第4話(2)
十和子は将臣が冗談を言っているのではと思ったが、彼の目は真剣だった。
ついさっき「おめでとう」と言っていた口から出てきた言葉とは思えず、狼狽えてしまう。
「遺言って……お祖母様はまだ亡くなったわけじゃないでしょう?」
「時間の問題だ。余命宣告も受けている」
「そんなに悪いの…?」
「病院のベッドに寝たきりだ。見舞いに行く度に『将臣の後ができるまでは死なん!』と言って強がっている。医者からはいつ心臓が止まってもおかしくないと言われている。すごい執念だよ」
「そうだったの…」
十和子は驚き、相槌を打つ以外に何と返せば良いのかわからなかった。
疎遠にしている間にあのパワフルな祖母が病に冒され、死に近づいている程だとは想像もしていなかった。
将臣がこうして教えてくれなければ、生きている間に再び顔を合わせる機会は訪れなかっただろう。
「知らなくて…連絡もしなくてごめんなさい」
「それはお互い様だろう。お祖母様がいよいよ死にそうだからその前に十和子に会わせてやろうと思って来たんだ。調べたら子どももいるんで驚いた。名前は?」
「寿真っていうの。漢字は寿に真実の真」
「そうか…いい名前だな」
将臣は口元を緩ませ、十和子の胸で眠る寿真の寝顔を見つめて目を細めた。
それは一瞬の変化だったが、普段の冷めた印象とは真逆の穏やかな表情のギャップに十和子はなぜかドキリとしてしまう。
「寿真は安曇家の正式な跡取りだ。俺は養子で血が繋がっていないからな。お祖母様は安曇の血が途絶えるのを懸念していた。血統にうるさい人だから」
淡々と話す将臣の言い分は理解できなくはなかった。
だが母親である十和子や寿真本人の意思を無視したような一方的な物言いにむっとしてしまう。
「…そうだとしても、勝手に決めないで。寿真はまだ赤ちゃんだし、将来のことは自分で決めさせたい」
素直な感情をぶつけると、将臣は狐につままれたような顔をした。
その反応を見た十和子ははっとして表情を強張らせる。
綾史の前では小さな不満でも飲み込んでしまい、どうしたら気を悪くさせずに本心を伝えられるかと悶々と考えるうちに、結局伝えられずに終わることが多かった。
それなのに何故か将臣にはストレートに正直な気持ちをぶつけられた。
将臣がどんな反応をするか気になったが、十和子が懸念したようなことにはならなかった。
「わかってる」と頷いて、十和子の意思をあっさりと受け入れた。
「言い方が悪かったな。俺もそうなればいいと思ってはいるが、無理強いしたいわけじゃない。ただお祖母様の前ではそういう話にしておきたいんだ」
「あ…」
十和子は将臣のしようとしていることにようやく察しがついた。
将臣は余命僅かのお祖母様に寿真を後継者だと紹介し、安心させようと思っているのだろう。
「そういうことなら、わかったわ。お祖母様に寿真を跡取りだと紹介したいから、私は離婚して将臣くんと再婚することになったって伝えるのね?」
「いや、それは本心だ」
「? どういうこと?」
「俺は後継者のこととは関係なく、本気で十和子と結婚したいと思っている」
「えっ?」
十和子は耳を疑って聞き返した。
てっきり肯定してくると思っていた予想が覆された上に、もう一度プロポーズされてしまって情報処理が追いつかない。
正面にある将臣の目は相変わらず真剣そのものだ。
彼と過ごした10年前の僅かな時間を思い返しても、友達と言えるほどの仲にもなれなかったし、異性としていい雰囲気になったこともなければ、もちろん愛の告白をされたこともない。
そんな相手と結婚しようとする彼の意図が、後継者の血筋や祖母のためでないならばいったい何なのか、十和子には全くわからなかった。
「ええと…それはどういう…」
「悪いが内密に調べさせてもらった」
困惑している十和子に、将臣は大判の茶封筒を差し出して彼女の疑問に答えた。
当惑しながらも封筒を開けると、十和子の手が震えた。
中に入っていたのは複数枚の書類と写真だった。
写真に収められていたのは見覚えのありすぎる男女―――綾史と美舞だった。
それは本人達に知られずに隠れたところから撮られたもので、まさしく然るべきところが"調べる"ために撮った写真だった。
「十和子。もう一度言う。あの男とは離婚しろ。あいつはお前を裏切って、他の女性と不倫している」
「……」
十和子は写真をじっと見つめた。
違うと否定したい気持ちはあるものの、彼女自身も2人のことは疑っていたし、こうして―――単に友達とは言い難い様子で体を寄せ合う姿や、手を繋いで彼女の自宅やホテルなどに入っていく姿などの決定的な証拠写真が目の前にあっては、受け入れざるを得なかった。
「…ふたりは小学生の頃からの友達なの。彼と付き合ってるときに、仲の良い友達だって紹介されて」
「……」
「そうなんだって思ってた。友達だって紹介するんだから、ただの友達なんだろうって…。だって後ろめたい関係なら、わざわざ友達だって紹介したりしないでしょ? 疑われたくないから普通は隠しておきたいと思うじゃない。私がいくら鈍感でも、女友達がいるって知ったらやっぱり気になるもの。不倫はいつからだったんだろう…写真の日付が最近だから、寿真が生まれてからそうなったのかな」
「…最近のことじゃない」
「……最近のことじゃない?」
「信じられないかも知れないが…、このふたりの関係はお前と結婚する前からだ」
「……」
狼狽していつもより饒舌になっていた十和子に追い打ちをかけるように、将臣は書類の1枚を指差した。
そこには興信所が入念に調査した綾史と美舞との関係が、時系列で記載されていた。
最初の日付は、十和子がまだ妊娠する前―――綾史と付き合っていた頃だった。
「お前の夫は、この女性と…お前が妊娠している間も、出産してからも、今も、不倫関係を続けている。そんな男と夫婦生活を送っても、幸せにはなれない。正直なところ今も幸せじゃないだろ?」
「……っ、」
不幸せだと決めつけるような言い方が気に障り、十和子は思わず反論しようと顔を上げた。
だが将臣の顔を見た途端、一気に膨れ上がった攻撃的な気持ちは、穴の開いた風船のように萎んでしまった。
表情は無に等しいのに、十和子を映すそのふたつの瞳からは、不思議と感情が読み取れた。
十和子に対する労りと憐憫。
彼女の頭の中にこれまでの結婚生活の記憶が思い起こされる。
付き合っている間は話題にもならなかった結婚。
綾史に妊娠を伝えた時、驚きながらも結婚しようと言ってくれたことは嬉しかった。
だが今振り返ってみれば、それは彼自身が心から望んだことではなかったのかも知れない。
思いの外大変な妊娠期間中も、仕事だから仕方がないとはわかってはいても、彼が帰ってくるまで何度も時計を見ては心細い思いをしていた。
寿真がぶじに生まれて幸せを感じてはいたが、産後ろくに休むこともできずに育児に追われて、ふたりで過ごす時間はほとんどなくなっていた。
彼のためにと体に鞭打って家事も頑張ったが、毎日へとへとに疲れて、わけもなく泣いたこともあった。
幸せじゃないという将臣の言葉は、十和子の心の奥深くを貫いた。
十和子は綾史と結婚して幸せだと思っていた。
しかし正確には、幸せだと思いたくて、自分自身にそう言い聞かせていただけだった。
実際には幸福感よりも、不安や不満の方が多い生活だった―――。
気がついてしまった現実に肩を落とし、俯いた十和子に柔らかい声が降って来る。
「十和子は知っていたんだな。夫が他の女性と親密な関係になっているって」
「うん…。確信は…なかったんだけど…」
「…そうか。苦労したな、十和子」
「え…」
「つらかっただろう。今までよく頑張った」
思いがけない慰めの言葉が、十和子の胸にじんわりと染み込んでいく。
こうして誰かに励まされたのは、父親が亡くなってからはほとんどなかったように思う。
綾史は言葉では気遣ってくれるものの、行動が伴わなかった。
家事も育児も十和子にほぼ丸投げ状態で、疲労とストレスで身体的にも精神的にも限界が近くなっていた。
将臣がそこまで見抜いていたのかはわからないが、十和子の視界は熱い涙で滲みはじめた。
「これからは何も心配いらない。俺になんでも頼ってくれ。家には奈津子さん…覚えてるか?昔からお祖母様の家で住み込みのお手伝いをしてくれている方だ。彼女に家事全般を任せているから、十和子は自分の体と子どものことだけ考えていれればいい。子育てもこれからは彼女と、俺は仕事があるからできることは少ないだろうが、3人でやっていこう」
泣いて答えられない十和子の前に、恐らく奈津子さんがアイロンをかけたであろう綺麗なハンカチが差し出される。
「明日はお祖母様に会ってもらうが、それ以降は何も気にせずゆっくりするといい。後のことは任せておけ」
十和子は言葉を返すことも、頷くこともできなかったが、将臣の厚意を断ろうとは思わなかった。
将臣に夫の不倫を突き付けられ、追い詰められたことも涙が止まらない原因の一つではあったが、何よりも夫を庇うどころかその事実を易々と受け入れてしまえた自分自身が虚しく、気持ちのやり場がなくなってしまった。
これからどうすれば良いのかという不安感。
でも将臣がいるならと思える安心感。
久しぶりに会った彼をそこまで信頼してしまう感情への疑念。
色々な想いがごちゃ混ぜになって、十和子はその夜、熱を出して寝込んだ。
大変遅くなりました。続きを待っていてくださってありがとうございます。
育児の片手間に書いたので見直しができていません。
誤字脱字、矛盾、修正点あればのちほど直します。