第8話(1)
美舞はいつも家主の綾史よりも先に帰宅する。
仕事の日は放課後児童クラブに預けていた礼良を迎えに行き、その足で日によっては買い物をして、ここ1ヶ月はほとんど綾史と十和子の住むマンションへ帰っていた。
その日も自宅には帰らず綾史の家へ向かい、習慣で郵便受けを開けた。
封筒に書かれた"裁判所"の文字が見えた時、美舞は少なからず動揺した。
そして、考えた。
(これ……綾史に渡すべき…?)
美舞は是非ともふたりに離婚して欲しかったが、だからといって十和子に協力するわけにもいかなかった。
彼女はこの家で十和子と鉢合わせした時、彼女に嘘を吐いた。
実際には綾史は離婚を望んでおらず、自分はいつでも浮気相手で、本命にはなれない。
わかっていたからこそ彼の本命になれた十和子に嫉妬して、あの日はかなり強気に出てしまった。
彼女がいない間、家に呼ばれて泊まることを許可され、何度かベッドで行為もした。
冗談交じりではあったが、「このまま住むか?」と言われたことは本当で、十和子よりも価値があると認められた気がして嬉しかった。
だから勘違いをした。
(もしかしたら綾史は彼女と離婚したくなったのかもしれない。このまま離婚してくれたら、礼良をだしに使ってでも、何がなんでも再婚する!)
しかしそんな浮ついた気持ちは、彼が怒りに任せて破り捨てた離婚届と共に地に落とされた。
綾史があんなに感情的になるほど彼女との結婚生活を継続したがっているとは思わなかった。
あの夜から、綾史の雰囲気が変わった。
美舞や礼良に当たり散らすことはなかったが、何気ないことですぐに苛立つようになった。
礼良が子ども心に何かを察し、綾史にじゃれつくこともなく大人しく過ごすほどわかりやすく不機嫌だった。
そんな彼に裁判所からの書類を渡したらどうなるだろう。
また怒り狂って、より一層十和子への執着心を募らせるかも知れない。
それにもし調停・裁判と話が進んでいけば、いずれ美舞が綾史との不倫関係を十和子に暴露し、離婚を要求したことが露見する。
そのことを知ったら、綾史は怒って関係を終わらせるかもしれない――。
(……時間を稼がないと)
美舞の中で、答えが出た。
彼女は裁判所からの書類を綾史に渡さず、翌日職場のシュレッダーにかけて隠滅した。
そうして迎えた、離婚調停の日。
十和子は綾史が来なかったことを知り、彼にメッセージを送った。
《どうして来なかったの?》
もっと言いたいことはたくさんあったが、ぐっと堪えて、ただそれだけを送った。
メッセージを見た綾史は、何のことかわからず眉根を寄せた。
《何のことだよ。
やっと返信したと思ったら、意味不明なこと送ってきて。
この前の、本気だからな。
直接お前が顔合わせて頼んでくるまで、絶対に離婚はしない。》
この返信に、十和子はまたもや首を傾げることになった。
美舞が綾史に黙って裁判所からの書類をまるっと一式紙屑にしたことは、彼女しか知らない。
だから当然、次の調停日にも綾史は来なかった。
十和子は致し方なく、調停とは別に会って話し合う場を設けることにした。
《あなたの気持ちはわかりました。
来週の土曜日、13時頃にあなたの家に行きます。
話し合いをしましょう。
美舞さんも同席させてください。》
綾史から返信はなかったが、十和子は気にせず指定した時間にマンションを訪れた。
インターホンを鳴らすと、間もなくして家主が顔を出した。
「十和!お前やっと帰っ――」
十和子を目にした瞬間、綾史の表情筋が硬直した。
帰りを待っていた妻の後ろには、面識のない長身の男が2人立っていた。
投稿後、さっそく冒頭におかしなところがあったので修正しています。
十和子と鉢合わせした日、美舞は仕事が休みの設定でした(だから日中家にいて、陽が高かったので礼良は一人で帰って来た)。