14 さよならミケ
真っ黒い、大きな獣。
光の中から飛び出したものを見たとき、そのあまりの恐ろしさに私は息を飲んだ。
床に降り立っただけで感じる、それが持つ力。全身が放つ禍々しさ。
真正面から対峙しなくても、命と命のやりとりをしたときに、自分が相手よりも劣る存在なのだということがわかる。
「魔獣だ! ……くそッなんでこんなところに⁉︎」
ミケが叫ぶのと、それが動き出すのはほとんど同時だった。
こちらの世界でいうと黒豹に近いその生き物は、グルリと視線をめぐらせ、そして私へと照準を定めた。
そして、まるでオモチャにでも飛びかかるように、ピョンとひと跳びで私のところまでやってきた。
「ーー!」
ゴロリと床を転がり、間一髪のところでその生き物をかわした。でも、あと少しで鋭い爪が肌を切り裂いていただろう。
急いで距離を取り、次の動向をうかがったけれど、魔獣はこちらから視線をそらさないだけでなにもしてくる気配がなかった。
目の前の生き物が黒豹に似ているのはぱっと見だけで、なにもかもが違っている。
大きさも、つややかな毛並みの下の筋肉も、鋭い爪も。
筋肉のつき方はアメリカの闘犬であるピットブルという犬種に近い。見ただけで、その体が堅く重く、戦いに優れているのがわかる。
そして何よりこの魔獣が黒豹と違うのは、発達した牙だ。口から飛び出すほどに大きなその牙でズブリとやられれば、抵抗する暇もなく命を奪われるだろう。
でも、この目の前の生き物がそんな生易しいものではないとわかる。
前足で地面を掘るような動きをしながら、カチカチと爪を鳴らす姿は、まるでどうやって遊ぼうかと考えているようだった。
低く唸りながら、私のほうを観察している。
あの目は、知性のある目だ。つまり、獣の本能のまま私を狩りたいのではなく、その嗜虐心を満たすために、どう殺戮しようか考えている目だ。
捕まれば、その爪と牙で私は体を貫かれ、引き裂かれ、バラバラにされるのだろう。
見つめる目から残虐さが感じられて、私は自然と足が震えていた。これは、本能からくる震えだ。だから頭で考えて抑えようとしても、できない。
「ミク! 部屋から逃げろ!」
「ミケ!」
ミケは叫びながら、魔獣の前へと飛び出していった。そのことによって、魔獣の目線が一瞬、私から外れる。
自分に注意が向いたことを確認すると、ミケは前足を忙しなく動かして何かをした。
それがなんらかの陣を描いたのだと、次の瞬間にわかる。
「爆ぜろ!」
叫びながら、ミケは魔獣へと猛タックルを食らわせた。どれだけ勢いをつけても、猫の小さな体では大したダメージは与えられないだろう。でも、飛び込んでいったミケの体は、魔獣の眼前で弾けた。
ガンッという大きな音が響き、ミケの攻撃が魔獣の頭蓋を震わせたことがわかる。
閃光によって、どうやら視界も奪われたらしい。よろよろとして、足元がおぼつかない感じになった。
でも、それも一瞬のことだった。
見えていないはずなのに、体勢を立て直した魔獣は、私のほうへと向かってきていたのだ。
ミケの攻撃が致命傷を与えられないことはわかっていた。あくまで、私が逃げおおせるまでの時間稼ぎなのだと。
それなのに、私がもたもたしていたせいで逃げることができなかった。もし私が先に逃げていたら、そのあとミケも逃げのびる隙があったかもしれないのに。
ひとりで逃げる勇気がなかったばっかりに、ミケの頑張りが無駄になってしまった。
低い唸り声をあげながら魔獣が迫ってくる。狭い部屋の中は、どこへ逃げても一歩でたどり着かれてしまう。
床の上には、ボロボロになったミケの体がある。なんとかそこへ行って抱き上げてあげたいのに、それがわかっている魔獣は私の動きを読んで行く手を塞いでいた。そして弄ぶように爪をギラつかせながら距離を詰めたり離れたりを繰り返す。
このままでは私の体力が尽きて、あの爪にとらえられるだろう。わかっていても私は惨めに部屋の中を走り回るしかなかった。
広いところへ出れば相手に有利になることがわかっていたし、なにより、ミケをおいてはいけない。
「ーー!」
走って、走って、走って。
逃げて、逃げて、逃げて。
滑稽な鬼ごっこは、唐突に終わりを迎えた。
疲れて足がもつれて、床の上に私は激しく体を打ち付けた。痛みに息が止まって、そのあとはどれだけ体を動かそうとしても無理だった。
この瞬間を待っていたとばかりに、魔獣は私へ向かって踊りかかった。
怖くて、私は目を閉じることしかできなかった。
凶悪な爪が、牙が、私の体を貫くーーそう思ったのに、いくら待っても痛みはやってこなかった。
(どういうこと?)
わけもわからず目を開けて、私が見たものは、まるでまとわりつく虫を追い払うかのように前足を動かす魔獣の姿だった。
魔獣の足にはりついているのは、黒い毛玉だった。ボロボロになったミケが、魔獣から私を守ろうとその足に噛み付いて爪を立てているのだった。
死んでも離さないーーそんなミケの強い意志を感じるけれど、現実は無情だった。
うっとおしそうに何度か魔獣が足を振ると、ミケの体はまるでホコリかなにかのように、ポンッと放り出されてしまった。
ミケの小さな体が、再び床に叩きつけられる。
それまでなんの興味も示さなかったのに、魔獣は急に標的をミケに変更した。もしかしたらうるさいほうを先に黙らせようとしたのかもしれない。
倒れているミケのほうへ、魔獣が一歩ずつ近づいていく。逃げない、逃げられないとわかっているから、急いで動いたりしないのだろう。
「ダメ! やめてー!」
鋭い爪が、ミケの体に触れた。
もうダメだ、と思った。ミケが殺されてしまうと。
でも、次の瞬間、魔獣へ向かって突然光の筋がたくさん伸びてきて、その体を縛りあげてしまった。
魔獣はそれでも低い唸り声をあげ、束縛から逃れようとする。
「黙りなさい、この猛獣め!」
どこからか女の子の声が聞こえ、そして魔獣は動きを止めた。
死んだかと思ったけれど、どうやら気絶させられたらしい。
わけがわからずにいると、私が書いた魔術陣の中心が光りだし、そこから人が現れた。しかも三人も。ミケが現れたときのような、セリから飛び出してくるような勢いはなかったけれど、その唐突さに私は身構えた。
「あなた……大丈夫だった?」
突然現れた女の子は、私の目の前までやってくると、手を差し出した。どうやら助け起こしてくれるらしい。自力で起きようにも体に力が入らない私は、素直にその手に従った。
「あの、私は大丈夫です。でも、猫が……じゃなかった。今は猫だけど、でももとは人間の」
「ああ……ミケ・バックハウス、こんなところにいたのね」
ミケを助けて欲しくて、でもなんて説明したらいいかわからなくてしどろもどろになっていると、女の子はすぐに気がついたらしくミケのほうを見た。
他に来ていた二人がすぐにかけよって、ミケになにかをはじめる。
「大丈夫よ。治療のための魔術だから。……って、この様子だとあなたも、魔術に関してズブの素人ってわけじゃなさそうね」
一目で外国人とわかる赤毛の女の子は、そう言って苦笑した。
その口ぶりや、ミケになんらかの魔術をほどこしている他の二人を見て、私はこの人たちが何者なのかを悟った。
ミケと同じ世界から来た、つまり異世界の人々だ。
「エル、猫の体のままじゃ体力がもたない!」
「わかった。もとに戻してから治癒しましょ」
エルと呼ばれた赤毛の女の子は、ミケのほうへと駆け寄っていった。もとに戻すということは、ミケは人間の姿になるということか。
「ミケ」
やっと平常心を取り戻した私は、ミケのそばへ行った。
ボロボロのくたびれたぬいぐるみのようになった姿が痛々しくて、涙が出てくる。嫌がっても毎日欠かさずブラッシングしてやったベルベットのような毛並みが、今は見る影もない。
「大丈夫だから。こいつ、しぶといから死なないよ」
「そうよ。憎まれっ子は世にはばかるって、この世界の言葉でもあるじゃない」
私の涙を見て、ミケに魔術を施してくれていた二人の女の子がそう声をかけてくれた。ひとりは茶色の巻き毛が可愛らしい、おっとりとした子だった。もうひとりは金髪で目がチカチカしそうなほど綺麗な、女の子というより女の人だ。
「なんでこんなことになってるのかしら。まぁ、すぐもとに戻せるけど!」
赤毛の女の子がなにごとかをぶつぶつと口の中で唱えて杖をひと振りすると、ミケの姿がみるみるうちに人の形になっていった。
最初に見た、私にとっては見慣れないミケの真の姿だ。
黒髪の、少し幼さが残る少年だ。私と歳が変わらなかったのかと、ようやく実感としてわかる。陣から現れたときは、ただ恐ろしくてそんなことに気がつかなかったのに。
「ミケ」
茶色の髪の女の子に手をかざして治癒されている様子のミケに声をかけると、閉じられていた目がうすく開いた。
「……ミク……」
「ミケ!」
「……ああ、よかった。生きてるんだな、俺もお前も……」
「うん。ミケが守ってくれたし、あの怖い生き物はこの人たちがやっつけてくれたよ」
「……げっ」
ミケは自分を取り囲む人々に気づくと、痛みとは違う理由で顔をゆがめた。どうやら知り合いらしい。しかも、会いたくなかったという表情をしている。
「エル、応急処置は終わった。あとは帰って設備のいいところでやらないと」
茶色の子が言うと、エルと呼ばれた赤毛の女の子は頷いた。
「ミケ・バックハウス、帰って治療を受けてもらうわ。怪我が治ったら……まぁ色々話をしましょう。処分を決めるのは学院だしね」
「嫌だ! 帰らない!」
「帰らないって言っても、こっちの世界の医者にかかるわけにはいかないでしょ? ニコル、先に連れてって」
嫌がるミケは、ケガのせいで抵抗することもできず、ズルズルと私が書いた陣へ運ばれていった。
「ミク!」
「ミケ! 行っちゃうの?」
「好きだ! 俺はお前が好きだ! だから、また会いにくるから!」
「え?」
引きずられ、問答無用でミケは陣の中に開いた扉の向こうへと連れて行かれてしまった。それなのに、とんでもない言葉を私に残していった。
「あの子ってばなにも今言わなくても……ごめんね、なんかバカで」
「いえ……」
ひとり残ったエルが、呆れて困った顔で謝罪を述べた。
たしかにとんでもないタイミングでとんでもないことをミケは言ったけれど、この人に謝られてしまうのも複雑だ。
「あたしが残ったのは後処理と事情説明をするためよ。それから、あなたも話を聞かせてくれる?」
まだ混乱している私に、エルは鋭く問いかけた。断ることのできなさそうなその雰囲気に、私は考えることもなく、ただ頷いた。




