関のドアが開く音がした。
両親のどちらかが帰ってきたのだ。
「ミケ、寝るよ。おやすみ」
「え? なに? なにごと?」
私はわけがわかっていないミケをクッションの上において、電気を消してベッドにもぐりこんだ。
帰ってきた親に会うと、年頃の娘とどう接していいかわからないという戸惑いみたいなものを感じて、疲れてしまうし、少し苛立つのだ。その苛立ちを自分なりに分析して「これが反抗期というやつか」なんて思うのも嫌だ。
メールはいいけれど、直接はあまり話したくない。それを悟られたくもないから、私はこうして帰ってくるのを察知して寝たふりをしたりして彼らとの接触をなるべく減らそうとしている。
まだまだミケと話したかったし、眠くないと思っていたけれど、暗がりの中で目を閉じていたらいつのまにか眠気がさしてきた。
だから私は、そのあとドアがそっと開いてそこから誰かがのぞいていたことも、それをミケが暗闇から光る目で見ていたことも知らなかった。