第9話(4)
多少の不安はあったものの、綾史は十和子の弱点を握った気になって慢心していた。
そうしておよそ1時間後、裁判所を出た彼の表情は一変していた。
十和子の代理人で出席した有岡弁護士が、不倫に関する新たな証拠を提出したのだ。
それに対して綾史側はろくに反論もできず、ただ「妻との関係修復を強く望んでいる」こと、「息子には父親が必要」だという主張を述べただけで、口頭弁論は終了した。
(なんなんだよあれは…!あんなの見せられたら否定なんてできない…!)
裁判所近くの喫茶店。
その場で判決は出なかったとはいえ、惨敗した綾史の頭の中は混乱していた。
美舞が十和子と取引をして渡した証拠ならいくらでも否定できた。
彼女達が結託して作り上げた偽の証拠だと主張すれば良かった。
しかし有岡が持ってきたものは、全く想定外の内容だった。
綾史が妻以外の女性と不倫関係にあったことが明白で、「記憶にない」「人違いだ」としか言い逃れる方法がなかった。
顔面蒼白の綾史と向かい合って座った持木弁護士は、いつもの淡々とした調子で湯気の立つコーヒーを啜った。
優雅な仕草でカップをソーサーに戻した彼は、敗訴が確定したも同然の依頼人に爆弾を投下した。
「想定通りの結果でしたね」
「は…?」
「まあでも、下司さんにとっては良かったのではないかと思いますよ」
自分の味方であるはずの弁護士から信じられない言葉が飛び出し、綾史は思わず聞き返した。
「良かった…?なにが?」
「下司さん。一度深呼吸をして、第三者として考えてみてください。家庭内での話し合いで収まらずに、裁判をしてまで離婚したいと思っている相手と復縁したとして、その後の生活はどんなものになると思いますか?ご結婚当初のような、仲睦まじい関係でいられると…本気で思ってはいませんよね」
「……」
「仮に奥様が私達の主張を受け入れて、訴訟を取り下げたとしましょう。勝訴ではありませんが、下司さんの望んだ結果になると言えます。ご自宅のマンションで、再び家族3人で生活することができますから。
ですが奥様は下司さんの不貞を許したわけではないので、当然風当たりは強いです。何度も話を蒸し返されて、責め立てられるかも知れません。奥様の冷たい態度に嫌気が差すこともあるでしょう。ですが下司さんはそれを全て甘んじて受け止めなければなりません。奥様が許してくれるまで、何年も、何十年と、もしかすると死ぬ時まで、『自業自得だから仕方がない』と、腹を立てることもせず受け入れ続けるんです。できますか?」
「……」
「私ならできませんね」
持木はきっぱりとした口調で言い切った。
言われた通りに想像するとぞっとするような生活が待ち受けているが、相手はあの十和子だ。
慎ましやかな彼女が感情的に当たり散らしたり、ぐちぐちと小言を言う姿が思い浮かばない。
だからこそあの穏やかな日常に戻りたいし、小さな寿真は自分の過ちなど知らないし、父親としてずっと慕ってくれるだろう。
そんな生活を夢見て持木に裁判を託したのに、裏切られた気持ちになった。
「それならなんで俺の弁護人を請け負ったんだよ!勝てると思ったからじゃないのか?!」
「私は一度も『裁判に勝てる』とは言っていません。思ってもいないことは言えない性格ですので」
「だったらなんで…!」
「下司さんが私に『裁判の弁護を依頼する』と言ったからです。私は弁護士として下司さんと契約を結び、仕事を受けたまでです」
当初は好感を持っていた彼の淡々とした物言いが、今は綾史をひどく苛つかせた。
「だとしても、仕事を受けたからには真面目にやれよ!勝敗が出世に影響することだってあるだろ!もっとその弁護士バッジにプライドを持って、勝つ努力をしろよ!」
「…ご理解いただけないと思いますが、私は最善を尽くしました。裁判に勝つ為ではなく、下司さんに請求されるであろう慰謝料の減額に、です」
「…!」
「どんなに優秀な弁護士でも、どれほど綿密に準備をしても、裁判に負けることはあります。無敗の弁護士なんて、マンガやドラマの世界だけで現実にはあり得ません。ですから勝敗が出世に影響することもありません。
お約束の費用は後程請求させていただきます。本日はお疲れさまでした」
持木は伝票を持って立ち上がり、冷ややかな視線を向けて去っていった。
一方、有岡弁護士はすっきりした表情で電話をしていた。
「お前のおかげで上手くいったよ」
有岡の電話の相手は、「そうか」と短く返しながらも嬉しそうに口元を緩ませた。
彼が提出した証拠は、将臣が独自に入手したものだった。
綾史と美舞が数十か所のラブホテル内の廊下を腕を組んで歩き、エレベーターで目を背けたくなるような行為をしている動画の切り抜き。
出張と称して不在だった日に2名1室で宿泊した場所の記録と、実際に宿泊者として過ごしている様子を捉えた画像。
商業施設などの駐車場内に設置された監視カメラに収まっていた車両と、車内で性行為をしていると思しき画像や音声。
その日時は半年前のものから、数年前のものまであった。
将臣はこの決定的な証拠を見た十和子がショックを受けるだろうと、彼女には秘密にしていた。
「まさか密会場所が安曇グループの系列店で、十和子さんが安曇家のご令嬢だったなんて、最後まで知らずに終わるんだろうね」
「…彼らには元々縁のないことだ」
「そういえば、あちら側がお前と十和子さんの不貞をでっちあげようとしていたから返り討ちにしたよ。滞在していたのは祖父母の家で、住み込みのお手伝いさんもいたと、証拠を突き付けたら黙ってしまってね。もう少し粘ってくれたら手応えもあったんだが」
電話の向こうで苦笑する有岡の様子が目に浮かんで、将臣もふっと乾いた笑みをこぼした。
これで十和子の希望通り、離婚は成立するだろう。
有岡との電話を終えた彼は、そのまま着信履歴を開き、十和子に電話をかけた。
今頃自宅でやきもきしているであろう彼女を早く安心させたかった。




