あなたが欲しい
「ねぇ、それ、何見てんの?」
現在、時刻は深夜零時に差し掛かろうとするところ。場所は、自分以外に人がいないはずだった駅のホーム。もう季節は春だが、この時間になると外はまだ肌寒い。視界の隅でひらひらと何かが揺れている。
今年から新社会人になった僕は、ようやく仕事が終わり、終電間近の電車を待っていた。ホームのベンチに座りながらスマホを取り出して、最近よく見ている怖い話のサイトを覗く。こういう時間帯だと雰囲気があっていい感じに怖さが増すので、最近僕の中で密かなブームになっていた。そうして、次の電車が来るまで一人で静かな空気に浸っていたとき、不意に先程の言葉をかけられたのだ。
スマホの画面から目を上げ、声のした方を見ると、そこには若い女の子が立っていた。肩くらいまで伸ばした髪は、染めているようで明るめの茶色。制服を着ているところを見るとどこかの学生だろう。見た目では高校生くらいにみえた。短いスカートから引き締まったすらっとした脚が伸びている。耳には綺麗な、それでいて主張し過ぎないピアス、整った顔立ちからはどことなく気の強そうな印象を受ける。なんというか今どきの子だ。リアルが充実してそうな、学校カースト上位にいそうな、そんな印象だった。
僕が学生の頃にもこんな子がいたなぁ、気弱だった僕はよく絡まれていたっけ、と少しどうでもいいことを考えてしまう。
「スマホ、何見てたの?」
こちらがいつまでたっても答えないからだろう。女の子は答えを促すように再度聞いてくる。馴れ馴れしいというか、遠慮のないような聴き方。というか、会ったこともない知らない人(僕ですが)に自分から声をかけるなんて、あまり危ないことはしない方がいいと思う。もし話しかけた相手が危ない人物だったら、彼女のような若い子は格好の的になってしまいそうだ。
というか、冷静に考えると深夜帯のこの時間、高校生が一人って不良かな? 塾帰り? 親御さんは? なんて色々気にはなったが、そんな個人情報を聞こうとすると今の世の中、それはもう立派な不審者になってしまう。
いきなり何? 君は誰? いろいろ言いたいことはあったけど、深夜に女子高生と二人きりという社会的にまずいこの状況を早く切り抜けるため、要件のみに答えることにする。つまらないと思えばすぐに離れて行くだろう。
「怖い話とかのサイトを……」
「そのサイト見るの辞めた方がいいよ。寄ってくるから」
「……」
そう言って女子高生は二つほど離れた席に座り、大胆に脚を組んでスマホを取り出していじり始める。少しして、ジッと見てしまっていたことに気付き、慌てて自分のスマホに視線を戻す。
スマホには怖い話を掲載している先ほどまで見ていたサイトが表示されていた。黒を基調としたサイトデザインで、壁紙をよく見ると薄っすらと腕や指のようなものが描かれている。それがまた雰囲気を醸し出してくれて僕は気に入っていた。
『そのサイト見るの辞めた方がいいよ。寄ってくるから』
視界の隅で何かがひらひらと揺れている。あれは、外灯に集まってきた蛾や様々な虫だ。僕には先ほどより風が肌寒く感じた。
いきなり見ず知らずの女子高生に言われた言葉の意味を考える。寄ってくるって何が? 何が寄ってくるの? そもそもいきなりそんな事を知らない人に話すこの子はなんなんだろう?
深夜の駅のホーム、怪しい女子高生とふたり、顔を上げれば静まり返った闇の中に消えていく線路が見える。駅の外灯が届かない闇の中に消えて行く線路はまるで、辿っていくと二度と帰ってこれない場所に繋がっているようだ。非日常感溢れる周りの環境に、ビビりの僕は今まで見ていたサイトをそっと閉じた。そのまま特に興味の無いトップサイトのニュース欄を流し見しながら、やってくるであろう終電間際の電車を待つ。
意識すればするほど、何でもないような周りの小さな音に敏感に反応してしまい、闇の中からこちらを見ているような視線まで感じてしまう。気のせい、これは気のせい。あの音は街灯に虫がぶつかった音。視線はきっと猫か何かがいたのだろう。ビビりな自分の性格はこういう時困る。
同じく電車を待っているであろう知らない女子高生をちらりと見る。初めは不気味だったが、今はその存在が頼もしかった。一人よりは二人である。見知らぬ不審な存在にまで安心感を感じるほど僕はビビりだった。
そうこうしながら一人心の中で怖がっていると、ホームに放送が鳴り響く。まもなく電車が来るようだ。ホッとして一息つく。電車に乗ってしまえば安心だ。鞄を持ちドア位置に立って電車を待つ。たまに怖い話を読みたくなるが、今日は知らない女子高生のおかげで、なんだか変な雰囲気になってしまった。まぁ電車に乗ればそれも終わりだ。不思議な子がいたものだ程度で、後々自分でも忘れてしまうだろう。
「見るの辞めたんだ。素直じゃん。もう見ないようにね」
座っていたはずの女子高生がすぐ隣に立っていた。思いがけない状況に声が出ない。女子高生は僕に密着するほど近くに立っており、その後、何故か大股で片足を私の足の前に出した。その動作はまるで、何かを踏んだようにも見えた。
言葉を発せないでいると、電車が到着して女子高生は僕を見て笑い、先に電車に乗って行った。
謎の女子高校生の笑顔はカッコいいような可愛いような、どことなく怖いような様々な感情を僕の中で巻き起こした。
少しして、見惚れていた僕は我に帰り、女子高生が乗った車両とは違う車両に慌てて乗った。あの子はなんだったのだろう? 不思議ちゃんなのか、それとも痴漢冤罪にされそうだったのか、何にせよ下手に関わらないのが一番だ。もう会うこともないだろう。その時の僕は、そう思っていたんだ。
仕事帰りに深夜の駅で不思議な女子高生に出会ってから数日。僕は特に何事もなく日常を過ごしていた。仕事が終われば寝るために家に帰り、起きたらまた仕事に行く。職場と家の往復生活だ。今日も今日とて仕事。本日のシフトも退勤時間は夜遅く、家に着いたらすぐに寝ることになりそうだ。
退勤時間になり夜勤の職員へ「お疲れさまです」と短い挨拶をして足早に職場を離れる。いつまでも残っていると仕事を手伝うはめになったり、ろくな事にならない。
僕の職場は介護現場だ。入居者のため広い土地を確保する必要があったのだろう。街中からは少し離れた場所にある僕の職場。辺りには建物もまばらで、民家も少ない。ぽつりぽつりと蝋燭のように灯る街灯を頼りに薄暗い道を最寄り駅まで足早に歩く。職場から出た時、誰かに見られているような気がしたけど、そんな風に感じてしまうのは、この前の出来事と、自分の元々の性格のせいだ。
僕は昔から気が弱く、大人になった今でも内心かなりのビビリだ。駅まではそう遠くない道のりだが、この時間帯の帰り道は、いつもビクビクしながら歩いていた。そのくせ怖い話やホラー映画が好きで、怖いもの見たさでよく検索しては、いろいろな話を読んでいた。
オカルト好きが高じて、霊能力者に会うイベントなんかにも参加したことがある。まぁその時は、「あなたは体質的にマズイ!」「霊が寄ってきます‼」「早くここから帰りなさい‼」と散々脅されて、お金は払ったのにすぐに帰るという悲惨な思い出しかない、今思えばインチキで騙されたんだとわかるけど、いい教訓として覚えている。
だけど、最近は少しその辺の趣味を封印している。数日前に駅で出会った見知らぬ女子高生のせいだ。いつものように駅のホームで怖い話を読んでいたときに現れた女子高生。寄ってくるから見ない方がいいという意味深な言葉。何かを踏みつけるような謎の動き。そもそも会ったこともない知らない子だった。
ある日、偶然出会った不思議な女性とのロマンスとか、そんな雰囲気は一切なく、あの子が実は人ならざる者なのかとも考えてしまったほど、あの時はビビったわけである。律儀に忠告をきいて、あれ以降、そういうサイトは見ていなかった。見知らぬ女子高生を信じたというより、まだビビっているだけなんだけど……
謎の女子高生とは、あれ以来出会っていない。会いたくないが、一切見かけないとそれはそれで、幽霊だったのかとビビりの心を乱され複雑な心境だった。
考えごとをしているうちに気付けば駅に到着していた。電車が来るまで時間がありそうなので、ホームのベンチに座って待つことにする。この時間帯、街中から離れたこの駅に人はほとんどいない。今日もホームはガランとしてベンチも座りたい放題だ。人がいないのは怖いし、電車の本数が少ないなど、不便な所も多いけど、仕事終わりで疲れている身体には少しありがたいことだった。
仕事疲れか重い足をなんとか動かしてノロノロと歩く。最近疲れが溜まっているようで、歩くのが辛く感じていた。足が前に進まないのだ。新生活が始まったばかりで仕方ないのかもしれないけど、早く身体を慣らしていかないといけない。けれど今日は家に着いたらすぐ休まないと。そう考えながらようやくベンチに座って一息着いたとき……
「ねぇ、またあのサイト見てんの?」
横から声をかけられたのである。不機嫌そうなその声に驚き、ガバッと音がしそうな勢いで顔を上げると、そこには何日か前に駅のホームで会った謎の女子高生が立っていた。
いきなり声をかけられたことにビビって、女子高生のイライラを隠そうともしない不機嫌そうな表情にさらにビビった。思わぬ再会と理不尽な怒りを向けられ戸惑っていると女子高生が先に口を開く。
「またあのサイト見たでしょ! 見るなって注意したのに、聞き分けがいいのはその場だけなの⁉」
「あ、いや、見てないです!」
「絶対嘘、すぐわかるよ。今でも足を掴まれてるじゃん」
「え? いや、本当に見てないです。ビビりだからあれからもう開いてないです!」
見知らぬ女子高生に訳もわからず叱られて必死に弁明する大人(僕)がそこにいた。なんともカッコ悪い状況である。
意外と必死に弁明する僕を見て女子高生もあれ? という顔をして「じゃあかなり執着されてたんだ。これは私の……に」と呟いた。後半はよく聞き取れなかった。そのまま私の隣に座る女子高生。イライラは落ち着いたのか、何やら考え事をしているようだった。隣の女子高生からはいい匂いがした……ってそうじゃない⁉︎
「あ、あの!」
「最近さぁ、よく転んだり足が疲れてる感じしてない?」
展開についていけない僕は堪らず質問しようとするが、最初からお構いなしの女子高生に先に質問されてしまう。
「えっと、転んだりはしないけど、足が重いような? 疲れてはいる。かな。」何でそんなことを? と思いつつも律儀に答える僕。
「そっか、影響出てるんだ」
「いや、というかあなたは誰ですか? この前から何で……」
そこまで言ったところで急に女子高生に手を握られた。驚いて女子高生を見ると至近距離でこちらの顔を見つめてくる。世界の時間が止まったように感じ、自分の心臓が五月蠅いほどに高鳴っている。至近距離で見る女子高生はやっぱり可愛かった。色白な肌は言い方を変えれば青白いとも言えそうなほどだが、透き通るような肌は綺麗としか言いようがない。
まつ毛長いな、などと冷静を装ってみるが、自分の顔が熱く感じ、真っ赤になっているだろうことがて見なくてもわかる。だって、女の子と手を繋いだことなんてないもの! こんな至近距離でいたことすらないもの‼ 仕方ないじゃん‼
「ねぇ」
「ひゃい!」
自分で自分に言い訳をしていると声をかけられ、自分でも情けないような裏返った声が出てしまう。恥ずかしくて死んでしまいたい。もう痴漢冤罪とかまったく考えられていなかった。
「足見て」
「足ですか⁉」追い打ちをかけられ、思わず短いスカートから伸びる女子高生の生脚を見る。何かスポーツでもしているのか、細い脹脛にもしなやかな筋肉が見て取れる。細すぎず太すぎず、引き締まった綺麗な太もも。本来は太ももを隠しているであろうスカートは、かなり短く、際どい部分しか隠していない。端的に感想を述べると、綺麗だった。
「き、綺麗ですね、脚!」
「あ、いや、私のじゃなくて、自分の足元をね」
「へ? あ、あ、すいません!」
苦笑いする女子高生に自分がとんでもない勘違いをしたことに気付き慌てて謝る。「別にいいよ」と、優しい目で見てくる女子高生。やめて、哀れまないで! ただでさえ、手を握られて隣に女の子がいる状況にパニくっているのだ。自分でもわけがわからない。とりあえず促されるままに自分の足元に視線を落とす。
見えるのは自分の足と隣にいる女子高生の足。
そして、ベンチの下から伸びてきて僕の足を掴んでいる 腐ったような緑色をした腕だった。
「見えた? 今は私の力で見えるようにしてるんだけど。手握ってるのごめんね」
「……」
「足掴まれてるでしょ?」
「……」
「? おーい……あ、気絶してる」
僕はビビりなのだ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「ねぇ、起きて! もう、寝坊助なんだから」
窓から差し込む暖かな光と、優しい声に目を開ける。僕を優しく起こそうとしてくれていたのは、あの駅のホームで会った女子高生だった。彼女は僕が目を開けたのを見て優しく微笑む。あぁカワイイ~。こんなに可愛い子が起こしに来てくれるなんて、なんて幸せな朝なんだろう。これなら毎日の辛い仕事も頑張れそうな気がする……って、あれ?
「はっ⁉」
「あ、起きた。大丈夫?」
なんで彼女が僕の部屋に? と思ったところで目が覚めた。隣には確かにあの女子高生がいるが、ここは自分の部屋ではなく、薄暗い駅のホームだった。なんでこんなところで寝て……そうだっ‼
「腕が⁉」気絶する前のことを思い出して慌てて自分の足元を見る。だが、そこには自分の足を掴む腐ったような腕はなかった。あれ、ないじゃん。さっきのは幻?
「ふぅ、よかった。幻かぁ」
「ほい」一息つく僕の手をまた女子高生が握る。手を握られて驚き、自分の足を掴む腐った腕がまたいきなり見えるようになってさらに驚き、僕はまた意識を手放し……
「ちょっと!気絶しないで!」
「痛た⁉ いたっ、ちょ、痛いです!」女子高生が握る手に力を込めたことにより、痛みで覚醒する。下を見ると自分の足を掴む腕が「うわああああぁ!腕がぁああ!」また気を失いそうになる。
「だから落ち着いて!」力を込める女子高生。
「いたっ! いたた!」覚醒する僕。そして腕を見て気絶。また力を込める女子高生。僕が落ち着くまでこの流れはしばらく続いたのだった。
「落ち着いた?」
「はぁ、はぁ、す、すいません」
「ふっ、面白かったからいいよ」
とりあえず、とりあえずだが、一旦落ち着くことにする。今は自分の足を掴む腕は見えない。まぁ見えてたら落ち着けないのだが、それは置いておく。
「あの、さっきのは一体?」ビビりな僕だが、さすがに聞かずにはいられなかった。今は見えないにしても、はっきりとこの目で見たのだ。腐ったような人の手を……
ベンチの下から伸びていた腕。もちろんベンチの下に人なんていない。そもそもそんなスペースもないはずだ。恐る恐るベンチの下を覗き込む。すぐに壁になっていて奥なんてない、小さな蜘蛛の巣がはっているだけの何の変哲もない様子だった。なら、あの腕は? 一体なんだったのか、あんなにはっきりと何度も見てしまうと、もう気のせいにはできなかった。
「お化け、幽霊ってやつ」
「っ……」
あまりにもはっきりと言われて言葉に詰まる。お化け、幽霊。怖い話を読むのは好きだが、それはただの怖いもの見たさ、ぶっちゃけ自分では出会いたくはない存在だった。そもそも本当にいるのかもわからない存在。だけど、はっきりと見た。見てしまった、この目で。
「ほ、本当に幽霊 なんですか?」
「まぁ簡単に言うとね、ほら、この前見てたサイト。見るの止めるように言ったやつ、あれのせいだね」
「え、あのサイトが?」
「うん、あれは良くなかったね。思わず声かけちゃったもん」
彼女と始めて会った夜、僕はあるサイトを見ていた。とある怖い話を纏めているサイトだ。他にもそういうサイトを見ていたが、そのサイトだけは他では見ないような話をたくさん掲載していて興味を持ったのだ。あの夜、彼女は側から見ても感じるほどの良くない空気を僕から感じ、忠告してくれたのだそうだ。あの時からすでに足を掴まれていたようで、電車に乗る前に踏みつけて腕を取ってくれたらしい。
「ぇえ⁉ 本当ですか⁉」
「踏みつぶしたから、あれで取れたと思ったんだけどね。もうあのサイト見ちゃダメだよ。余計なのが寄ってきて面倒だから」
余計なのが来て面倒って、僕にはそれどころの話ではないと思うけど、それよりこの子、いい子じゃん。ごめんね。幽霊かと疑ったり痴漢冤罪とか思ってごめんね。
「ていうかさ、なんか普通に信じてるけど、いいの?」
「何がですか?」
「私が言うのもなんだけど、いきなり信じるような話じゃなくない?」
「だって、見ちゃったし、怖いし!」
「ふ〜ん」
少し考え込むようにした女子高生は「キミ、将来詐欺にあいそう」なんて失礼なことを言って笑った。よくわからないけど、その笑顔はとても嬉しそうに見えた。
「あの腕、手を繋ぐと見えるようになるんですか?」
「ああやってアタシの視点を貸してるから、だから今は見えないでしょ?」
「見えない。けど、見えないだけでまだあるの?」
「うん」
なんの躊躇もなく肯定されて、血の気が引いていく。そんな、普通に返されても。今もあの薄気味悪い腕が自分の足を掴んでいるかと思うと、若干涙目である。
「ちょ、泣くなし」
「だってぇ……」これまでの人生で一番情け無い瞬間は今だと思う。大の大人が情け無いと自分でも思うけど、それほどに恐ろしかった。だけど、そんな僕を見て女子高生は呆れることなく、僕の頭に手を乗せ「大丈夫、アタシに任せて」とカッコよく呟いた。
ごく自然に僕の頭を撫でる女子高生。カッコいい、これが、ナデポ‼
……って赤くなってる場合じゃない! 僕の足は今も薄気味悪い腕に掴まれているのだ。「どうにかできるんですか⁉︎」藁にでもすがる思いで聞き返す。このままだとどうなるのか知らない、知りたくもないけど、なんとかできるならして欲しい。希望を込めて女子高生を見つめる。
「いいよ、特別ね」
「っ本当ですか⁉」
「キミ、気弱そうでほっとけないから」
「た、確かに気は弱い、と思います」
「そういう人には寄ってくるからね、自分からスキを作ってるような感じだから」だから特別ね。と言って笑う彼女は、今の僕には女神に見えた。
「じゃあ、もう一回手を握るね。しっかりと知覚してもらわないといけないから」
「え、またあれ見ないとダメなんですか?」
できれば遠慮したかったが、お祓い? するためには今のままでは存在が薄すぎて接触できないそうだ。しっかりと認知することで存在をはっきりとさせて、こちらからのアクションを受け付けてもらう。そうして祓う。のだそうだ。
しっかりと理解したわけではないが、なんとなく理屈はわかる気がした。ただ、理屈はわかっても感情は別だ。あの腕、怖くてすぐ視線を外し、チラチラとしか見ていないが、人体が腐っていくとああなるのだろうか。どす黒い緑色、発酵して膨らんでいるような部位はぶにぶにしていそうだった。話でしか聞いたことはないけど、水死体は水を含んでぶくぶくに膨れ上がるそうだ。あの腕はそのイメージにピッタリだと思った。一度でも見たら一生忘れることができない。そう思うほどの衝撃。もう一度あれを見ないといけないかと思うと吐き気までしてくる始末だった。
「大丈夫、アタシがついてるから、できる?」
きっと青白い顔をしていたのだろう。心配してくれた女子高生が顔を覗き込んできて励ましてくれた。小さな子供に言い聞かせるような、優しい表情。
「で、できます!」年下に母性を感じた僕は力強く答えていた。まるっきりお母さんに強がってみせる子供だった。
「うん、えらいえらい!」強がる僕を笑うことなく優しく認めてくれる女子高生。完璧に立場が逆ですね。はい……
「じゃあ、これから祓うためにもう一度腕を見てもらうけど、一つ大事な注意ね、それは……」
それは、見すぎないこと。だそうだ。
祓うために、見て、認知することで存在をはっきりとさせる。そうすることでこちらからのアクションを受け付けるようにする。それはつまり、向こうからのアクションも受けてしまうことになる。
普通なら存在が薄く、気のせいで済ませられるほどの影響しかないが、霊の存在を具現化し、実体化させてからは霊からの影響もしっかりと受けてしまうらしい。
「見すぎて実体化しちゃうとどうなるんですか?」
「まず掴まれてる感触がわかっちゃうよ。それからあの腕はキミの足を引っ張ってる。そのまま引きずり込まれるだろうね」
「ベンチの下に?」
「ベンチの下から繋がってる向こう側に」
冗談じゃなかった。想像するだけでも気持ち悪いあの腕に実際に掴まれてる感触がするなんて、考えるだけで鳥肌ものだ。しかも引きずり込まれるって、向こう側って、わからないことだらけだが、これだけはたぶんわかる。向こう側に引き込まれたら人生終了しそう。
「一応なんですけど、そのままにしておくとどうなります?」
「その腕、キミから気力を吸ってる。キミは日を追うごとに疲れていくし、腕は日に日に存在感が増して、普通に見えるようになる。最後は引きずり込まれるかな」
「お願いします!お祓いしてください!」
「うん、だから見すぎないこと、いい?」
「はい!」
放置してもいいことにはならないようだ。それを聞いて、ビビりの僕も覚悟を決める。こうして深夜の駅、足を引っ張る腕のお祓いが始まった。
「先に手順だけ伝えておくから」
そう言った女子高生が教えてくれた手順はこうだ。まず、手を繋いで僕が腕を見れるようにする。そして僕が腕を見て、いい感じに実体化させる。ここで見すぎないことがポイントだ。最後に実体化した腕を女子高生が華麗に祓って万事解決。めでたしめでたしだ。簡単、安心、僕は見ればいいだけの簡単なお仕事です。
嘘です。ビビりな僕にはそれだけでも辛いです。見すぎたら向こう側に引きずり込まれるらしいし……
「ま、実体化したら祓うのはすぐだから。ちょっとくらい見すぎても連れていかれる前にケリをつけるよ」
ガタガタ震えている僕を励ますように言う女子高生は年下とは思えないほどカッコよかった。
「じゃ、いくよ」「は、はい!お願いします!」
あ、やっぱり女子高生と手を繋ぐなんていいのだろうか、訴えられない? なんてくだらないことを考えていると手に柔らかい感触を感じる。女子高生の手はスベスベだった。女の子に免疫のない僕はそれだけで心臓がバクバクと高鳴って、次の瞬間には自分の足を掴む腕が見えて心臓が止まりそうになった。この時間だけで僕の心臓には多大なダメージが蓄積されているに違いない。
「目をそらさないで、見続けて!」「は、はい!」
すぐに目をそらしてしまう僕を勇気づけるためだろう、女子高生が繋いでいる手を力強く握ってくれる。そうだ。僕がしっかり見ないと、さんざんビビりまくっていた僕だけど、ここでやらなきゃ男じゃない! 力強くつないだ手から勇気をもらい、しっかりと自分の足を掴んでいる腕に視線を向けた。
「あ……」
僕がかき集めた微々たる勇気は腕を見た瞬間に、砂が流されていくように、瞬く間になくなった。はっきりと見たのだ。自分の足を掴んでいるその腕を……
腕は腐ったような黒い緑色、水死体のように膨張している。しっかりと見ようとして見たからなのか、まずい、と思ったときには、もうその腕から視線を外すことができなかった。
次第に腕が存在感を増していく、掴まれている脚に冷たくドロッとしたものを感じた。腕の感触なのだろうか、冷たい粘着質な泥を脚に塗り込まれているような、その感覚を何倍も倍増させたもの。気持ち悪い、虫唾が走るような感触。それだけでは止まらない、そのまま掴んでいる力が強くなり、脚に痛みを感じた。掴まれている部分は氷を押し当てられているように冷たく、脚から徐々に身体全体を悪寒が包んでいく、振り払いたくても上手く身体が動かせない。腕は強く、ただ強く僕の脚を引っ張っていた。
痛みと嫌悪感で僕はもう何も考えられない。こんなことあってはならない。気持ち悪い。こんなものこの世にあってはならないんだ。
気持ち悪い。
気持ち悪い痛い気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い
思考が、感情が、悪いもに支配されていく。腕から視線を外せない。自分の脚が引っ張られているのをただ見ていることしかできなかった。
「大丈夫。私を見て」
手に暖かさを感じた。掴まれている脚から身体全体に広がっていた寒気が緩和されていく。握る手に感じる暖かさ、隣からかけられた声により、深いところにいってしまっていた思考が引き上げられる。「見すぎちゃダメだよ」お祓いの前に言われていた言葉が急に脳裏に浮かんできた。気付けば僕は腕を見続けてしまっていた。慌てて腕を見ないように視線を上げると、微笑む女神がそこにいた。
「よく頑張ったね。あとは任せて」そう言われて、僕はこの娘に一生付いて行こうと思った。
そのうち女子高生の周りが青白く光り始めた。本当に光っていたのかはわからないが、今の僕にはそう見えた。
「いただきます」
特に奇妙な呪文や、長い詠唱などそんなものはなく、女子高生が一言話すと光がさらに眩しくなって、僕は目を閉じた。一瞬の出来事だった。風を感じて、光が見えなくなったあと、気付くと足を掴んでいる腕の感触もなくなっていた。自分の足元を見る。腕はない。女子高生とは手を繋いだままだ。見えなくなったわけじゃない。ということは……
「祓えた、っぽい?」
「うん、お疲れ。もう大丈夫だよ」
女子高生のその言葉を聞いた途端、安心感から身体の力が抜けていく。知らぬ間に緊張でガチガチに力を込めていたようで、体の節々が痛かった。明日は筋肉痛かもしれない。噛みしめすぎていてうまく動かせない口をなんとか動かしてお礼を伝える。
「あ、ありがとうございます。声をかけてくれなかったら目を離せないところでした」
「気にしないで、だいたいそういうものだから。ねぇ、こういう言葉を知ってる?」
深淵をのぞく時深淵もまたこちらをのぞいている
ようは、見すぎて魅入られる。向こうから目を付けられる。そうなったら逃げられない。だから見すぎるな、ということ。「ま、大抵はさっきのキミみたになっちゃうけどね」あっけらかんと言われる言葉に恐怖がぶり返してきそうだった。いろいろ聞きたいことはあるが、聞きすぎるのもよくない気がして、一番重要なことだけ確認する。
「一つだけ、さっきの腕はもういないんですよね?」
「大丈夫、もういないよ。ほら、手を繋いだままだけど、見えないでしょ」
そう言われて今更ながら手を繋いだままだったことを思い出す。
「ご、ごめんなさい!ずっと繋いだままでした⁉」慌てて手を放すも女子高生は気にしていないようで、いいよいいよと笑っていた。慣れてないんです。気恥ずかしさで顔が赤くなる。
「あぁ、そうだ。最後にスマホ、貸してくれる?」
スマホをどうするのか気にはなったが、もう今更と思い素直に女子高生にスマホを渡す。女子高生は自分の掌に僕のスマホをのせ、もう片方の手でスマホの上の空間を切るようにはらった。
「ほい、終わったよ」
「え、今のなんだったんですか?」
「繋がりを断ち切ったの」
どうやら、僕のスマホはあのサイトと見えない繋がりが出来てしまっていたようだ。一度開いたら最後、ブラウザを閉じただけでは消えない繋がりが出来てしまうそうで、その繋がりをたどって、先ほどの腕のような良くない者がやってくることがあるのだそうだ。「あのサイトには良くない者や負の感情が渦巻いてた。その繋がりを切ったからもう大丈夫」何から何までありがたい限りである。見知らぬ女子高生には助けてもらってばかりだ。
気が付いた時には僕は、この女の子に魅了されていた。颯爽と現れて僕を助けてくれた謎の女子高生、まるでアニメや漫画の世界に出てくるヒロインのようで、そんな子に夢中になるなというが無理な話だった。彼女のことをもっと知りたい。そう思った。
「あの!何かお礼をさせてください!」
「え、別に気にしなくていいよ。アタシから提案したことだし」
「それでも、物凄く恩を感じてるので!」
何か彼女との繋がりをつくりたくて、僕は必死に提案する。彼女もにこやかに笑っていて、まんざらでもないように見えた。
「何?可愛い女子高生の私に惚れちゃった?」
「い、いやいや⁉ 純粋に感謝の気持ちをですね」
「ふ~ん、まぁいいけど、お礼ってなんでもしてくれる?」
「もちろんです!」
僕が間髪入れずに答えると、女子高生は花のような笑みを浮かべた。あまりに綺麗で年の割に妖艶なその笑顔に、僕はくぎ付けになった。
「じゃあ、キミが欲しいな」
「喜んで‼ ……ってそれってどういう?」
「実はさ、駅でキミと初めて会ったあの日、あの日より前に私は、キミのこと知ってたんだ」
「え? そうだったんですか?」
「うん、そうだよ。私が一番初めにキミを見つけたんだ」
「? 見つけたって……」
「だからね、後からあの腕がキミを掴んでるの見てすっごくイライラしちゃった。私のだーってね」
「……あの」
「まぁでも、余計な存在が寄って来るのもしょうがないよね、だってキミはこんなに魅力的で、こんなにも美味しそうなんだもの」
「……」
話の内容が途中からおかしくなっていく気がした。女子高生は可愛らしい笑顔のまま僕に話しかけてくる。
「嬉しかったなぁ、キミが私を受け入れてくれて、気付いてた? 私はね、キミを見つけてからずっと、キミを見てたんだよ。ずっと、ずっと……やっと私を見てくれたね、やっと私を受け入れてくれたね」
あぁ、そこで僕はようやく気が付いた。僕は見すぎてしまったんだ。あんなに見すぎるなって教えてもらったのに……
「さぁ、一緒に行こう、私の世界に」
そう言って差し出された綺麗な手を、僕はすぐには掴めなかったけど、「なんでもするって言ったよね」そう言われて大人しく手を握った。女子高生の手は柔らかくて気持ちよくて、それでいて、氷のように冷たかった。
「やっと手に入れた。これでもう私のもの」最後に見えたのは、恍惚とした表情で僕の手を取る女子高生の姿だった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「え⁉ 連続で無断欠勤ですか?」
「そうだよ、まったく、最近の若いのはすぐ仕事を辞めるって噂だったけど、本当だったな」
「でも、そんな事をするようには見えなかったけど」
「どうせ取り繕ってただけだろ、さぁいないヤツのことは考えずに仕事だ」
「……何かあったのかな」