12 わらの家
期末テストは終わったし、お楽しみだった部活のお茶会もすんで、あとは夏休みを待つばかりという日々を過ごしていた。
まだ授業はあるし、受験生だからダラけてはいられないのだけれど、それでもどこか気持ちはまったりとしている。
しばらく、魔術のことも忘れていた。
魔術のある異世界から来た魔王を名乗る男という、あまりにも非日常な存在と一緒に暮らしているくせに。
日々の生活の中で、ミケと魔術の話はするし、ミケ自身も突然熱心にもとの姿に戻りたがるようになった。だから、完璧に忘れていたわけではないのだけれど、ミケと出会う前のような魔術を渇望するような気持ちは落ち着いていた。
遠くへ行きたいだとか、すぅーっと消えてしまいたいだとか、あるいは、人間をやめたいだとか。
そんな気持ちは、ミケのおかげで薄らいでいた。
でも、それはそんな気持ちを起こさせる出来事が少しの間起きなかっただけなのだ。
結局のところ、私を不安定にさせる周りの物事というのは、なにひとつ変わっていなかった。
「美紅ちゃん、申し訳ないんだけど、今度の三者面談、お母さん行かれなくなっちゃった」
帰ってきて、お母さんは開口一番そう言った。
久しぶりにお母さんが夕食を一緒に食べられるというから、少し手の込んだ料理を作ったというのに。テーブルの上のご飯に対するコメントよりも、お母さんにとっては急を要する用件だったらしい。
「急なお仕事? なら、仕方ないね」
先生に日にちや時間をずらしてもらうか、今回は二者面談でお願いしますと言えばいいだけだろうと思って、私はお味噌汁のお椀を運びながら軽く流した。
でも、お母さんはどこか浮かない表情をしている。
「急に入院しちゃった人がいてね、その人の仕事を今みんなで分担してやってるんだけど、どうしても急ぎの仕事があって、休めなくなっちゃったのよ」
お母さんは困った顔で、すごく申し訳なさそうに理由を説明する。私としてはそんなこといいから、早くご飯を食べたいのに。
「いいよ、仕方ないもん。先生には私から言っておくから。学校のことでいちいち休めないなんて、きっとよくあることだよ」
行けなくなってしまったものは仕方がない。実際のところ進路のことなんて、先生と私、私と親で話ができていれば問題ないのだから。少なくとも私はそう思っているし、今のところ自分の身の丈からかけ離れた高校に行くなんて志望は持っていないから、話すことなんて特にないつもりだし。
それなのに、お母さんはなんだか納得していないみたいだ。
「その、美紅ちゃんのほうからお父さんにお願いするのはどうかな?」
「あー……うん、わかった」
「お願いね。先生にご迷惑かけるわけにいかないし」
ご飯をお茶碗によそって、それを手渡しながら頷くと、お母さんは安心したように笑った。
それを見て、お母さんがなにを気にしていたのかということがわかって、なんだか胸の奥がスッと冷たくなるような気がした。
お母さんは、自分の都合で他人に迷惑をかけるのが嫌いだ。だから仕事で三者面談に行けなくなって、それで先生に迷惑をかけてしまうのを避けたかったにちがいない。
だから、日にちも時間もずらさず、最初の予定そのままにこなすために、お父さんに代わりに行って欲しいのだ。
でも、自分で頼むのは嫌だから、私の口から言わせるのだ。まぁ、私のことだからいいのだけれど。
内心面白くなかったけれど、それだけの話のはずだったのだ。私はそれをおもてに出さずに食事をしたし、お母さんもそれに気がつかなかったから。
そのあとお父さんにメールで三者面談の日に仕事を抜けられないか確認して、ダメなら先生にその旨を伝えるという、ただそれだけの話だったはずなのだ。
でも、数日後にそれが思わぬ事態を招くことになる。
自分の部屋でミケとテレビを見ていると、階下で言い争う声が聞こえてきた。もう夜で、普通は静かにしているような時間なのに。
この家で言い争う人なんて、お父さんとお母さんしかいない。嫌な予感がして、私はそろりと部屋を出て聞き耳を立てた。
聞こえてくるのはお母さんの声ばかりで、お母さんが一方的に怒っているのがわかる。
時々、相槌を打つような低い声が聞こえてくる。穏やかなようでいて、それはお父さんが怒っているときの声だと私は知っている。
足音をたてないように階段を降りて、もっと集中してみると、会話の内容が聞こえてきた。
どうも、私の三者面談のことらしい。
予想していたことではあったけれど、メールでお父さんにお願いしてみたらダメだった。そりゃそうだ。突然数日後の仕事の予定を変えられるかといえば、難しいだろう。
わかっていたことだったから、私はそれをまたメールでお母さんに知らせておいたのだ。二学期の三者面談のときに来てくれたら大丈夫だからと、お母さんが気にしないですむように一言添えて。
それでお母さんもなにも言わなかったから、私の中では終わった話だったのに……。
お母さんは尖った声でお父さんを責め立てていた。「大体いつもあなたは美紅のことを考えていない」とかそんなことを言いながら。それに対してお父さんはうんざりしたようなため息まじりで、否定とも肯定ともつかない返事を繰り返していた。
それを聞きながら、私は胃にプツプツと穴が空くような感覚を覚えていた。誰かがものすごい速さで、コンパスのような鋭いもので私を刺すのだ。そして、そのせいで息苦しくなってきた。
「……ミク、嫌なら聞く必要はない。部屋に戻ろう?」
ついてきていたミケが、私を気遣わしげに見上げながら言う。それでも私は、自分の部屋に帰ろうという気分にはすぐにはならなかった。
言い争う声は部屋に届くから嫌でも聞いてしまうし、それに無関係ではない話だから。
仲裁はできないまでも、私の耳に届いているということだけは伝えようと思って、私はリビングに向かって歩いていった。
私の姿を目にして、お父さんはまずいなという顔をした。でも、不機嫌な様子はそのままで、私をずっと見続けるということもなかった。
「ちょっと、あなた聞いてるの?」
長いことお父さんにまくしたてていたお母さんは、私の登場によって相槌が途絶えたことに苛立ちをあらわにした。それに対してお父さんが気まずそうに「美紅が……」と言ってはじめて、私のほうを振り返った。
「ごめん、部屋まで聞こえちゃって。あのさ、三者面談だけど、そんな絶対来なきゃいけないわけじゃないから、お母さんも気にしなくていいし、お父さんも急に無理言っちゃってごめんね?」
私は、二人を前にしてそう言うつもりだったのだ。でも、それはお母さんの怒った声にさえぎられてしまった。
「美紅、あなたは黙ってて!」
「……」
その言葉は私に向けられたものだったけれど、お母さんはもう私を見ていなかった。
私はどうしたらいいかわからなくて、お父さんのほうを見た。でも、お父さんは少し疲れた顔をして、「美紅は部屋に帰っていなさい」と言っただけだった。
ぶっつりと断絶されてしまった私は、ミケを抱いて部屋に逃げ帰るしかなかった。
吹き荒ぶ嵐の中を走るような気分で自分の部屋まで階段をかけあがり、そのままベッドに飛び込んだ。
「ひどい家だ。立派なのは外観だけだな」
腕の中のミケが、ひどく呆れた声で言った。
本当に、その通りだ。
建売ではなく注文住宅なのが我が家の自慢だった。細部にまでこだわりがあり、夢と愛がつまっているはずの家だった。
それなのに、それは偽りで、これはハリボテの家だ。嵐がくれば吹き飛ぶ、わらの家だ。
その頼りない家の中で、私は震えていた。
嵐は外から吹いてくるわけではなく、この家の中で暴れている。
こんなところにいたくないと思っても、子供の私に逃げ場はない。だから、できるかぎり家の中が平和であるようにと願って、これまで良い子でいたのに……
「……ミク、泣いてもいいんだぞ」
柔らかいけれどざらりとした感触を手に感じる。ミケが猫のように私の手を舐めているらしい。
「泣かないよ。別にこんなの不幸じゃないもん。世の中にはさ、ご飯を食べられなかったり、病気だったり、お父さんやお母さんに殴られてる子供だっている。それに比べて私は、お腹を空かせることもなければ帰る家もある。誰も私を殴ったりしない……だから、大丈夫だよ」
こんな状況で悲劇のヒロインぶれるほど、私は無知な子供じゃない。不幸のただ中にいる人たちからすれば、私の状況と変わりたいという人はいくらでもいるだろう。
だから……泣かなくていいはずなのに。
「お前の辛さはお前だけのもんだ。誰かと比べて辛くないからとか、自分は恵まれているからとか、そんなこと言って自分の気持ちを殺す必要はない。どんな人間にだって辛いことはあるんだから」
「……うん」
腕の中のミケをギュッと抱きしめて、私は泣いた。泣いたというより、涙がこぼれるままにした。
おさえよう、泣くまいという気持ちがなくなると、涙はあとからあとから溢れ出した。横になって涙を流すと、涙が鼻や喉に流れ込んで、プールで溺れかけたあとみたいになる。それでも、私は泣きつづけた。
泣くだけ泣くと、だんだんと思考がクリアになってきた。
頭が働くようになると、自分が一体なにを辛いと思っていたのかがわかってくる。
私は日頃から、お父さんとお母さんにとって自分がいらないもの、それどころか邪魔なものなんじゃないかと感じていた。
私がいるから離婚できないし、かといって構いたくもない。子供だから、というしばり以外に彼らが私と接する理由はないのだろうと感じていた。
それを普段はあまり意識しないようにしている。でも、さっきみたいなのを目の当たりにすると、嫌でもはっきりと理解してしまう。
結局のところ、こんなことで傷つくのは私がまだ両親をあきらめきれていないからなのだろう。彼らに見てもらえることを早々にあきらめていたつもりだったけれど、そうではなかったらしい。
そのことに気がついて、なんだかおかしくなった。
「ミク、遠くに行きたいって気持ちはまだあるか?」
ベッドから起き上がって、泣きすぎて汚くなった顔をティッシュで拭っていると、唐突にミケがそんなことを言った。
その顔は笑っていた。悪だくみする猫の顔だ。でも、からかっているわけではなさそうなその雰囲気に、私は少し考えて、頷いた。
「うん。行きたい。こんなところには一秒だっていたくないよ」




