第8話(4)
複数枚の証拠写真を突き付けられた綾史は、慌てふためくだろうという十和子の予想に反して冷静だった。
じっと写真を見つめながら何やら思案している様子で、隣にいた美舞も口を閉ざしたまま彼の反応を伺っている。
しばしの沈黙の後、綾史の第一声は、十和子を責めるような言葉だった。
「…探偵に頼んでいたとは思わなかったよ。知らないところで隠れてコソコソ写真を撮られてたなんて不愉快だ。こんな面倒なことをする前に、俺に直接聞けばよかっただろ?」
綾史は完全に開き直り、自信たっぷりに話した。
「確かに美舞とふたりで食事に行ったことはあるし、お前がいない間に家に泊まらせてたのも事実だよ。だけどここには礼良も一緒にいた。意図的に二人っきりの状況をでっちあげられている。だからお前が想像してるようなことは何もない」
十和子は真剣な目で綾史を見つめていたが、彼が動じる様子はなかった。
「もう一回、よーく写真を見てみろよ。どれもこれも、ただ二人で行動してたってだけだろ? このホテルの写真だって、ただふざけてただけだ。実際には入ってない。これだけじゃ不倫の証拠としては弱いんじゃないのか?」
「…そうかも知れないね」
綾史の指摘は一理あり、認めざるを得なかった。
だから十和子は一旦彼の言い分を受け止めた。
そんな彼女の反応に、綾史は(勝った…!)と言いたげに僅かに口元を緩ませた。
しかしここで引き下がる十和子ではなかった。
「不倫の証拠としては弱い。それは認める。でも、あなたの言い分が仮に事実でも、私はもうあなたを信じられないの」
決然とした語調で伝えると、綾史の頬が引きつったように見えた。
「美舞さんとの関係をあなたに何度か聞いたことがあったけど、その度に"幼馴染だから距離が近いだけ"、"大事な友達だから"と言って、一度だって私と真剣に向き合ってくれなかった。私はあなたを信じたかったから、浮気しているんじゃないかって不安だったけど、信じたわ。美舞さんが離婚してシングルマザーになったから手伝いたいって、休日に礼良ちゃんを交えて遊びに行くことも、彼女の家に泊まることも許してた。デートの約束を反故にされても、夜遅く帰って来ても咎めなかったでしょう? でも、あの日…私と寿真を置いて帰って、家にも帰らなかったことが、私の中で大きな蟠りになってしまったの。あなたにとっての一番は、妻でも息子でもなく、美舞さんなんだなって思った」
「それは…、そうだ、お前が一人で大丈夫だって言ったんだろ?」
「大丈夫だって言ったから、家に無事に着いたかどうか連絡もしないの?」
「……」
「私や寿真を二の次にするくらい、美舞さんや礼良ちゃんが大切なのよね。そう気づいたから、あなたがどんなに否定しても、もうふたりの関係を疑わずにはいられないの。一度疑いを持ってしまったら、信じていた頃の自分には戻れない。本当に何もないのかなって、これから先ずっと疑いながら生きていきたくない」
「ごめん。お前がそんなに傷ついてたなんて気付かなくて…。でもあの日は本当に途中で礼良の具合が悪くなって、それで…」
「病院に連れて行ったんだっけ? それなら領収書と診療明細書をもらって来たよね。見せてくれない? それを見たら、あなたの言い分が本当だったって信じられるから」
綾史は言葉に詰まり、美舞と目くばせをした。
表情を取り繕ってはいるが、焦っているのは明白だった。
「あれ…どうしたっけ? お前持ってる?」
「うーん、最近のことじゃないしどうしたか記憶ないわ。でもああいうの取っておかないから、捨てちゃったかも」
「あ、あーそうだよな。お前レシートとかすぐ捨てるタイプだもんな」
「ごめんなさい十和子さん。もっと早く言ってくれてたら見せられたんだけど…」
「そうだよ。いつの話だと思ってるんだ。今更見せろって言われても、美舞も困るだろ? みんな十和みたいに取っておくわけじゃないんだから」
美舞の反論に安堵の色を滲ませながら、綾史はまたしても十和子を咎めた。
十和子が美舞の話をすると、彼はいつもこういう反応をした。
『美舞は離婚して子どももいて大変なんだよ。理解してやってよ』
エニコランドからの帰り道だってそうだ。
『十和とわは寿真を抱っこしてただけだけだからそんなに疲れてないかもだけど、俺達結構へろへろなんだよ。わかってやって』
常に十和子に非があるような言い方をして、彼女の罪悪感を刺激して有無を言わせない。
綾史に嫌われたくない十和子は、その度に反論したい気持ちをぐっと吞み込んできた。
しかし離婚を決めた今、彼にどう思われようが、嫌われようが、どうでも良かった。
「捨ててしまったのなら、病院で再発行してもらってください」
二人は揃って「え?」という顔をした。
予想外の反応だったのだろう、戸惑ったように顔を見合わせている。
「えっと……再発行って、できるのか?」
「どうだろう…たしか再発行できないって言われたかも…」
「それなら診断書をもらってきてください。保険証に受診履歴が残っているはずなので」
「いや……そこまでする必要あるか?」
十和子がここまで食い下がらるとは思わなかったのだろう。
綾史はそれ以上言い返せない状況に腹が立ったのか、苛立ちを隠さずに言った。
「病院に行ったか行かないかで、そんなに揉めることか? それに再発行だって診断書だってお金かかるだろ。そんなことを俺や美舞にさせるのか?」
「お金はかかるけど、疑いを晴らすためならそのくらい出せない? 私ならそこまでするわ。本当に相手が大切で、なんとしても潔白を証明したい、安心させたいと思うのなら」
綾史は押し黙った。
十和子はこれ以上の議論は時間の無駄だと判断し、将臣に目配せした。
将臣は十和子のの意図を察し、頷く。
「調停は無断欠席。対面の話し合いも纏まらない。こういう場合、次はどうしたらいい?」
「協議離婚や調停が不成立となった場合の多くは、裁判離婚を選択される方が多いですね」
「では私も裁判することにします。彼と話をしても埒が明かないので。有岡さん、お願いしてもいいですか?」
「承知しました」
十和子はここへ来る前から有岡に裁判の意思を伝えていたが、将臣から有岡にパスを出し、その回答で十和子がその場で離婚訴訟することを決めたように見せかけた。
そうすることで綾史に十和子の説得は失敗したと思わせ、彼のプライドを刺激し、今後の裁判に意欲的に関わらせるために芝居を打ったのだった。
「ふざけんなよ…なに勝手なこと言ってんだよ!俺は離婚するつもりないって言ったよな?」
「私は離婚したいんです。だから調停を申し立てた。それなのにあなたは決められた日に来なかった。直接話さないと離婚に同意しないと言うから、こうして話し合いの場を設けた。それでも離婚に同意してくれないから訴訟を起こすんです」
「調停ってなんだよ?俺は何も聞かされていない!」
「裁判所から封書が届いているはずですよ」
吠える綾史に、有岡が冷静に伝える。
「知らない。そんなもの俺は見ていない!」
「そうですか。あなた宛ての書類を見ているか見ていないかはあなたの責任なので、どうでもいいです」
十和子に一刀両断された綾史は、信じられないという顔で彼女を見やった。
彼の知っている十和子ならこういう場合、「それなら仕方がないね」と優しく笑い、細やかな説明をして、へりくだった態度で理解を求めるような女性のはずだった。
そして彼は、十和子に限らず、他人からこうして冷たく突き放すされるような言い方をされたことがなかった。
「私はあなたと1日も早く夫婦関係を解消をしたいと思っています。理由はあなたが何年もの間私を裏切って不倫をしていたこと、妻や子どもより不倫相手を優先してきたこれまでの生活を振り返って、もうあなたを人として信用できないからです」
「…だから。俺は不倫なんてしてないって言ってるだろ!こんな写真で不倫してたかなんてわからないだろ!決めつけるのはやめろよ!」
「私は離婚の意思をしっかりと伝えました。異論があるならば、今後は裁判で反論してください」
十和子は席を立ち、将臣と有岡も彼女の後に続いた。
綾史がまだ何かを言っていたが、十和子は立ち止まることも振り返ることもしなかった。