第6話(1)
翌日、十和子は一度家に帰ることにした。
前日の夜にその旨を話すと、奈津子さんにはひどく心配された。
「お帰りになるのですか?明日?」
「うん。私のものも寿真のものも全部置いてきてしまっているし…急でごめんなさい」
「それは構いませんけれど…でも……」
「奈津子さん。心配してくれてありがとう。でも私は大丈夫だから」
「…やり直すつもりなのか?」
将臣が呟くように尋ねた。
彼の神妙な面持ちを見た十和子は、笑って首を振った。
「まさか! 彼とは離婚するわ」
「だったら…」
「将臣君。私に現実を見せてくれてありがとう。不貞の証拠を集めてくれたおかげで、離れる決心もついたし、本当に感謝してる。でも、このまま終わりたくない」
「……」
「後のことは任せてって言ってくれたけど、それじゃあ逃げるみたいで悔しいの。彼と付き合ったのも、子どもを産むと決めたのも、結婚したのも私自身が決めたこと。だから離婚も、自分の手で終わらせたい。私から直接、綾史に引導を渡すわ」
十和子の意思の固さは、そのふたつの瞳に表れていた。
将臣も奈津子さんも彼女の気持ちを汲み、それ以上は反対しなかった。
自宅へ帰る途中、十和子は市役所に寄り離婚届をもらった。
そうして数週間ぶりに鍵を開けて家の中へ入ると、玄関に靴があった。
平日の午後、この時間帯に綾史がいる可能性は低く誰もいないと思っていたが、予想外の来客があったようだ。
家主の不在に上がり込む人間を来客と呼べるのかどうかは疑問だが。
「綾史? もう帰ってきた―――」
「人の家で何をしているんですか?」
リビングから顔を出した人物に、十和子は表情もなく尋ねた。
家に入って来たのが十和子だとわかると、彼女の顔が引きつった。
「美舞さん。なぜあなたがここに?」
「か、帰ってきたの? 十和子さん…」
「質問に答えて下さい。どうやって家に入ったんですか?」
「どうやってって……ちょっと、私を泥棒扱いするつもり?」
「誰もいない家に他人がいたら、そう思うのは当たり前じゃないですか?」
美舞は淡々と話す十和子の態度に違和感を覚えた。
いつ会っても大人しく、どこかおどおどとして、口数も少ない。
強気でいれば簡単に丸め込める―――そんな印象だった。
それがどうだろう、今目の前にいる彼女は、芯が強く容易には倒れない大木のような貫禄がある。
だが多少雰囲気が変わったぐらいで怯むような女ではなかった。
美舞は徐々にいつもの調子を取り戻した。
「あなた今まで一体どこで何してたの? 連絡もしないで…綾史がどれだけ心配してたかわかってる?」
「それとあなたが今ここにいることと、何か関係があるんですか?」
「おっ、大ありよ! あなたが帰って来ないから、私が家のことを頼まれたのよ!」
「頼まれた? 綾史に?」
「そうよ! 家の中がめちゃくちゃだから掃除して欲しいって。ご飯も作ってあげたわ。あなたがいない間に、あなたの夫のお世話をしてあげてたのよ! なのにどうして責められなきゃいけないの? むしろ感謝して欲しいくらいだわ」
美舞は腕を組み、挑発的に笑った。
こう言えば十和子は罪悪感から頭を下げるはず…そう思っていた。
「そうだったとしても私は聞いていませんし、私が頼んだことではないのでお礼が欲しいなら彼にお願いしてください」
「え?」
「それよりもどうやって家に入ったんですか? もしかして私がいない間、ここで寝泊まりしていたんですか?」
美舞の予想に反して、十和子は引き下がらなかった。
一貫して"家の中にいる理由"を質問し続ける。
妻が不在の間に他の女性を家に上げていた。
あまつさえ寝泊まりさせていた。
背景はどうあれそれだけを聞けば立派な不倫―――違法行為と見做されてもおかしくはない。
美舞は慌てて履いているジーンズのポケットを探った。
「見なさいよこれ!この家の合鍵! 綾史にもらったのよ!」
「……」
「言っておくけど、1日だって泊ってもいな―――」
<ピンポーン>
美舞が言い募ろうとしたちょうどその時、インターホンが鳴った。
十和子は、彼女が一瞬狼狽したのを見た。
振り返った先、壁のモニターに映っていたのはランドセルを背負った女の子だった。