第9話(2)
美舞は完全に開き直り、挑発するように腕と脚を組んだ。
彼女の不遜な態度に内心たじろいだ綾史だったが、一瞬でも怯んだことを悟られたくなくて負けじと反論する。
「だけどお前がああ言ったことで十和子が誤解して、話し合いにすらならなかったんだろ!おかげで裁判までする羽目になった!」
「誤解ってなに?事実でしょ?私達が不倫してるのは」
興奮気味の綾史とは対照的に、美舞は冷静に応えた。
「綾史さ…今更なに言ってんの?最初に誘ったのは綾史からだったよね?『十和に飽きた、十和を抱きたいと思えないから私と寝たい』って。これまで続いてきたのだって、『十和と比べて美舞は性格もカラダも相性良い』からなんじゃなかったの?」
その口調はどこか嘲りを含んでいた。
「それに、離婚の何が怖いの?あっちが離婚したいって言ってるんだから、すればいいじゃん」
「あのな…俺はそもそも十和と離婚したいなんて一度も思ったことないんだよ。俺から誘ったって言うけど、始まりなんて曖昧だろ。お互い酔ってたんだから!」
「え、なんで離婚したくないの?一緒にいてもつまんないのに? 綾史言ってたじゃん。私と礼良といる方が楽しいって。ずっと3人でいられたらいいのにって」
「それは結婚する前の話だろ? 十和と離婚してお前と再婚とか、考えたこともねーよ」
「そんなわけないでしょ。帰り際に毎回『離れ難い』って言って、適当に理由つけては家に泊まりたがってたじゃん。忘れたの?」
「お前こそなに本気にしてんだよ。そんなのその場のノリで言っただけだろ?いちいち真に受けんなよ」
「……は?」
「お前と遊んでいられたのは十和と上手くやれてるって前提があったからだ。とにかく俺は離婚したくないし、裁判にも絶対ぇ負けたくない」
(なんなのよそれ…遊びだったのは十和子でしょ?妊娠したから仕方なく籍入れた癖に! 私が本命じゃないとか、ありえないんだけど?)
美舞は苛立ちから本音が喉元まで上がってきていたが、かろうじて口に出すことは堪えた。
だがその表情は先ほどの余裕綽々な様子からは打って変わって、瞳孔は開き、眦は吊り上がっていた。
「悪いけどお前はもう家に帰れ。裁判が終わるまではお前と連絡もしないし家にも行かない。お前も来るなよ? 今までみたいに頻繁に会ってたら不利になるからな」
「ちょっと待って。それじゃあその間礼良はどうするの?何かあったら頼れって言ったのは綾史でしょ?礼良に何かあったらどうしてくれるわけ?」
「礼良はお前の子どもだろ。自分でどうにかしろよ」
「なにそれ。礼良がどうなろうが俺には関係ないってこと?」
「実際そうだろ。俺の子どもじゃないんだから。離婚になるかも知れないって時に、礼良のことまで気にかけていられねーよ。母親のお前が責任持って育てろ」
綾史の言い分は正論ではあったが、美舞にとっては自分勝手な言い分にすぎず、裏切りに近い感情を抱いた。
「…あっそ。いいよ、綾史がそういう態度なら私にも考えがあるから。十和子さんに私達のこと全部バラすね。今まで撮った写真も、綾史からのメールも全部見せるから」
「はあ?!お前何考えてんだよ!そんなことしたら裁判に負けて、お前だって慰謝料請求されるんだぞ?」
「どうせバレてるんだから勝てっこないでしょ。それなら割り切って取引するわ。協力する代わりに私には慰謝料は請求しないでって」
「汚え奴…!」
罵ることはできても咄嗟に彼女を止める手立てが思い浮かばず、綾史は歯を軋ませた。
そんな彼の顔を見て僅かに溜飲を下げた美舞は、にこやかな笑みを浮かべながら立ち上がった。
「それじゃ、私帰るね。離婚裁判、勝てないだろうけど和解に持ち込めたらいいね。せいぜい頑張って」
美舞はこの男が何をすれば喜ぶか、どうすれば傷つくのかを知り尽くしていた。
プライドの高い彼はこんな子どものような挑発にも目くじらを立て、怒り狂うに違いない。
彼女は予想通りの反応をした綾史に満足して、迷いのない足取りでマンションを後にした。
(どんなに突き放したって、裁判が終われば泣きついてくるに決まってる。意地を張ってるだけで、綾史は寂しがりでどうせ一人じゃいられない。それに綾史が愛してるのは私だから。今はあの女に出し抜かれたのが許せなくて、勘違いしているだけよ)
美舞は自分の推測に確信を持っていた。
綾史の幼馴染である自分は、彼のことを誰よりも理解しているという自信があった。
だからこその態度だったのだが、それは半分正解でもあり、不正解でもあった。
彼は彼女が思うほど、純粋な男ではなかった。
美舞が去った後、綾史は深く長い溜息を吐いた。
(なんで俺、遊び相手に美舞を選んじまったんだろ…。あんな面倒な女だってわかってたら、手なんて出さなかった…)
今更になって後悔し始めた彼は、妻を裏切ったことよりも、相手を間違えたことを悔やんでいた。
当事者の癖に無関係と言わんばかりの美舞の態度を思い返し、苛立ちを顕に冷蔵庫から取り出した酒の缶を開けた。
半分以上を一息に飲み干すと、いよいよ心に留めておけなくなった悪態を独り言ちた。
「ハッ…なんで俺がお前相手に本気になると思うんだ?思い上がりも甚だしいだろ!
妻子持ちの上司と10年も不倫して略奪婚した挙句、半年で離婚したどうしようもない奴の癖して…」
はたと思い当たり、綾史は口を閉じた。
彼女にとって不倫は倫理に反しない。
当時彼女は言っていた。
『奪われる方が悪いのよ』、と。
(そうか…あいつにとっては俺が十和子と離婚しようが、寿真と離れ離れになろうが、痛くも痒くもないもんな。自分の人生じゃないし、面倒事に巻き込まれない自信もあったんだろうな…)
数年前まで彼女が不倫していた時、当時の不倫相手の妻は最後まで美舞と礼良の存在を知らずに離婚したらしかった。
自分の存在を隠し通しながら子どもを出産し、不倫相手の心を巧みに操って離婚に持ち込ませ、慰謝料を請求されることもなく結婚した。
その話を聞いた時、笑って済ませるのではなく警戒するべきだった。
次の標的は自分になるかも知れない、と――。
自分が被害者になって初めて、綾史は美舞の本性に気がついた。
彼女は自分が思うより遥かに計算高く、狡猾で、自己愛の強い女性であったことを思い知ったのだった。




