0、マオー降臨
私は今しがた、人生最大のやらかしをしてしまったのではないかと思う。やらかし、なのか、グッジョブ、なのか微妙なところだけれど。
私の目の前には床一面に描かれた魔術を行うための陣と、その中央で全身の毛を逆立てて怒りを表明する黒猫。
その黒猫はフーフーと荒い息を吐いたあと、とてつもなく大きな声で言った。
「なんてことしてくれてんだーっ‼︎」
それに対して、私はどうしようかと少し迷ってから「えっと……ごめんなさい」と答えた。適切ではないのだろうけれど、それ以外に言うべきことが思いつかなかったから。
ことの発端は、少し前にさかのぼる。
今日は中間試験の前日で、部活もなく、授業も少し早く終わった。
だから私はかねてより準備していた魔術を決行しようと思ったのだ。
人間をなんらかの動物に変える魔術。
私は少し前から人間をやめようと決意していた。別に試験が嫌なわけじゃない。そんなことよりもっと根本的な、けれど言葉ではうまく説明できない部分で人間というものに嫌気がさしてしまったのだ。だから魔術で動物になって、別の人生(?)を歩んでみるつもりだった。
そんな魔術があるのは、様々な魔術について調べているときに知った。
科学の発達したこの日本で魔術について語る人に日常では出会わない。でも、ネットの世界にはたくさんいる。そういった人たちが発信する多種多様な魔術に関する情報を見ていくうちに、いつしか私も自身で魔術を使いたいと思うようになっていた。そして、どうせ使うなら一発で人生が変わるような魔術にしようと決めていた。
ずっとずっと、どこか遠くへ行きたいだとか、すぅーっといなくなってしまいたいとほんのり思いながら生きてきた。
でも、魔術というもの、あるいはそんなものがあると本気で信じている人たちが存在することを知ってから、わりと前向きな気持ちでいられるようになった。
動物になるための魔術の準備をはじめてからは、それは一層加速した。
怪しげな魔術語の辞書を取り寄せて勉強するのも、必要な道具を揃えるのも、ノートに魔術陣の練習をするのも、すべて楽しかったのだ。
私のことを知っているつもりの人たちは、私がこんなことをしていることを知らないーーそんな秘密めいた感じも気分をより高めてくれた。
もともと勉強は嫌いじゃないし、得意なほうだ。あくまで、学校で習うことについてではあるけれど。
だから、魔術の勉強も順調だと思っていた。成功するに違いないと信じていた。
それなのに、まったく想定していなかったことが起きてしまったのだ。
帰宅して、汚れても良い服に着替えて、私は魔術陣を書きはじめた。このときのために用意した手作りチョークで。
これまで知らなかったけれど、チョークは手作りできるのだ。石膏を水で溶いて型に流し込んで一日乾燥させるだけ。だから絵の具で色をつけたり流し込む型を工夫したりするだけで可愛いものも作ることができる。
でも私は色をつけるわけでもなく可愛い型に流し込むわけでもなく、魔術的な工夫を施してオリジナルチョークを作り上げた。
手作りなだけあって学校で使うきちんとした製品と比べると書きにくいけれど、私はそれで何とか魔術陣を書いていった。
細かな文様を忠実に再現するために床いっぱいに描かなくちゃいけないのが大変だった。
それでもなんとか形になってきて、あと少しで完成というときに、事件は起きたのだ。
突然、大きな音とともに陣の中央が光りはじめた。
地面が割れはじめたのではないかという轟音。そして、すべてを白で塗りつぶすかのような閃光。
そんなものから身を守るために体を丸くしながら、私は必死で頭を働かせた。
魔術は失敗してしまったのだろうか。そうだとしたら今は一体なにが起きているのだろうか。私はどうなってしまうのだろうか。
そんなことを考えながら、なにもできずにただ丸まっていると、やがて轟音は止んだ。
顔を上げると、光も徐々に収束していっていて、得体の知れない現象が収まっているのがわかった。
でも、今度はとんでもないものもが視界に飛び込んできたのだ。
歌舞伎とかの舞台で見る、セリから役者さんが跳ね上がってくるかのような感じで、ポンッと床から人が出てきたのだ。
「俺様は魔王だ! この世界を征服してやるぞ!」
現れた人物は男で、高笑いとともにそんなことを言い放った。
黒マントをまとう怪しげな男は、私に気づくとニヤリと笑った。
その笑顔と目が不気味に赤く光っているのが怖くて、私はパニックになった。そして、わけがわからなくなって、とりあえず手を動かして中断してしまっていた魔術陣を完成させたのだ。
「うわっ! なんだ⁉︎」
すると今度は陣全体が光りだし、その光は男を飲み込んでいった。
そして、冒頭につながるというわけである。
「……お前、これはなんなんだ?」
「えっと……猫になってますね」
「なってますね、じゃねーよ! どういうつもりなのか説明しろよ!」
「その……これは人間をなんらかの動物に変える魔術でして……」
黒猫になってしまった男は、前足をタンタンと踏み鳴らしながら私を恫喝する。全然怖くはないのだけれど、そうやって尋ねられるとつい、丁寧に答えてしまう。
私はいちから、この魔術の仕組みと目的について説明した。
「……話はわかった。わかったから、早く俺を元に戻せ」
ふむふむと偉そうに私の話を聞いていた黒猫だったけれど、話が終わった途端、また足を踏み鳴らしてそう言った。
小さな体のくせに、頭のてっぺんから尻尾の先まで偉そうだ。
「できません」
私はふたつの意味でそう答えた。
ひとつは、そもそもそんなことできないという意味だ。もとに戻る気なんてなかったから、戻る方法なんて調べていない。
もうひとつは、「俺様は魔王だ!」なんて名乗った男をもとに戻すなんてできないという意味。だって、魔王は世界を征服するらしいし。私自身が世界になんて興味がなくても、ほかの幸せに暮らしている人たちにとってはそういうわけにはいかないだろう。
それに、魔王なら自分でどうにかできるにちがいない。なにせ、魔王なのだから。
「魔王なんですよね? 自分でさっさと元の姿に戻って帰ってください」
「え?」
とりあえずなにかおかしなことをされては困るから、私は黒猫の首根っこをつかんでやった。たしか、猫はここをつままれると身動きがとりにくくなるらしい。
効果はてきめんだったみたいで、猫魔王は困った顔をして私にされるがまま体をぷらぷらさせていた。
「そ、それはできねぇんだ……だからこうして頼んでるんだろ!」
猫魔王はひどく焦った顔で、それでも威張った態度は崩さずに言う。でも、いくらすごまれたところで猫だし、何よりこの“ぷら〜ん”はいつ見ても笑える。
「それが人にものを頼む態度なんですか?」
「……え?」
「だからぁ……自分の立場をわかってるんですか?」
「……」
面白いから、ちょっとからかってみることにした。ぷら〜んとしたまま目線の高さまで吊り上げ、しっかりと目を合わせて言うと、それだけで猫魔王は目を丸くした。
ぱっちり、お利口さんの猫の顔になった猫魔王は、しばらく口元を不満げに震わせたあと、苦々しげに言った。
「……すみませんが、元の姿に戻していただけないでしょうか?」
「無理」
「え⁈」
間髪入れずに答えると、口をあんぐり開けて、猫魔王は叫んだ。これは猫なりの絶望の表情なのかもしれない。
しばらくその表情のまま固まって、やがてガックリとうなだれた。目はうつろ。そのまま放っておいたら、舌をだらりと垂らしてしまいそうだ。
「さっきのが、今のところ私が唯一使える魔術なんです。だから、もとに戻す方法はわかりません」
「……そんな……」
はっきりとできないことを伝えると、いよいよ猫魔王は落ち込んでしまった。白目をむいて口から魂が出ていそうな顔になっているのを見ると、さすがに少しかわいそうになる。
「……あなたは魔王なんですよね? その姿でも帰ればどうにかなるんじゃないですか?」
かわいそうに思ったけれど、気になることがあったから聞いてみた。
でも、私のその質問はさらに猫魔王を追い詰めるものだったらしく、彼はついにメソメソと泣きはじめてしまった。
「帰れねぇよぉー! そもそも帰る準備なんてしてなかったんだからよぉー!」
そんな間抜けな声が、部屋の中に響いていた。