第四話 なかなかうまくはいかない
美紅を自分のものにしたいというミケの想いは、ある日爆発した。
美紅の両親が些細なことで言い争いをして、美紅を傷つけたのだ。くだらない口論をする両親の間に入ろうとしたのに、彼らはそんなときさえ彼女のことを邪魔っけにしたのだ。
ミケは怒った。だがそれは、静かな怒りだった。
飢えさせてさえいなければ子供を育てているなどと思っていそうな傲慢さに、ふつふつと怒りが湧いていた。
反抗期が激しく非行に走っているような子供ならいざ知らず、美紅は良い子だ。両親に望まれた通り、問題を起こさず、本分たる学業に勤しみ、彼らの手を煩わせることなく生きている。
そんな子を大切にしないどころか、くだらないことで泣かせるなんて、ミケには許しがたいことだった。
(大切にしないのなら、俺がもらって帰ろう)
ミケはそう思った。
ミケ・バックハウスは悪い奴である。悪党ではないが、善良でもない。
ここで善良な人間ならば、両親と美紅がうまくいくよう頭を悩ませるだろう。それか、傷ついた美紅を慰め、立ち直れるよう励ますだろう。
だが、ミケ・バックハウスは悪い奴だ。
本来大切にすべき者が大切にしないのなら、大切にできる自分が連れ去っても問題ないと考えた。それが彼の理屈だ。善良ではないから、そんなふうに考えてしまうのだ。
それに、焦ってもいたのだ。
どうにも、美紅の近くに彼女に想いを寄せる男がいるらしい。美紅は気がついていないが、そいつの想いは明らかだった。ミケも美紅の部活の集まりについて行った際、そいつのことをじかに見ている。そしてその男の美紅に対する想いと、なかなか風貌が良いことを目の当たりにしている。
だから、焦った。
自分は猫だ。本来はそうではないが、今は猫だ。
そんな自分よりも、人であるその男のほうが分がある。うかうかしていると美紅を掻っ攫われてしまうーーそんなふうに焦っていた。
だから、このことは好都合だったのだ。
ミケは傷ついて泣いている美紅に、「遠くへ行きたいという気持ちはまだあるか?」と問いかけた。それに対して「こんなところに一秒だっていたくない」と美紅は答えた。
それだけで十分だった。
ミケは、美紅に手を差し出した。美紅は、その手を取った。
二人はウキウキと、ミケの世界への逃亡を企てた。まるで遠足にでも行くかのように、荷造りをし、必要な魔術の準備をした。
ミケは自分が魔術を使えない代わりに、美紅にしっかりと魔術のことを仕込んでいった。
ミケの見立て通り美紅は筋が良く、そして本人は無自覚だがミケも教えるのがうまかった。
才能ある二人はあっという間に準備を整え、少し眠り、朝には出発できるようになっていた。
向こうへついたら、気ままに楽しいことをして過ごそうーーそんなふうに考えていたのに、思わぬ不幸が彼らを襲った。
完成した魔術陣の上に二人が立つよりも早く、何かが飛び出してきたのだ。まるで扉が開くのを待ち構えていたようなタイミングの良さだった。
飛び出してきたものは、黒く大きな獣だった。
それが放つオーラは凄まじく、ミケはすぐに異変を感じ取った。
「魔獣だ! ……くそっなんでこんなところに⁉︎」
ミケが叫んだのと、それが動き出すのは同時だった。
魔獣とは、魔術師がなんらかの動物を魔術を使って改造したものとも、一から生み出されたものとも言われる。現在では例外を除いてそれらの研究は禁止されているため、詳しいことは一般には知らされていない。
禁を犯しがちなミケですら、書物の中でしかその存在に触れたことはなかった。
魔獣に関する研究が禁じられているのには、主に二つの理由がある。
ひとつは、みだりに生物の命を弄ぶべからずという倫理的な理由。
もうひとつは、往々に魔獣は力が強く、その力は軽く人間を凌駕するため、危険だからという理由。
目の前の魔獣は、例に漏れず恐ろしい力を持っているのがわかった。
肉食獣なのは一目瞭然なのだが、驚くほど牙が鋭い。筋肉が異様に発達しており、ネコ科の獣のようでありながら、しなやかさよりも頑強さが目立った。
そしてなにより、その目に宿る知性が恐ろしかった。
あの目は、物を考えられる目だ。それゆえに、残虐で冷酷であることをミケはすぐに察知した。
魔獣の狙いはミケではなく、美紅だった。おそらく、この場において魔力の強いほうを選んだのだろう。魔力の強いほうを食らって、自身の力にしようと考えたのだろう。
魔獣に飛びかかられた美紅は、すんでのところでそれをかわした。
一度で仕留められなかったことに魔獣は苛立つでもなく、むしろ次はどうしてやろうかと考えるような仕草を見せた。逃げるのならそっちのほうが面白い、とでも言いたげな様子だ。
美紅がいたぶられて殺されるのは目に見えていた。おそらく、美紅自身もわかっていることだろう。
だから、美紅が逃げる時間を稼ぐために、ミケは体を張ることにした。
ほとんど使えないに等しい魔術を、床に爪で陣を彫ることで発動させた。
それは光と衝撃を生む、爆発系の魔術。
ミケはその小さな猫の体に魔術をまとい、弾丸のように魔獣の頭部へぶつかっていった。
当然、仕留められないことはわかっている。だが、ここで黙っていられるほどミケは穏やかでもなければ、腰抜けでもなかった。
ミケの体が魔獣の頭部に衝突し、光とともに弾けた。頭蓋にもろに攻撃を食らった魔獣は、体をよろめかせた。
しかし、それも一瞬のことだった。
視界を取り戻す前に、魔獣は再び美紅に向かって走っていった。見えなくなっても、加減することは忘れていない。
ただ美紅を疲労させ、恐怖をあたえるためだけに、近づいては離れ、近づいては離れを繰り返していた。
逃げ惑うよりほかなく、美紅は狭い部屋の中を追いかけられるままに走り続けていた。
(さっさと逃げろ。俺のことはいいから)
時折感じる視線に、ミケは苛立った。
先ほどの攻撃で、ミケの体はボロボロだった。ぶつかった衝撃で、おそらく骨は何本か折れた。内臓も、もしかすると傷ついているかもしれない。
なによりもいけなかったことは、やはり魔術を使ったことだ。本来猫は魔術を使わない。使えないというのが正解かもしれない。そこを無理して使ったため、ミケの体は激しく消耗していた。
立ち上がる力は、もう残っていない。
そんなミケを気にかけて、美紅は部屋から出られずにいた。
美紅だけでも逃げのびて欲しいーーそんなミケの願いは、あっけなく打ち砕かれる。
追いかけられ続け疲れた美紅が、激しく転んだのだ。その瞬間、心が折れたのか、美紅は動かなくなった。
(馬鹿野郎! 死ぬぞ!)
ミケは、攻撃魔術のひとつも教えていなかったことを悔やんだ。自分が守ってやるから必要ないと思っていた、自分の浅はかさを恨んだ。
だが、悔やんでも恨んでもどうにもならない。今必要なのは、美紅を逃がす時間をもう一度稼ぐこと。
死んでも美紅を助けなければと思ったミケは、最後の力を振り絞って立ち上がった。立ち上がり、根性だけで魔獣に向かっていった。
ミケ・バックハウスは、悪い奴である。
美紅の世界の言葉を借りるなら、ヤンキーや不良と呼ばれる類の人種である。
喧嘩上等、やられたらやりかえせーーそんな精神構造の生き物である。
だから、彼は魔獣に向かっていき、その小さな爪と牙で前足に攻撃を仕掛けた。
そんなものでは仕留められないことなど、わかっていた。
そんなことをすれば自分の命も危ういと、わかっていた。
だが、好きな女も守れず死ぬくらいなら、せめてその子が逃げのびる隙を作って死んでやるーーそう思ったのだ。
ミケに噛まれた魔獣は、ただ彼の存在を邪魔に感じただけのようだった。羽虫かなにかが寄ってきたときに手で払うような、そんな軽さでミケを振り払おうとした。
元々弱っていた体だ。そう長く張り付いてはいられず、何度か振り払われたのち、ミケの体はあっけなく床に叩きつけられた。
だが、幸運なことにそれによって魔獣の標的が自分に変わったことをミケは感じていた。
うるさいから殺してしまおうというような、ひどく雑な理由かもしれないが、とにかく魔獣は美紅をもう見ていなかった。
ただ静かな殺意を向けてミケを見ていた。
ミケは、逃げる力は残っていなかったが、薄目を開けて魔獣を見た。
(ブッサイクだな。俺、こんなのに負けるのか)
喧嘩では負けなしのミケは、そんなことを思った。人間の体で、万全の状態で望めば負ける相手ではなかったはずなのに、ミケはこんなにボロボロにされてしまった。
だが、不思議と悔しさはなかった。
それよりも、ただただ、好きな女の無事が気になった。
(行け、美紅)
魔獣の爪がギラリと光り、美紅の叫び声が響いた。そして、ミケは死を覚悟した。
だが、あと少しで爪がミケの体を引き裂くというときになって、魔獣は動きを止めたのだ。
魔術陣から伸びてきた光の縄が、魔獣を捉えていた。それでもなお暴れようとすると、追加コンボでなんらかの魔術が飛んできて、魔獣は気絶させられた。
ミケが確認できたのは、ここまでだった。
助かったーーそう思うと一気に気が抜けて、意識が朦朧としてきた。助かったことはわかったのだが、痛みやしびれで動けそうになかった。
そのままぼんやりとしていると、体が温かくなってきた。「しっかりしなさい」という艶っぽい声や、「おい、クソガキ。しばきまわされたくなかったらきっちり意識保っとけ」という可愛らしい声に似合わない物騒なセリフが聞こえてきた。
それらの声を聞いて、ミケは誰かに手当されているのだと気がついた。気がついて、改めてホッとした。
だが、ホッとしていたのも束の間、今度は体がバラバラにされるような感じがした。この世界に来てすぐ感じた、あの感覚だ。
手当をしているのとは別の人間が、ミケの体を人間の姿に戻しているらしい。
ミケは、わけがわからないまま手当てをされ、わけがわからないまま人の姿に戻されていた。そして、気がつくと美紅が自分のそばに来ていた。
ミケは、潤んだ黒曜の瞳を見て、ホッとした。泣いてはいるが、お互い無事なのだと。
だが、誰が魔獣を仕留めたのか、誰が手当てをして自分の体を元に戻してくれたのかに気がつくと、焦った。
自分を取り囲んでいるのは、魔術学校の職員三人。そしてその一人は、あのエルネスタ・アーリンゲだった。才女にして実は武闘派の、おっかない人が目の前にいるのを見て、ミケは自分が捕まったのだとわかった。
自分の世界に帰る気はあったけれど、捕まる気などなかったのに。これからは美紅を連れて行かなければならないのに。
学校を抜け出している以上、なんらかの咎は受けるだろう。それがわかっているから、ミケは必死の抵抗をした。
だが、必死の抵抗も虚しく、ミケは強制送還されることになった。
「好きだ! 俺はお前が好きだ! だから、また会いにくるから!」
魔術陣に吸い込まれる直前、そう叫んだけれど、それが美紅へ伝わったかどうか、ミケにはわからなかった。




