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4、進止のない時空  ・  観察 ~エピローグ~


         4、進止のない時空


         《1》


         *

 下には公園が広がっている。そこで遊ぶ子供たち。遊具に乗る子どもたち。ブランコに乗る子どもたち。ブランコに誰かが乗っている。ああ、あれは自分だ。横にいるのが歩だ。向かいのベンチに座っているのはあいつだ。

 あっ、歩がブランコから降りた。あいつのもとへ駆け寄っていく。でも俺は行かない。あの中に入ることはできないと分かっているからだ。けれど行きたい。その葛藤を避けるために俺は行かないんじゃなくて行けないことにしたんだ。そう、なにかに行けないようにされている。そう思うことにした。そうだ、ブランコにお尻がくっついてることにしよう。いや、下の影から手が伸びてきて自分を掴んでいるっていうのも悪くない。

 ん?歩がこっちになんか言ってる。返事を返さなきゃ。だけど、返してはいけない。そんなことをしていいはずがない。そうだ、聞こえないことにするか。いやそれではこっちに話しかけていることが目でわかるから…、話せないことにしよう。そう、声が出ないんだ。だから返事をしたくても返事が出来ない。

 諦めて向こうを向いたな。なんだろ、この感じ。良かったような、寂しいような。よしこれも、うーん。そうだ、あいつの所為にしよう。そうだな…、あいつが取り込んでいる。何を?全部だ。歩も周りの人も遊具も、空も地面も。でも俺には手を出さない。それを楽しんでるんだ。その内に自分も飲み込まれて…、俺は一人ぼっちになる。

 目を閉じると一人取り残された自分が目に浮かんだ。

 ん?あれ?みんないるじゃないか。それに俺ら三人仲良く遊んでいる。ああ、そうか。あれは俺らじゃない。似ているから投影していただけだったんだな。いや、誰もいない。ただの写真だ。じゃあ本当の俺は?そうだ、これからブランコに乗るんだった。上から延びたブランコに。

 上を見つめると一本の純白のロープが伸びていた。そこに首をかけ、椅子から勢いよく飛んだ。いや漕いだ。ブランコは勢いよくスピードを保ちながら彼を乗せた。しかし彼はそれを楽しんではいない。全体重を支えている首がゴムのようになっている。

揺れる身体は次第に速度を落とし遂に静止した。止まったブランコを漕ぐものは誰もいなかった。彼はそれから降りようとしない。ブランコが彼を掴んで離さないのだ。

 ガチャ。玄関から何者かが入り込んできた。その者は椅子を遠くに片付け、何かを手に嵌めた。そして上のスロープを嵌めたほうの手で握った。そして足早に出ていった。下では誰かが寝息を立てていた。その場に合わないような安らぎに満ちた寝顔。最後の審判。そんな光景だった。

         *


 ロビーで転寝をしている自分に気がつくのに時間はかからなかった。濠は小さく伸びと欠伸をしてそこらを見渡した。そうだ、あそこに来たのだ。何度も面接を受け、何度ももう来たくないと思った場所に。そう、今日俺は生まれ変わる。命を授かるのだ。大して時間を費やしたわけでもないのに彼の中には巨大な達成感があった。

 不意に彼の中に一人の人物が浮かんできた。あいつだ。あいつは今日ここにはいない。家で彼を見送ったのだ。


         *

「感情がない?」

「そうだ。喜怒哀楽をはじめとする気持ちが存在しない。なぜならここでは人同士が関係を持たないからだ。関係を持たないということは一人だ。だが、孤独ということもない。孤独とは相手がいて初めて生まれるものだからな。喜びも必要ない。なぜか。人は喜びを糧にして生きていく。しかし、ここには生がない。だから必要ない」

「他の感情も関係性がないから…、存在しない。存在価値がない。そういうこと?」

「そういうことだ。だからここのものには命と共に感情がない」

「えっ、でもミルファクにはあるよね?」

 食い気味にミルファクの方を見る。そんな濠の目にも優しく視線を返した。

「ああ。俺はここの住人だが感情がある。というより芽生えさせられた、というのが正しいか」

「芽生えさせられた?誰に?何に?」

 ミルファクは一度視線を外し、外を見てもう一度こちらを振り返った。その瞳には今まで感じていた以上の柔らかい、暖かい春日の大気のような抱擁感があった。こんな目もできるんだ。また新たな一面を知り少しうれしくなった。

「お前だよ」

「えっ?俺?」

 意味が分からなかった。俺がミルファクに影響を与えた、そんな記憶は全くない。大体自分はそんなことが人にできるほどできた存在ではない。そう思った。だからこの後の説明を待った。

「そうだお前だ。でもお前は覚えていないだろうな。これはお前が死ぬことに関わる記憶だからな」

「そう、なの?教えてくれる?」

「ああ」

 どこからか取り出された煙草に火をつけた。初めて見るそれに驚きはなかった。なんとなくそれは自然に見えたからだ。静かに煙草に先で燻ぶる火がとても綺麗だった。彼の呼吸に連動してオレンジ色の火は赤々と灯ったり落ち着いたり。少しずつ煙草は灰に姿を変えていく。そして、彼の口から零れる煙。白というには少し汚れた色で空気に溶けていく。

それらは本当に自然だった。まるでミルファクそのもののように感じられた。

「お前が死ぬのを決めたのはお前が死ぬよりずっと前だ。自分の目の前に広がる世界が嫌になった、絶望したと言っていた。だから死ぬことに決めたらしかった。俺はそれを静かに聞いていた。時々言葉は返したがそれが届いていたかはわからない」

 肺から再び煙を吐き出した。濠はそれを見つめながら考えた。言っていることが分からない。

「どういうこと?ここと生きている世界は…」

「繋がっているんだ」

 一本目の煙草を灰皿に押し付けて優しく消した。灰皿なんてどこにあったんだろう。

「この二つの世界は繋がっているんだ。俺らここのものにはそう見えるんだ。下界のことが。外を見ると見えるんだ。ここがどこに位置しているかはわからない。だけどちょうど見下ろしたように俺らには見える。お前はよくこっちを見ていた。たぶん空を見ていたんだろう。そしてよく俺らに話しかけてきた。俺らが見えるかのように。でも時々はいるんだ。向こうからこっちが見える奴が」

 なんとなくだが言っていることは分かる。霊能力者として世間を賑わせている彼らがそれに当たるのだろう。死者が見える、それがどんなものか以前考えたことがある。しかし、どんなに想像力を膨らましてもグロテスクなものしか想像できない。だから可哀相だなといつも思っていた。けれどミルファクの言う通りなら、それはとても美しい能力なのかもしれない。以前の考えは完全に払拭され、その能力がとても羨ましくなった。

 覚えてはいないけど俺はミルファクとは初対面ではない。そういうことらしい。確かに最初に見たときに親近感と安堵感があった。知らないはずなのに。

「ただ現実逃避をしていただけかもしれない。だが、俺にとってお前は友達だった。相談を持ちかけられて、想像して、考えて、それに必死で答えて。すぐ傍にいられないことに苛々する時もあった。そんなことを本当に近くで親身に分かち合えたら、よくそんなことを思った。それができればお前は苦しまない。そんなことを考えているうちにふと気がついた。自分にはないはずのものが、ここでは必要のないものがお前と関わりを持つ中で生まれていることに」

 いつの間にか二本目の煙草が煙を噴いている。だがそれよりも彼の頬を伝っている涙の方が濠の視界を独占した。

「だから決めたんだ。お前が死ぬことを変えることはできない。そのことに俺が力を貸すことはできない。だが、お前が死んでこちらに来たらお前の傍にいられる。一緒にすべてを分かち合える。俺はお前の助けになろう。お前が苦しむことのないように俺が支えていこう。そう思った。だから俺は待った。お前がここに来るのを。ずっと、ずっと…。そして、しばらくして…、お前は来た。皮肉にも山崎濠という名前で」

         *


 濠はポケットから煙草を一本取り出した。ミルファクにもらったものだ。今まで一度も吸いたいと思ったことはなかったが、このときなぜだか吸おうと思った。静かに火をつけ、咥えてみる。そして煙を吸い、それを肺まで運んだ。

「ゲホッゲホ」

 初めてのそれを彼の身体は受け入れなかった。たくさんの人の前で盛大に噎せてしまった。しかし、それが不思議と不快ではなかった。濠はもう一度煙を吸い込んだ。今度は噎せることはなく、煙を吐き出す工程までこなせた。

「山崎さん、山崎濠さん」

受付の乾いた声が聞こえてきたのを合図に彼は半分以上残った煙草を近くの灰皿で押し消した。


         [1]


 謙輔は先程入れたコーヒーを一口啜り、目の前に広げられた資料を眺めた。

「おはよう、早いな」

 武内だ。ぎこちない笑顔を浮かべてこちらを見ていた。

「おはようございます」

「それは」

「ええ、片付けようと思いまして」

 資料に視線を落とした。

 山碕柊平が死亡して、自殺して三日が経過していた。あの日彼のマンションに向かい、謙輔と武内は変わり果てた彼を発見した。それからが忙しかった。滝澤に連絡を入れ、事件の見直しが謙輔の推理を基に行われ、それが事実だという確認を取って…。

「お前は大した奴だな。あれだけのことを推理して見事に当ててしまったんだからな。部屋に転がっていたあれを見たとき、正直恐ろしかったよ」

 柊平の部屋は一部を除いてこの前のままだった。違っていたのは床だ。異様なほど変形した金色の塊。それがトロンボーンだということは楽器の知識があるものが見てもすぐには気がつかないだろう。それだけ形を留めていなかった。そしてその傍らに転がっていたもの。彼の推理を決定づけるそれ。

「あれは本当に永倉影の手だったのか」

「ええ、一度戻されていたので損傷も見られたんですが、鑑識が調べてみたところ彼の指紋と一致したそうです」

 そう、金の塊のそばには乾いた手袋のような影の右手の皮膚が落ちていたのだ。

「なんで山碕柊平が永倉影の手を嵌めて指紋を残したと思ったんだ?」

「それは半ば、感のようなものです。ただそれしかポールに影君の指紋を残す方法が思いつかなかったんです。それに彼の右手が切断された時期は彼らの家族が殺された時期とも近いのでもしかしてと思っただけですよ」

「なるほどな。でも普通そんなこと考えないぞ」

「ええ、それだけ遠藤翔吾が憎かったんでしょうね」

「いやそうじゃなくて、お前だよ。そんな不自然さからそんなことを普通は考えない、そう言ったんだ」

「そうですかね」

 わざと茶を濁して外を見た。今日はどんよりとした曇り空だ。これから雪まで降るらしい。

「永倉影の精神状態も回復してきて、家族を殺した事を認めている。柊平に持ちかけられ実行したそうだ。当時彼は兄の永倉燐人を憎んでいて、それがらみで家族ともうまくいっていなかったようだ」

「そうですか」

 予想の範囲内であったので衝撃は思ったより少なかった。それよりも今気になっているのは彼の中にある大きな空虚である。その正体は…。

「山碕柊平、いや山碕剛か?」

 体がビクンと跳ねた。それは自分の内の底の底が完全に見透かされていたからだ。そんな素振りも見せてはいないはずなのに。

「なぜ…」

「わかるさ。親友だったんだろ。そいつが復讐して、それだけじゃなく自殺までして」

 そう、謙輔の中に横たわる空虚の正体は剛だった。柊平ではなく、ずっと過ごしてきた剛だった。自分の中にそれだけの存在感を作り出している彼を救うことができなかった。気がつくことができなかった。それが謙輔の中の空虚に力を与え、彼を攻め続けているのだ。そうしているのは他でもない自分だ、ということにももちろん気がついている。

「葬式には顔出したのか?」

「いえ、確認作業なんかに追われていましたから」

 それは口実だった。行けなかったことにしたかった、のだ。こんな自分があいつの葬式に参列していいわけがない。そう思えたのだ。

「後で挨拶に行きますよ」

「ダメだ」

「えっ?」

「すぐ行ってこい。今のおまえは山碕剛と真っ正面から向かい合う必要がある」

「わかりました」

 誰かにこう言ってもらいたかったのかもしれない。あれだけ躊躇っていたのに今はそれほど渋る気はしない。むしろ行きたいと思っている。人間は本当に勝手で、変な生き物だとつくづく思った。

「ところであの手紙持ってきて頂けました?」

 武内は自分の鞄から封筒取り出した。歩が遠藤翔吾に宛てたラブレターだ。資料を整理するに当たり、それも一緒に提出することになったのだ。

 真っ白い便箋。そこに綴られた真っ白い想い。それのためにあいつは…、あれ?

「武内さん、ここ見て下さい」

 少し語調を荒げ、便箋の宛先のところを指差した。突然のことに武内も少々驚いているようだ。

「どうしたんだ?」

「今気がついたんですけど、ここ何か書いて消したような跡があります」

 平仮名で書かれた遠藤翔吾の名前の一番後ろに一文字だけ何か書いたような跡が微かにあった。

「なんて書いてあったんだろう?〝ん〟か、それとも〝ひ〟か?」

「いや、おそらく〝い〟じゃないかと…」

「何でそう思うんだ?」

 待てよ。これはもしかして。

謙輔は手渡された封筒の宛名の部分をじっと眺めてみる。そして徐に近くにあった鉛筆を掴んだ。それを斜めにし、ゆっくりと擦っていく。

やはり、思った通り最後の文字は〝い〟だ。よく見ると他の部分も微妙にはみ出していた。だとすると…。体中の汗腺から滝のように汗が溢れだしていた。武内の声はもはや彼には届いてはいなかった。


         《2》


「お待たせいたしました。山崎さん、あなたの死に関する記録の閲覧はどうなさいましょうか?」

 相変わらずの冷めた声色で受付が尋ねてきた。

「記録の開示をお願いします」

 濠は即答した。あまりにも早かったので、受付も驚いたことだろう。しかし、ここの者には感情はない。それをすぐに思い出さされた。

「畏まりました。それでは以前と同じく四十四番会議室にお進み下さい」

 相も変わらずといったようで、前回と同じく行き先とは全く関係のない方向へ左手を伸ばした。軽く頭を下げ、前回の記憶をたどりつつ指定された部屋を目指した。


         *

「皮肉にもってどういうこと?」

「お前の死にそいつ、いや、その名前を持つ奴が関わっているんだ。ところで人が一番強く思う感情は何だと思う?」

「愛情?それとも悲哀かな」

「いいや」

 ミルファクの表情が煙草の煙の向こうで大きく変化した。先程までの暖かいものとはまるで違う、そう、まるで相手を想いつつも躊躇われているような微妙な表情だった。以前こんな顔を見たことがある。その時俺はこの表情をススキのようだと思ったのだ。

「憎しみだ。自分が人ではないから偉そうなことは言えない。だが、憎しみが最も強い感情だと聞いたことがあるし俺もそう思う」

 憎しみ。その感情が力を持っていることは分かっている。ついさっきまでそれに支配されていたからだ。

「それとどう繋がるの?」

「ヤマサキゴウ、その名前が浮かんだとお前は言っていたな。その理由はその名前に強い憎しみを持っていたからだ。本人というよりはその名前に。それのためにお前は死んだんだからな」

 皮膚に直接氷が投げつけられたような衝撃が濠を襲った。

「彼はお前が生涯最も憎んだ、恨んだ人物だ」

 世界が歪み濠の何かを襲った。衝撃以上の表現しづらい負の感情が心の奥底で躍動し、滲みだしてくる気配がはっきりとわかった。

「だから浮かんできたんだ、自然にな」

         *


「こちらが山崎さんの死の詳細になります。どうぞご覧下さい。読み終えましたら生まれ変わりを行いますので隣の部屋までお越しください」

 中で待機していた女性に数枚の綴じられた書類を手渡された。その女性は面接の際にいた無駄に健康そうな女性だった。

 濠は軽く頭を下げてそれを受け取った。内容を知り尽くしたその情報を初めて見たものように釘づけになりながら読み耽った。どうやら彼の言っていたことは本当だったようだ。頬に違和感を感じる。手を宛がってみると、濡れていた。それを見て始めて自分が泣いていることが分かった。何に対しての涙かはわからない。ただ、そんな感情を無視するかのようにそれは流れ続けた。書類にも落ち、いくつもの染みを作っていく。

「これが真実か。ミルファクが言ったように綺麗なものではないな。なら、俺は生まれるわけにはいかない」

 濠は書類を握り潰し、ドアを開けた。隣の部屋に行き、生まれ変わるためではない。死を継続するために、そのためだけに走った。


         [2]


「武内さん、遠藤翔吾の自殺について何か不自然な点ってありませんでしたっけ?」

 遠藤翔吾の自殺したアパートの一室の中で彼は尋ねた。

「それより突然飛び出してここに来た理由を教えろ」

「それは後です。もしかしたら僕の思い違いかもしれない、でももしかしたら勘違いをして、いえ、させられていたのかもしれないんです。なかったですか、少しでもいいんです、何か違和感」

 ただ事ではない彼を見て何かを感じたのだろう。武内は質問することを止め、腕を組んだ。

「そう言えば、ロープの括られていたポールには永倉影の指紋が残されていたんだよな。しかも両手の。だがそれって不自然だなとは思っていたんだ」

「と言いますと?」

「考えてみろ。首を括って殺すにしても両手の指紋がつくか?だいたい、その過程でポールを両手で握ったりしないだろう」

 謙輔の思考は終点の鉄の斧を発見した。見間違いではないこれが本物だ、そう確信した。

「武内さん、どうやら事態は後者のようです」

 右のズボンのポケットが震えた。誰かからの着信のようだ。


 謙輔は突然かかってきた電話を取り、誰かと喋っているようだ。どうやら影の皮膚に関することらしい。何か新しいことが分かったのかもしれない。

 しかし、勘違いをさせられていたとはどういうことで誰にさせられていたのだろう。武内は彼の会話をそこに残し部屋を出た。何か目的があったわけではない。なんとなく、誰かに誘導されているように自然に足が動いた。気がつくとある一室の前に立っていた。管理人という看板が下がっている。そこでドアを眺めていると、突然ガチャとドアが開いた。中からは中年の男が出てきた。その顔には不機嫌が表れている。武内は聞かずにはいられなかった。

「あの…、どなたですか?」


「はい、わかりました。ご連絡ありがとうございました。失礼します」

 ふう。これで完璧だ。自分が握っていたのが偽物の鉄の斧だと確信するのには十分過ぎる。

振り返った。しかし、先程までいた武内がいない。玄関を見ると自分の靴しかない。どうやら電話をしている間に外に出たようだ。謙輔も靴を履き外へ出た。下から話声がする。どうやら彼女は下にいるようだ。階段を降り、管理人の部屋の前にいる武内を発見した。

「武内さん、先程連絡があったんですが…、どうしたんですか?」

「この人がここの中にいたんだ」

 武内の前にいる人物を見る。白髪が目立ち、痩せた頬と体。それにも関わらずぽっこり出た下腹。

「どなたですか?」

「この人にも言ったんですけど信じてくれなくて」

 武内に視線を戻す。答えを聞くために。

「彼は…、ここの管理人さんだそうだ」


         《3》


 思い出した。俺は生まれてはいけない。生から逃げるために、あの世界から離脱したいと願って死んだんだ。それなのにこんなに早く生まれてはいけない。こんなんじゃ何のために死んだんだかわからない。ここで俺は死んではなくてはならないんだ。

 廊下をただひたすら走った。エレベーターには乗らずに階段に向かい、ひたすら出口を求めて、死を求めて走った。人に何回もぶつかった。だが、そんなことを気にしている場合ではない。早く、早く彼のもとへ。ミルファクのもとへ。

 一階まで辿りつき入口のドアに辿りついた。自動ドアが彼を感知して…、閉まった。手で強引にこじ開けようとする。開かない。ドアを何度も叩く。開かない。ロビーにいる何人もがこちらにロボットのように顔を向けている。絵でもこれほど無表情に写らないだろう。その恐怖が彼をさらに攻め立てる。数歩後ろに下がり体当たりをした。ガン。開かない。

「それでは参りましょうか」

 振り返るとすぐ後ろに面接の際にいた三人の面接官と何人ものスーツ姿の男たちが立っていたが並んでいた。


「申しあげたはずですよね、生まれ変わりの申請は取り消すことができません。それを知った上であなたは同意なさいました。だから今日を迎えたわけです」

「ええ、でも…」

「例外はございません。それでは施術を開始いたします」

 チクリと腕に痛みが走った。

 あれ、力が入らない。身体を支えられない。

 崩れ落ちる彼の身体を周りの男たちが支えた。どうやら何かを打たれたらしい。

「痛みはありません。ご安心ください」

 ニヤッと作られた笑みに寒気を覚えた。感覚のない彼の身体に鳥肌が立っていた。


         [3]


「つまり遠藤翔吾は…」

「自殺ではないかと思います」

 署に戻った謙輔たちはデスクに掛けて事件の核心を付いていた。

「それはどうしてだ」

「歩君が手紙を送った相手は遠藤翔吾ではなく、柊平君だったからです。巧妙に直されていましたし、何より平仮名にすると彼らの名前はよく似ているため気がつかなかったのだと思います。我々も、歩君も。おそらく柊平君はこの手紙をもらい動揺した結果、宛先を改竄して遠藤翔吾に送ったんでしょう。それで彼は復讐を考えたんじゃないでしょうか」

「なぜだ?」

「遠藤翔吾は歩君のことを好きだったんじゃないでしょうか。歩君は柊平君に殺されたようなものです。だから…」

「もしそうだとしてもどこが復讐なんだ?死んだのは遠藤翔吾なんだぞ」

「武内さんだったらどっちの方が衝撃が強いですか?自分が殺されるのと自分が犯人にされるのでは」

「それはわからんな、どっちも中々のものだと思うぞ」

「それでは自分が殺されるのと、身内、それもいちばん身近な例えば兄弟が無実の罪で犯人にされるのとではどうでしょうか」

「! じゃあまさか」

「憎しみの相手が一番苦しむ手段を遠藤翔吾は取ったのだと思いますよ。おそらく彼は山碕剛と名乗っているのが柊平君だと知っていたんでしょう。だから、もう一人の身内を…」

「しかし、どうやったんだ。彼が復讐の自殺をする根拠は分かったが、その方法がまだはっきりしていないじゃないか。これでは振り出しに戻っただけだ」

「大丈夫です。それもわかっていますし証拠も残っています。ただ本人たちから直に聞くことができないため、推測っぽいものなんですが。おそらくそのカギを握っているのは管理人です」

「どっちのだ?」

「僕たちが事情を聴きに言った時にいた方です」

 身を乗り出し気味に質問を繰り返してくる武内を制しつつ謙輔はいつの間にか話を聞いていた滝澤を見た。

「滝澤さん、あれは本当なんですよね?」

「ああ、君に言われて確認してみたところピッタリ一致した」

「わかりました。あの管理人さんは偽物です」

「そんなことは分かっているさ。あの後いろいろ調べたんだからな」

 謙輔は深く息を吸った。これから語ることのすべてをこの二人は知らない。

「まあ聞いて下さい。結論から言えばあの男性はその自殺の協力者であり、且つこの間線路に飛び込んで自殺した男性であり、さらに影君の手首が切れたとき診断した医者です」


「なに?」「なんだと?」

 武内と滝澤の声はほぼ同時に口を飛び出した。そうなるもの無理はない。それだけ重要な内容を一言で片づけたのだから。

 武内は眩暈に軽く目を閉じた。

「順番に説明していきますね。まず武内さんに調べてもらった部屋中の指紋で影君の指紋がいくつか見られました。その中で右手のものはポールに付着していたものと、椅子に付着しているものだけでした。つまりそれは何者かが影君の右手を使って椅子をどこかから戻したということになります。そして影君の右手の皮膚からはあの男性の指紋が検出されました。当初誰のものかわからなかったんですが、もしかしたらと思って滝澤さんにお願いしていたんです。最後に影君のカルテからその医者の名前を割り出し、彼が残したものを知人にお借りして指紋の照合をしてもらいました。これもピッタリ一致しました。以上からそう考えるわけです。どうでしょう?」

「しかし、どうして彼はそんなことを?」

「それは彼らがもういないからわかりません。しかし、彼に関する記録を見ると、彼の息子さんたちが一人は殺され、一人は脅迫にあっていたようです。それのためではないかと」

 複雑な気分だ。我が子の死を巡り一番近い存在であるはずの自分の知らないところで世界が回っていたのだ。残酷で悲しい終点を目指して。歩はどう思っているのだろう。この物語の出発点が自分だと知ればきっと悲しいのではないだろうか。

 そんなことを想いながら手帳の中に仕舞っている写真を取り出し、胸に押し当てた。


謙輔は写真を抱く武内と上に連絡する滝澤を残し、屋上へ向かった。今日は昼間から晴れていたため星が綺麗に輝いていた。空気も澄んでいるため、ここまで光の軌跡が届きそうだ。頻りにいろんな星座を見ては止めを繰り返した。どこかに彼はいるだろうか。そんなことあるはずないか、自嘲気味に軽く笑い下に戻ろうとしたときである。

「あっ!」

 一つの星が流れた。それはゆっくりペルセウス座を横切り消えた。どこかに吸い込まれるように。

 謙輔は先程とは違う笑顔を顔いっぱいに広げて天を仰いだ。涙がどこからか生まれて彼の頬を撫でるように滑り落ちて、地面に吸い込まれた。


         《4》


 身体だけじゃなく頭にも薬が回ってきたのだろうか。視界がグニャグニャと形を保てずに波打っている。今にも吐きそうだ。

「それでは始めます」

 止めろ。俺は生まれちゃいけないんだ。命なんて持つ資格なんてない。あの美しい世界に戻る資格なんてない。復讐のためとはいえ沢山の罪を犯した。人を殺した。人を騙した。人を傷つけた。何より人を人と思わなかった。目的のためには仕方がないとそうとしか思わなかった。そんな俺が生まれる資格なんてないんだ。全部思い出したんだ。だから、このままに、死んだままにさせてくれ。

「大丈夫ですよ」

 生前の記憶はないだろう。全て忘れて生まれるだろう。だが、駄目だ。また同じことするかもしれない。気がつかないうちに同じ道を歩いてしまうかもしれない。そうなったらそれは永遠に続くだろう。そんなことをしてはいけない。これ以上世界を汚しちゃいけない。汚したくない。

「すぐに済みますからね」

 俺にはもう少し時間が必要なんだ。もう少し時間があればなんとかなるかもしれない。だから俺を開放してくれ。あの世界へ今送らないでくれ。ここで、もう少しだけ居させてくれ。ここで…。

「ここだな…、よし。終わりましたよ。徐々に意識が薄れていくと思いますが、目を開ければ何も覚えてませんから大丈夫ですよ。それでは、よい旅を…」

 視界が闇に呑まれていく。駄目だ。生まれては駄目だ。生まれては駄目だ。生まれたくない。生まれたくない。生まれたくない。生まれたくない。生まれたくない。生まれたくない。生まれたくない。生まれたくな…。


「オギャア、オギャア」

「生まれましたよ。元気な男の子です」

「オギャア、オギャア、オギャア」

 彼は絶望の産声を上げ、命を与えられた。


         観察(エピローグ)


 ミルファクは〝読んでいた〟本を閉じた。握っていたペンを傍らに置く。軽いカツンという音がテーブルに響く。

 今回のあいつは記録した。檸檬色のこの本は俺のための本。感情を持ってしまった俺のための本。そしてそんな俺を戒めるための本だ。これに記録していくことが俺の贖罪だ。

 ミルファクは煙草を一本取り出し火を点けながら窓辺へ近づいた。カチャ。キュキュ。

 あいつはどこにいるだろう。どこに生まれただろう。どっちにしてももう少ししないとこっちに話しかけてくれないだろうな。

 ん?あそこの家の奴何か言ってるな。

 

…。

 ああ、そういう話は一番困るんだが。そうだな、もう少し彼氏と話し合ってみたらどうだ?きっとその方がいい。向こうも後悔してるはずだ。

 君はなんだ?

 …。

 それは俺に相談されてもな。だが、いじめに向き合うのも大事だ。そんなの経験したことないからうまくは言えないが、君は素晴らしいものを持ってるんだからそれを伸ばせよ。

 …。

 おお、君は聞こえるのか。例えば、か。その誰に対しても真正面から接することができるところとか、人見知りせず誰とでも仲良くなるところとか。大体そのいじめはグループ内でのもめごとが原因だろ。

 …。

 だったらなんとかできる。もっと自分を信じてあげるんだ。

 

大変なんだな。下は。感情を、関係を持つだけであんなにもややこしくなるのか。なんで神様は人をあんな風に創ったのだろう。だが、どちらがいいのだろう。感情や関係があってややこしいが暖かい世界と感情や関係がないが冷めきった世界。どっちも、大変か。

 ミルファクは窓辺を離れ、テーブルへ戻った。そしてそこに飾られた花を見つめた。黄色い花弁。ジニア・リネアリスだ。

 あいつは生まれ変わるあの日の朝、これを飾っていたことに気づいただろうか。気がついたとしてもあいつは知るまい。なんでこれを度々飾っていたのかを。その意味を。

 ミルファクはおもむろに花言葉辞典を開いた。

 ジニア・リネアリス。その花言葉は…、別れた友への思い。

 これを山崎濠が知ることは絶対にあり得ない。そう、前もそうだったのだから。


 別の声が聞こえた。それに吸い寄せられるかのごとく、彼は窓辺に戻った。そして誰かの要望に応え、歌い始めた。どこか切なくて、悲しくて、だけど透明な歌を。周りの星たちもそれに呼応して輝きを増して自分をアピールした。青黒い漆黒の夜空の中で。


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