第三話 こんなはずじゃなかったんだが
ーーこんなはずじゃあ、なかったんだが。
ミケ・バックハウスは、己の不運を呪った。
保身のために美紅に飼われることにしたが、まさか本当に自分がただのペットに成り下がるとは思っていなかったのだ。
この体では、餌を取るのも大変そうだ。寝るところもいる。だからペットに甘んじただけで、良い子にしているつもりなど毛頭なかった。
だが、そんなミケの気持ちなど現実の前では関係がなかった。彼がどう思っていようと、彼が今やただの猫であるという事実は変えられないのだから。
そう、ミケは魔術が使えなくなっていた。
最初は、異世界への移動という大がかりな魔術を使ったことによって体内に蓄積していた魔素を使い切ったのだと思っていた。だから、少し休めば回復するだろう、と。
だが、実際のところはそうではなかった。猫の体は小さく、その体に蓄えておける魔素の量では大した魔術が使えないーーこれが真実だった。
美紅が学校に行って留守の間、ありとあらゆる魔術を試みて、そのことに気がついた。気がついて、彼は再び絶望した。魔術が使えなければ自分はただの猫ではないか、と。
これまで、どんなに魔術を使って暴れまわっても、教師たちは彼の魔術を封じることはしなかった。できないのだと、彼は思っていた。だが、それは違った。
あの美紅という少女は、教師たちですらやらなかったような恐ろしいことをミケに対してしたのだ。わざとではなかったにしろ、とんでもないことだ。
ミケは自分の身に起きた不幸を思って絶望した。
よりによって、とんでもない人間のところに来てしまったぞ、と。
そんなとんでもない人間・美紅は帰宅して、絶望した彼を見ると、意外なことにひどく心配した。
かける言葉が見つからず、おろおろとただ心配そうにする美紅を見て、ミケは驚いた。もっと冷静で冷酷な子だと思っていたから。
だが、実際は落ち込むミケを心配し気遣う様子だった。それを見てミケは、なんだかこの少女をこれ以上心配させたくなくて、適当にごまかして笑ったのだった。
こんなはずじゃあなかったとミケが思ったのは、魔術が使えなくなっていたことだけではない。
そんなことよりもなんだか厄介なことがあった。
それは、自分が思いのほかこの少女のそばを気に入ってしまったということだった。
これまで、ミケは誰のそばにいても居心地の良さなど感じたことはなかった。
親元にいた頃はもちろん、学校へ入ってからも、安らぎなどという言葉は無縁だった。
いつだってムシャクシャしていた。そのムシャクシャは、魔術でなにか騒ぎを起こしたときや破壊衝動を満たしたときだけ、一時的に収まった。
だが、意外なことに美紅のそばは居心地がよかった。
美紅は毎日、ミケを撫でた。毛艶の良さは健康の証だと言って、嫌がるミケに毎日丹念にブラッシングをした。
これまで、親にも撫でられたことがないミケだ。そんな彼にとって、たとえ猫の姿になっているからだとしても、その優しい手の感触は未知の幸福だった。
そのせいか、そう時間は経たずに彼は悪さをすることよりも、この世界で、この少女のそばでまったりとすることに夢中になってしまった。
どうせ、向こうに帰ってもムシャクシャする日々だ。魔術を使って暴れても、満たされるのは一時的にだけ。
それよりも、のんびりと本を読み、毎日学校から帰ってきてはささいなことを報告する美紅の声に耳を傾けるほうがどれほど楽しいかと、ミケは気がついてしまったのだ。
それにミケは、美紅に対して同情もしていた。
美紅もミケと同じように、親に愛されていないことにすぐ気がついたから。ミケのように殴られこそしていないが、美紅にとって親の愛情が枯渇していることは傍目にも明らかだった。
愛されていない、とは言い切れないかもしれないが、じゃあ美紅の両親が彼女を立派に養育しているかといえば決してそんなことはない。
彼らが美紅に与えているのは、雨風しのげる立派な家と、食事と着るものだけだった。彼らはほとんど家にいない。いたとしても、美紅を可愛がるという素振りはない。
夫婦間にあるわだかまり故、娘の美紅もどう扱って良いのかわからなくなって、そのままにしていると言った様子だ。
美紅もそんな彼らの前では人形のようになる。両親が望む、良い子のお人形ーーミケはスッと表情が消えた美紅のそんな姿が嫌でたまらなかった。
美紅の両親は、親としてもっと踏み込まなければならなかった。家族だというのなら、もっと触れ合うべきだった。だが、そのやり方がいつの間にかわからなくなり、思い出すのも煩わしいからか、美紅の良い子さに甘えて、そのままにしているのだ。
そのことに、自分の娘がひどく傷ついていることにも気づかずに。
家族でもないのに美紅が傷ついていることを知ってしまったミケは、いつしかそんな彼女のそばを離れがたく思っていたのだった。
遠くに行くか人間やめるかしたいーーそんな美紅の言葉が、彼女の危うさすべてを表現していることに気がついて、目が離せなくなっていた。
さらにもうひとつミケがそんなはずじゃなかったと思っているのは、まさにその気持ちだった。
彼はいつの間にか美紅のことを好きになっていた。いつの間にか、ではない。はっきりと彼女に対する恋心を意識する出来事があった。
ある日、ミケは熱々のネギを食した。適当な大きさに切ったネギを電子レンジで加熱し、ポン酢と鰹節をかけただけの簡単な品だったが、それがあまりにも美味しそうだったため、つい出来心だった。
日頃はそんな行儀の悪いことはしないのだが、そのときはまさに魔が差したのだろう。ほんの一口ならと、パクッとやってしまったのだ。
その直後、激しく後悔した。口に入れたネギの熱さに悶絶し、その拍子にネギは気道に張り付き、さらに熱さでミケを苦しめた。ミケは唸り、悶絶し、自分の浅はかさを恨んだ。
そんなミケを見て美紅は、猫であるミケがネギを食べたことによって死にかけていると思ったのだ。
ミケが死んでしまうと思って、美紅は泣いた。泣きながら「どこにも行かないで」と言ったのだ。ミケがただ口の中を火傷しただけで無事だとわかっても、「私のそばにいてね、ミケ」と抱きしめながら言ったのだ。
それは、ついぞ誰にも言われたことがなかった言葉だ。
恋をしたことはあった。恋人らしきものがいたことも、あった。だがどちらもパサついて、こんなふうにあたたかな気持ちを生むものではなかった。ミケはいつでも乾いて、擦り切れていた。
そんなミケにとって美紅は、初めて潤いを与えてくれた。美紅は、これまでミケが出会ったことがないタイプの人間だったのだ。
美紅のことが好きだとわかった途端、ミケは独占欲が出てきた。守ってやりたいという気持ちも出てきた。
自分と同じように、美紅を想う男がいないかが気になるようになった。
美紅は自分のことを日陰に咲く花だと言っていた。目立たず、誰からも気にされず、ひっそりとしているものだと。だから、わざわざそんなものに目を向ける者などいないといった意味合いのことを言っていた。
だが、ミケは知っている。
日向に咲く花ばかりが美しいわけではないことを。日陰に咲くものにしかない美しさがあることを。
むしろ、誰も気づかないような場所にひっそりと咲いている花を見つけて喜ぶ者もいる。それが、見つけた自分のためだけに咲いている花のように思えるから。
それに、美紅は決して不美人ではないのだ。目を見張るような美貌はないが、控えめに整った顔や、内に秘める気質が醸し出す雰囲気なんかは好む者も多いだろう。
そんなことにはまったく気がついていない黒の艶髪と黒曜の瞳を見つめて、ミケは毎日不安だった。
そして、この子を自分のものにしてしまいたいという想いを、日に日に募らせていくのだった。




