パンダはおやつに入りますか?
「黒の比率が五割を超せば、おやつですね」
「え、色の比率で決まるの?」
斜め上の返答に、私は思わず足を止める。振り向くと濃紺のスーツを着た男が、不思議そうな顔で私を見つめる。
「だって黒をあんこだと仮定すると、外見の半分以上が甘いあんこでできたパンダは和菓子であり、おやつになるでしょう」
うん、言ってる意味がわからない。何その常識。その理論でいくと白い部分はおやつ以外の何かになる。じゃあその何かってなんだろう。
「白い部分が多かったら何になるの?」
「当然スイーツです。白は白あんなんですから」
ますます意味がわからない。白あんもあんこじゃないか。パンダがあんこ100%なら、もうそれは和菓子100%だし、おやつ100%だろう。
そんな私の頭の中を察したのか、スーツの男は先手を打ってきた。
「黒あんは和風のイメージが強いためお菓子になります。一方で白あんは洗練された都会的雰囲気を持つのでスイーツになります。そして、スイーツはスイーツであっておやつではありません。常識ですよ?」
だからそんな常識知らないって。私は聞いた途端、思わず「んなわけあるか!」と叫んでいた。スクランブル交差点のど真ん中。私の声が放射状にふわりと広がり街を駆ける。
男は私の叫びを気にすることなく私の隣を通過していった。
「置いていきますよ?」
「いや、置いてかないでよ」
私は男の背中に続く。私たちの進行方向にある信号機は赤く光っているが、車道には車が一台もいないため何の問題もない。なんなら、街には私と男以外誰もいない。
気がつけば一人だった。大きな総合病院のエントランスの前に、一人でぽつんと立っていた。自分が誰なのか、どうしてここにいるのかはわからない。記憶喪失というものだろう。
でも、あらゆる記憶の全てが消えているわけではない。かわいいブレザーを着ているから、コスプレでなければ私は高校生ということはわかるし、問題なく日常生活を送ることができる程度には知識やらなんやらが残っていた。
暑くはない。たぶん季節は春なんだろう。病院の前から見える街路樹は夏ほどではないけれど青々としている。病院の中を見ると電気はついているのに人はおらず、静寂を保っている。
ここで興味本位で病院に侵入すれば、私を待ち受ける展開としては二パターンあるはずだ。
一つ目、院内をくまなく探しても人が一人もいなくて「まるでSF映画みたい」と、ありきたりな台詞を言いたくなる展開。
二つ目、巨大生物とか、悪霊とか、ゾンビに遭遇。もしくは想像を絶する光景を目の当たりにして、生を諦め「ホラーやパニックジャンルだったか」と思いながら膝から崩れ落ち、そして絶命。
「どっちも嫌だな……」
大きな独り言を言ってから、私は病院を後にした。待ち受ける現実に直面するのは時間の問題だろうけど、少しぐらい泳がせて欲しいと思った。
信号は動いている。青信号を知らせる音が道路に響くのに、横断歩道を渡る歩行者の姿はどこにもなく、信号待ちをする自動車もいない。
道路に面するコンビニに自動ドアから中に入る。揚げ物含め、売り物はきちんと揃っているのに私の他に客はいないし、店内のどこにも店員がいない。
喉が渇いたので、私は冷蔵庫からペットボトルのスポーツドリンクを一本取り出し、レジに向かう。
「すみません、誰かいませんかー?」
念のため呼びかけてみる。呼びかけてからしばらく待ったけど、誰も出てこないし何の反応もない。お財布もお金も携帯もなく、クレジットカードなんてもちろん持っていない私。
「すみませーん、これいただきますねー」
誰もいなくても口に出さずにはいられなかった。呼びかけてみて十秒ほどまた様子を見る。そして、何の反応もないことを確かめてから、私はペットボトルの口を開けた。
「この世界には君と私しかいない」
時と場所によっては……あ、あと言う人によっては胸がときめく台詞だけど、私の心は全くときめかなかった。もう1mmも。
誰もいない街を一人で過ごして一週間ぐらいが経った。幸いなことにホテルがタダで使えたので、お風呂にも寝る場所にも困らずに過ごしている。もちろんホテルには私しかいない。
どういう原理かわからないけど、水道も電気もガスも動いているので今のところ食べ物には困らない。食べ物については今後考えなければいけない気がしているけれど、まだ気づいていないふりをして、一日中ベッドの上でごろごろとしていた。現実からは背けられるだけ目を背けていたいと思っていた。
蓋をしても漏れ出てくる不安な未来を抱えつつ、スローでレイジィーでフリーな生活を、数えていないけどさらに何日か過ごしたある日。コンビニに向かって歩いているとコンビニの前に男の姿が見えた。
男はこちらに気がつくと、驚くこともなく「ああ、やっと見つけた」と言った。華奢じゃないけど、すらりと無駄な肉がなく背の高い男。白シャツにスーツ、それから髭がなくメガネをかけていることもあって『ザ 清潔感』という印象を受けた。
不信感を持たなかった私は、男から逃げる必要性を感じなかった。そろそろ現実を見ないといけないとも思っていたので、男がこの状況について何か知っているかもしれないという期待を胸に、男と話してみることにした。
その結果、『桃太郎』と名乗るその男から、この世界がホラーやパニック映画の世界ではなく、SF映画のような世界であることを告げられた。
「どうして私たちしかいないってわかるんですか?」
「おいくつですか?」
「どこから来たんですか?」
「どれぐらいの期間一人なんですか?」
「どうしてスーツなんですか?」
「そのメガネは伊達メガネですか?」
「たい焼きを食べるなら頭からですか?」
「これからどこに行くんですか?」
「桃太郎は本名ですか?」
気になることがたくさんある。でもそれ以上に人に話しかける感覚が楽しくて、どんどん口から質問が飛び出していく。申し訳ない気持ちが少ししたけれど、私は流れていく質問たちを止めることができなかった。
「壊れたラジオでもここまでうるさくねぇぞ」
男の口から見た目からは考えられない暴言が出た。表情から嫌悪感も読み取れる。もちろんそれは私に対するものだ。「ごめんなさい」と素直に謝ろうとしたが、私が口を開く前に男が話し始める。
「この世界にいる人間が君と私だけなのは教えてもらったから知っています。最初は疑っていたけど、半年探し回って出会った人間は君だけです」
「年齢は自分でもわかりません。ごまかしとかではなく、記憶がないんです」
「ここよりずっと北の街から歩いてきました。南に進めば君に会えると教えてもらったので」
「一人の期間は半年ほどです」
「スーツを着ている理由は特にありません。なんとなくこれが一番落ち着くからです」
「メガネは伊達じゃありません」
「たい焼きを食べるなら頭から。尻尾は最後に残しておきたい派です」
「これから行く所は決めていません」
「桃太郎は偽名です。偽名というより本名を覚えていないんです。なので、もし私のことを呼ぶなら桃太郎と呼んで欲しいです」
一気に質問に対する返答が来て、私はすごく嬉しくなった。人と会話をするってこんなに楽しいんだ。独り言と違って相手の反応があることが新鮮で心躍った。
「じゃあ!」
「ストップ」
私がさらにたくさん質問を投げようとしたら、桃太郎が勢いよく右手の手のひらをこちらに突き出した。
「質問が多いですよ。そうですね、今日は後一つにしてください」
「そんな、まだまだ聞きたいことがたくさんあるのに……」
私が口を尖らせても、桃太郎は「異議申し立ては受け付けません」と、きっぱり言い切った。
「えーっと、じゃあ、どうして呼ばれるなら桃太郎がいいんですか?」
桃太郎、日本の有名な昔話だけど、それを自分の名前として名乗る理由が聞きたかった。
「トマトです」
「トマト?」
「そう、好きなトマトの品種が桃太郎だった記憶が残っているんです。だから、もし人に名乗るなら桃太郎だと決めていました。ただそれだけです」
昔話は関係なかったのか。私は「そうなんですね」としか言えなかった。
「では、私からも質問させていただいてもいいですか?」
そうか! 私が質問できなくても質問してもらうことはできるのか! 私は嬉しくなって「いくつでもどうぞ!」と胸を張る。しかし、桃太郎は「二つで結構です」と即答した。私は少なさにがっかりした。
「一つ目、もしよければ一緒に行動しませんか? 一人でも生きてはいけますが、退屈すぎて死にそうなんです。誰でもいいから会話相手が欲しいと思っていまして」
なんだそんなことか。私も時間を持て余していたので、即座に「是非!」と答えた。男は一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐ真顔で眉間に皺を寄せながら、「頻繁に質問攻めをするのはなしですよ」と言った。くそう、先に釘を打たれた。
「二つ目、なんてお呼びすればいいですか? よかったらお名前を教えてください」
名前……私の名前。私は桃太郎に自分も記憶がないことを説明した。そして、二分ほど考えた結果「アイコ。アイコって呼んでください」と答えた。
「アイコ。どうしてアイコなんです?」
三つ目の質問が来て嬉しくなった私は笑顔で理由を教えてあげた。
「私が好きなミニトマトの品種がアイコだからです!」
桃太郎は「なんですかその理由」と鼻で笑った。笑える立場じゃないくせに。
桃太郎と行動をするようになって、おそらく百日は経過している。正確な日数は数えていないからわからないけど。
私たちは特に何をすることもなく、ただただ毎日だらだらと時間を過ごしながら、ふらふらと旅を続けた。幸いなことに相変わらず水と電気とガスは生きていて、食べ物もコンビニやスーパー、ドラッグストアで賄いつつ、たまに釣りなんかに勤しみながら生活していた。釣り道具はもちろん釣り道具店から拝借した。
そういえば季節が春から夏へ移る気配はなく、過ごしやすい気候が続いている。
退屈とは恐ろしいもので一人の時よりも二人の方が潰しやすいが、二人でも退屈になることはままあった。そんな時、いつの頃からか私は出鱈目な質問を桃太郎に投げるようになった。
「腕力で海を真っ二つに破るには、毎日腕立てを何回すればいいか」
「太陽系に新しい惑星を増やすならどんな星を増やすべきか」
「夏の大三角と冬の大三角はどちらの方が強いか」
「数学でよく出てくる動く点Pが、もし謀反を起こしたら、数学教師が討伐に向かわせる点はアルファベットの誰か?」
荒唐無稽な質問だと思う。でも、桃太郎は毎回真剣に答えてくれる。どんな質問も真面目な口調で説明してくれるので、桃太郎の思いつきや単なる妄想ではなく、それが本当の答えのような気さえしてくる。
そして、今日のテーマが「パンダはおやつに入るか?」だった。因みに点Pの反乱を鎮圧するのは点Dだった。理由はもう覚えていない。
「パンダがおやつになるかどうか、確かめに行きませんか?」
「え、どこに?」
確認する方法があるとは思えなかった。
「本人に聞きに行くんですよ」
「本人?」
本人に聞きに行くって一体誰に聞くつもりなんだろう? 私は意味がわからないまま「行きます」と答えた。
「では早速。この辺り、前に来たことがあるので知見があるんです。確かあちらの辺りにいらっしゃったはず……」
桃太郎はそう言って、人の気配がない昼間の居酒屋街に向かって歩き出した。
「ここです」
「ここ……ですか?」
居酒屋街を進んで、裏路地に入ったところにある、焼肉店『全力ホルモン』。その横にある地下へと繋がる階段の壁には『BAR Bamboo』と書かれた看板と、小さな『Open』と書かれた下げ看板があった。
「行きましょう」
スタスタと階段を降りていく桃太郎の背中を見ながら足がすくむ。「来ないんですか?」、桃太郎の呼びかけにハッとなり、私は怯みながらも後を追った。
階段を下り切ると暗くて狭いスペースに一つ扉があった。桃太郎がその重たそうな鉄扉を開けると、カランコロンというベルの音とともに、ひんやりとした空気が外に流れてきた。
「いらっしゃい」
乾燥した藁束のような、かさかさの男の声が店の中から響く。あれ? 声? どうして? 私は驚き戸惑い、慌てて桃太郎を見る。桃太郎は気にする様子もなく、「どうも」と言った。桃太郎の視線の先を追う、そして私は自分の目を疑った。バーカウンターの向こうに立つのは、すくりと立った大きなパンダだった。
がらんとしたカウンターの前に並ぶハイチェア。その真ん中の二脚に桃太郎と並んで座ると、桃太郎は「照葉樹林のお湯割一つ。それからこの子にはオレンジジュースを」と、注文した。
「あいよ」
パンダは軽く頭を下げて準備に取り掛かった。
飲み物を出してもらい、二人とも半分ほど飲み終えた頃、桃太郎が口を開く。
「マスター、パンダはおやつに入りますか?」
「おやつ? おやつって遠足に持っていくあのおやつのことか?」
大きなパンダが訝しげに桃太郎を見る。カウンターを挟んでいても、近くにいるとかなり圧を感じる。パンダとこの物理的な距離は危険だし、パンダ自身に聞くのは失礼過ぎる気がする。
桃太郎は一口照葉樹林を飲んでから、「そう、そのおやつです」と言った。桃太郎を見るパンダの鋭い眼光に、私は命の危険を感じ、生きて店を出ることすら諦めた。なんだよ、喋るパンダはSFの世界だけど、これ絶対パニックかスプラッター展開だろ。
「おやつだな」
パンダは太い腕をむんずと組んで言い切った。そして「うんうん」と自分の返答に納得しながら頷いている。スプラッターどころかほのぼのした光景に目を疑う。
「おやつなの!?」
私は思わず大きな声をあげてしまった。なのに桃太郎もパンダも驚く様子はなく、桃太郎は落ち着いた表情で「そうでしたか」と呟いた。
「理由を伺っても?」
桃太郎はまた一口照葉樹林を飲んでからパンダに尋ねた。パンダからの答えが気になり、私もパンダを見る。
「サクサクパンダってお菓子があるのを知ってるか?」
ふっふっふっと誇らしげに言うパンダ。そのお菓子なら私も知ってる。コンビニにあるし何度も食べたこともある。パンダ型のチョコビスケットで一つ一つが小ぶりで食べやすく、味も美味しい。
「あれ、うまいんだよな。あれを超えるパンダをおれは見たことがない。だから、パンダはおやつ枠だな」
「なるほど、サクサクパンダがありましたね。それは盲点でした。教えてくださりありがとうございます。お礼によかったらマスターも一杯飲んでください」
パンダは「悪いな。じゃあおれはこれにしようかな……」と言って、慣れた手つきでカクテルを作っていく。
「それ、なんですか?」
気になって聞いてみた。
「カルーア・ミルクだ。少し飲んでみるか?」
パンダは私が返事をする前に私の分も少し作ってくれた。背の低いグラスに入った液体の見た目はコーヒー牛乳だった。ほのかにコーヒーの香りがするカクテルに、そっと口をつけてみる。ああ、これは……大人向けのコーヒー牛乳だと思った。
パンダのバーを出て、一つの疑問が生まれた。
「ねえ、どうしてここにパンダがいるって知ってたの?」
滞在しているホテルに向かう帰り道、前を歩く桃太郎に聞く。
「さっき言いませんでしたっけ? 前に一度このあたりに来たことがあって、その時にマスターにお会いしたんですよ」
「他にもマスターみたいな動物はいるの?」
もしいるなら会ってみたい。
「いますよ。私にアイコのことを教えてくれたのはドーベルマンですから」
「え? ドーベルマン? 犬?」
戸惑う私を他所に「犬以外のドーベルマンなんていますか? さ、帰りますよ」と言って桃太郎は再び歩き始める。
「ちょっと待ってよ。その話詳しく!」
「また別の機会に。今日は話し疲れました」
「そんな!」
人気のない居酒屋街に私の声が響く。
「国語の長文問題に出てくる『この時の作者の感情を述べよ』の模範解答に対して、作者本人が『私はそんなふうに考えていませんでした』と反論した時、もし勝敗をチェスで決めることになったら勝つのはどっち?」
今日も私たちは歩いている。とうに夏が来てもおかしくない頃なのに、相変わらず外は涼しく過ごしやすい。
「ほう、これは難しい問題ですね」
私の要望により、私たちはドーベルマンがいるという海沿いの小さな街へ向かっている。どうしてドーベルマンが私のいる場所を知っていたのか聞いてみたくなったのだ。
「やっぱり作者が強いの?」
「いや、作者がチェスに強いかどうかは人によります。それに問題作成者がチェスの世界ランカーということもありますので……」
桃太郎が歯切れ悪く押し黙る。流石にこれは難問だったかと思ったが、すぐに桃太郎が「私では曖昧な回答しかできないため、専門家に話を聞きに行きましょう」と言った。
この問題に関する専門家ってどんな専門家なんだろう? 「誰に聞きにいくの?」と私が尋ねると、桃太郎は「王将です」と言った。
「王将?」
「はい、将棋界のキングですね。王と玉なら玉の方です」
私の前を「ほら、行きますよ」と、桃太郎がずんずん歩いていく。「あそこの中華は美味しいそうなので、今日のお昼にしましょう」
「待って、今から行くのは中華料理店なの? 私餃子が食べたい!」
今日も相変わらずSFの世界だし、桃太郎には振り回されてばかりだけど、そこそこ楽しい日々を送ることができでいる。
一瞬立ち止まってから「餃子、いいですね。私はビールもいただくとしましょう」と、独りごつ桃太郎の背中を私は急いで追いかけた。
夏はまだまだ始まりそうにない。