1、マオーと夕飯
私に首の後ろをつままれたまま、猫魔王はえぐえぐと泣きはじめた。魔王の威厳はどこにもない。みじめな毛玉だ。
いよいよかわいそうになって、私はとりあえず床におろしてやった。もとに戻れないし帰ることもできないと泣くのなら、悪さをする心配もないし。
うなだれて泣きつづける黒猫をながめながら、私は明日の中間試験のことを考えていた。
魔術が成功して動物になっちゃえば、試験も学校も関係なくなると思っていたけれど、それどころではなくなってしまったから。
(ということは、明日も私は人間として学校へ行って、人間として試験を受けなければいけないということか)
そんなことを、ぼんやりと考えていた。
「それで、帰る準備をしていないってどういうことなの?」
無視して夕飯の準備とか、一応の明日の支度とかを整えていると、「なんでこんなかわいそうな人間を放っておけるんだ!」と猫魔王に言われてしまった。
そもそも今のあなたは人間じゃないでしょ? と言おうかと思ったけれど、少し考えてやめておいた。これ以上泣かれても嫌だし。
家の中で誰かがこんなふうに泣いているのは気分のいいものではないとはじめて知った。
だから私は仕方なく、ひとりぶん用意した自分の夕飯を分け与えてあげることにした。コンビニに猫缶を買いに走ったのに、「猫のメシなど食わん!」と言われてしまったのだ。百五十円が無駄になってしまった。
「そもそも……帰る用意など……していなかったんだ」
「食べながらしゃべっちゃダメ! 飲み込んでからにしなさい!」
鶏肉を湯がいたものを食べながら、ふごふごと猫魔王はしゃべる。猫の優雅な食べっぷりを期待していたのにガッカリだ。
「それで、用意してなかったっていうのはどうして?」
尋ねたのに、猫魔王は答えない。とりあえずご飯を食べることに専念したらしい。
なんとも引きしまらない人、いや猫だ。少し前まで「この世界を征服してやる」なんて言っていたのに、今は猫になって茹でササミを食べているんだから。
それを見ながら親子丼を食べている私も、まぁよくわからない状況ではあるけれど。
「帰る用意をしていなかったのは、そもそも帰る気なんてなかったからな。この世界を征服してしまえば、もとの世界に帰る必要などない!」
「でも、猫の姿じゃ世界征服なんて無理でしょ?」
「……ゔっ!」
食べ終えた猫魔王は、えっへんとふんぞりかえって言った。でも私が思ったことを突っ込むと、自分の抱える問題を思い出したらしく、苦悶の表情を浮かべてうなだれた。
「……まぁ、今はこんな姿でももとに戻ればどうにでもなるさ」
ひとしきりうなだれていたけれど、また顔をあげて猫魔王は言った。気を取り直したらしい。でも、この人はやっぱり自分のおかれている状況がいまいちわかっていないようだ。
「もとに戻れなかったら?」
「なっ! お前、もとに戻せよ? 自分の魔術に責任を持つのが魔術を扱う者のマナーだからな!」
「そんなこと言ったって、私は魔術師じゃないし!」
「……そうか……そうだったな……この世界は基本魔術はない世界で、だから俺は来たんだったよな……」
猫魔王はなにやらぶつぶつとつぶやきながら私のほうをチラチラと見てきた。
また大人になりきれていない、けれど子猫と呼ぶには育ちすぎたくらいの猫。中猫だ。黒い中猫があまり良くないだろうことを考えながら私を見ているのだ。
「よし、お前を俺の下僕にしてやろう。いつか世界を統べる魔王の配下になるんだ。どうだ、嬉しいだろ?」
「全然。ていうか、食べたんだから出てって」
「えー⁈」
何を考えているのかと思ったら、ずいぶんとくだらないことを考えていたらしい。
自分の立場もわきまえず、私を子分にすると言い出すなんて。幼児番組に出てくる悪役だって、たぶんここまで頭が悪いことは言わないだろう。
「親に黙って猫を飼ったりしたら怒られるよ。だから早く出てってね」
「なんてことを! それにお前、一人暮らしだろ」
「違うよ。いつも帰りが遅いし帰ってこない日もあるけど、お父さんもお母さんもいるよ」
「ほう、留守番が多いんだな。それならさみしいだろう? 俺と暮らそう!」
「嫌だ。出てって!」
「そんなご無体な! お前、責任持って俺をもとの姿に戻せねぇなら、せめて住処くらいは提供しよう? な?」
「嫌」
「お願いだよー野良猫暮しは無理だよー死んじゃうよー」
「……」
お腹を見せてごろりと寝そべると、猫魔王は背中を床にこすりつけるかのような動きをはじめた。精一杯の可愛さアピールだろうか。でも、背中がかゆいようにしか見えない。
私はもう相手にするのをやめ、冷めてしまった親子丼を胃に収めることに集中した。私が米粒ひとつ、味噌汁一滴も残さず食べ終えるまで、猫魔王はずっとクネクネとしていた。
これじゃあ、まるっきり猫だ。威厳もなにもあったものではない。そもそも、この人が魔王かどうかは疑わしいけれど。
「あなた、名前は?」
「え? ……ミケ・バックハウス」
「ミケって、黒猫なのに? まぁいいか。私は江藤美紅」
「エトーミク?」
「ミクよ」
猫魔王あらためミケは、きょとんとして私を見ていた。床に寝そべるのをやめ、置物のように座った姿はなかなか可愛いかもしれない。私はその姿をスマホで撮影した。
「なぁ、ミク。俺、お前の邪魔はしねぇから」
「うん」
「なぁなぁ、この姿ならそんなに場所もとらねぇし」
「そうだね」
スマホを操作する私のまわりをミケは猫のようにグルグルと移動する。ここではない別の世界から来たというから、たぶんスマホがなにかわからないのだろう。わからないから、当然私が今なにをしているのか見当もつかないに違いない。
「ミク、無視しないでくれよ」
「……よし!」
食器を片づけたり、お風呂に入る準備をしたりしていると、スマホが鳴った。確認すると、二通のメール。二通に目を通して、私は小さくガッツポーズをとった。
別に嬉しいわけじゃないけれど、ひと仕事終えたという気分になったから。
「ミケ、お父さんとお母さんがあなたを飼ってもいいって!」
ずっと私の足にまとわりついていたミケにそう言うと、ミケは体をびくんっとさせた。
「え? いつ聞いたんだ?」
「さっき。この機械で」
「ほー」
スマホをかざして見せると、ミケは目をまんまるにして見ていた。でも、すぐに自分の身に起きたことを思い出して、ぴょんぴょんと駆け回りはじめる。
「やったやったやったー!」
なんの一歩も踏み出していないのに、ミケは嬉しそうだ。猫だし、世界征服にはまだほど遠いのに。でも、そんなミケを見ていると私も少し嬉しくなる。
「それにしても……仲が悪いんだかいいんだか」
私はお父さんとお母さんから返ってきたメールをもう一度見てつぶやいた。
ミケの写真を添付して「猫を拾ったの。飼ってもいい? ちゃんとお世話します」と送ったのに対して返ってきたのは、「お母さん(お父さん)がいいって言ったらね」だった。
文末の絵文字も、返ってくるタイミングもほぼ一緒。
その微妙な文面を私は了承を得たととらえた。まぁ、ダメの一言で突っぱねないということは大丈夫なのだろう。
「じゃあ、私はお風呂に入ってくるから。テレビでも見ておとなしくしててね」
「おう」
家の中を適当に案内して私の部屋に戻ると、ミケはピンクのクッションに飛び乗った。早々に自分の居場所と決めていたらしい。そこからテレビをガッツリ見つめ、部屋を出て行く私には一瞥もくれなかった。
お風呂からあがったら、明日の試験の内容をサラッと復習しながらミケと色々話をしようと思う。
これまで、魔術のことを話せる相手なんてネットの世界にしかいなかった。それなのに、魔術がある世界から突然ミケが現れたのだ。これは、話を聞かない手はないだろう。
知りたいことはたくさんある。
ミケのいる世界はどんなところなのかとか。
何で日本語があんなに上手なのかとか。
科学の代わりに魔術が発達しているのなら、生活はどんなものなんだろうかとか。
そんなことを考えると、自分が思いのほかワクワクしていることに気がついた。
数時間前まで人間をやめて動物として生きようと思っていたのに。
「世界征服だってー……」
シャワーを浴びながら、ミケが登場したときのことを思い出してみた。轟音と閃光とともに現れたこととか、赤く光る目が怖かったはずなのに、なんだか笑いが出てきてしまう。
なんでおかしいのか考えて、私は生まれてはじめての魔術が成功したことが嬉しかったのだとわかった。
予期せぬ形ではあったけれど、成功したことはすごく嬉しい。
それにミケがやってきたことで、魔術も、魔術が発達した別の世界もあることもわかったのだから。
(本場から来たミケを相手にすれば、もっと魔術のことを知ることができる)
そう思うと、本当に久々に私はワクワクする気がした。