平内真(偽名)の指先
七月三日(水曜日)
きっと誰かの望み通りに今日がきて、きっと誰かの望みを裏切って今日がきた。
ただし、その結果が望み通りとは限らない。
*
無意識に早起きする人間が、ときおり理由があって早起きしなければならないとき、目覚ましを過剰に用意することがある。嘘じゃない。だって、今日の俺がそうだから。
午前五時半。俺は目覚める。いつも起きる時間と変わらない。だが、それが『起きる』から『起こされる』に変わるだけで多大なる負荷を感じた。心に。
家には誰もいない。ネグレクト……ではないと思う。ただ生活リズムが合わないだけだ。写真家の父と医師の母。兄弟はいない。父は世界中のあらゆる人も、物も、景色も撮る写真家で、そもそも日本にいることが少ない。母は脳外科の医師として有名らしく、いちおう国内にいることが多いが、あらゆる現場に引っ張りだこだ。ふたりとも立派に働いている。それを咎められるものなどどこにいようか?
俺も中学を出たら父についていこうかと思っている。いや、思っていた。昨日、あんな話を聞くまでは。ともあれ、その決断は件の中学生活を終えてからだ。まだ半年以上はある。考える時間がある。
朝食はいらない。前日中に用意してあった学生服に着替え、鞄を引っ提げて家を出る。集合は午前六時だ。
左手に持つ鞄が重い。俺が信号待ちをしていると、眼前を自転車が颯爽と通り過ぎた。道が狭いからか目と鼻の先だった。今日の自転車は交通規則を遵守しているように思われたので、特段の感慨はなかった。信号が青に変わる。俺は左肩を検分するように回して、歩き出した。
まだ二度目だというのに慣れた建物に入る。内装はもとより外装まで白すぎる。住居というにも店舗というにも中途半端なたたずまいの建物だった。エントランスでおっさんに会う。「おお、早いな、少年」。俺はスマートフォンを取り出し時間を確認した。「十分前だ。べつに早くねえ」。だが、『早い』というなら、余裕がある、ということだろう。
「コンビニでなんか買ってきていいか?」
「ああ、……あー」
答えは決まっているが、言葉を探しているような面持ちで、おっさんは空を見上げた。
「茶なら出すから。持ち込みは禁止」
「解った」
べつにどうしてもなにかを持ち込みたかったわけじゃない。手持無沙汰が気になっただけだ。この右手も。時間も。
俺は奥へ進んだ。右のドアを開け、その奥に手をつく。昨日、俺の手紋は登録してある。そのドアは、思ったよりあっさりとした質感で開いた。
「お、少年。おっはー」
早朝から元気な少女が眩しいくらいの笑みで迎えてくれる。それに比例して俺の顔つきはいかつくなっていく気がした。
「なんだよ、こんな早朝から」
「早朝だから挨拶だろう? おっはー」
「古いんだよ」
見ると部屋には、円子と天がいた。円子の着ている服装は昨日と同じだったが、なんとなく違う気がした。たぶんだが、同じ服のストックがあるのだろう。天の服は昨日と同じだ。おそらく着替えてない。だからその対比で、円子の服が新しいと感じたのかもしれない。
そうか。すでにはやっていたか。円子は漏らした。つまらなそうな顔で俯く。準備していない反応はやはり子供みたいだ。
「ところで今日のこの町の降水確率はどんなもんだい?」
「は? 知らねえよ」
「なぜだ? 世の男性は毎朝、ニュースを見て新聞を読むものではないのか?」
「俺は中学生だ」
「それは承知している」
微妙に会話が噛み合わなかった。天気の話などし始めたら話題はすでに尽きている。今日はなんのために呼ばれたのだろう?
「そろったぞー」
おっさんが言いながら入ってきた。手には四本、ミネラルウォーターを抱えている。それを適当に配った。円子以外に。そして、その後ろから、もうひとり、人影。
「お待たせしましたか?」
「いやいい。まだ三分前だ。ところで木児。今日のこの町の降水確率は?」
「二十パーセントですが」
「そうか。なら訂正しよう。それは誤報だ。本日の降水確率は九十七パーセントだ」
三パーセントはいつも通りの誤差。円子は言う。いたずらっ子みたいに笑んで。
「梅雨が来る」
円子はその短い両腕をめいっぱい伸ばして、言った。
木児と呼ばれた男子高校生(制服からして、《《向こうの丘》》の学校の生徒だ)と、互いに、『おまえ誰だ?』という雰囲気が漂ったが、そんなことは些末なことだった。
「本日中。おそらく日暮れまでに、この町を過去百数十年なかった豪雨が襲うだろう。だから久米方もがみを保護してほしい」
久米方もがみ。とやらが誰だか解らなかったが、その人名が出た途端、木児の顔つきは変わった。その言葉の信憑性をいったん棚上げにするとしてもだ。
「待て。いきなりなんだ? 過去百数十年なかった豪雨? ソースは?」
「そーす?」
円子はおっさんを見た。おっさんは短く言う「出元」。
「ああ。ソースね。私独自調べだ。だから確証はない。さっき言った通り、確率は九十七パーセントほどだ。確実というには心許ないかね?」
問われても困る。心許ないに決まっている。そもそもおまえは誰だ?
「まあ妄言だね。聞くだけ聞いてくれ。豪雨と強風で、町の二十三パーセント――とりわけ低地を二メートル級の津波が襲うだろう。概算だが倒壊家屋三十余軒、死者は九人、重軽傷者はぎりぎり百を越えないくらいかな」
その具体的な数値に言葉を失う。子供の戯言というには細かすぎる。
「そんなことはどうでもいい」
木児が言う。まだ会って間もないが、感情を荒げるタイプの人間ではないと感じた。それがやや強引に言葉を挟む。
「久米方もがみを保護せよ、とは? 彼女の身に危険が迫るという意味ですか?」
またその名前が出てくる。久米方もがみ。いったい誰だ?
「いいや。むしろ安全だろう。久米方もがみのお宅は二十三パーセントの埒外だ。そのうえ、君たちの学校は高地。なおさら安全だ」
「では、『保護せよ』とは?」
「君なら解るだろう? 彼女の暴走を止めてほしい。彼女は私の計画の中枢だ。いま失うのは、十年以上のロスになる。できれば避けたい」
なんでもないように言う。計画の中枢? 昨日聞いた話では、ただ人類が生き残るか否か、その程度の話だったと記憶しているが。
木児は拳を握り締め、口を結んで震えている。円子の言う『計画』がよほど大切なのか、あるいは久米方もがみという個人が大切なのか。ともあれ木児にとっては体を震わすほどの大事らしい。
「あの……」
俺はおずおずと手を挙げた。
「はい。少年」
円子が俺を指差す。
「そんで、俺らになにができると? あんたの言うことが正しいとして、この町を百数十年なかった豪雨が襲うとして、その規模の災害を俺たちでどうにかできると?」
きょとん。という擬音が、一瞬静寂を連れてきた。
「君は、話を聞いていたか?」
円子が呆れたように言う。
「誰が死のうが町が沈もうがどうでもいい。私が言っているのは『久米方もがみを生き残らせろ』。それだけだ」
……なるほど。解りやすくていい。
「べつに偽善者ぶるつもりはないけどよ」
俺は「個別に話がある」と引き留められた木児を残して、天と外に出た。
「その久米方もがみとかいうやつに、……ええと、死者九人だっけ? それだけのやつらを見殺しにしてまで救う価値があるのか、まだ疑問があるんだが」
ちらりと天を見遣る。俺と同じ中学の女子制服に身を包み、学校指定の鞄を両手で、自身の前に持ってきている。昨日と同じだ。
「…………」
なにをも答えない。これも昨日と同じ。
昨日一日こいつと行動を共にしてきて、こいつが発した《《文字数》》はおそらく十文字に届かない。寡黙というにもほどがある。
おっさんが言うには「あれは一種の強迫観念だ。好きで話さないわけじゃない」だそうだが、それにしてもやりすぎている。『人工生命体。試作Aタイプ。通称天ちゃん』と円子は言った。ということは、ほとんど話さない――いや、《《話せないように造られている》》、ということなのだろうか?
俺はスマートフォンを取り出し、時刻を確認。午前六時半を少し過ぎたところだ。この程度なら、集合をもっと遅らせてもよかっただろうに。俺は嘆息する。
「なあ、久米方もがみの通う学校。どこにあるか知ってるか?」
天を見遣る。一瞬視線を地面に向け、すぐ正面に戻す。頷くにも満たない、肯定の合図。その後、天は、踵を返して来た道を戻り始めた。「どうした?」問うころには、立ち止まり、赤信号の灯る横断歩道の前で佇んでいる。……なるほど。案内してくれると。俺は頭を掻いた。
坂を下り、上り、下り、上ったあたりに、その学校はあった。名前くらいは聞いたことがある。数年前に中高一貫になった学校だ。たしか全国大会にも出場した空手少女がいる学校である。そしてあの木児という男の着ていた制服と合致する。だが中等部と高等部では制服が微妙に違う。制服に造詣が深いわけではないが、木児の制服は高等部男子のそれだ。
スマートフォンで時刻を確認。午前七時ちょい。これだけ校舎に近付いても、まだ生徒はまばらだ。俺は学校近くにあった駄菓子屋の軒先に置かれている古ぼけたベンチに腰を降ろす。おそらく眼前にある通りは通学路だ。もしかしたら久米方もがみとやらが通るかもしれない。まだふたりくらいは座れるスペースがあったが、天は衛生上の問題を察知してか、立ったままだった。
いや、しかし、待て。俺は気付いた。そういえば俺は久米方もがみの容姿や特徴を知らない。見たところでそれを久米方もがみと判断するのは不可能に近い。向こうから名乗ってくれでもしない限り。
「なあ、おまえ久米方もがみの顔を知っているか?」
いちおう聞いてみた。天は角度として一度にも満たないほど顔を前傾し、目を閉じた。たぶん、否定の合図。
細く長く鼻から息を吐く。呆れと嘆息。自分自身に。危なげな錆が目立つ背もたれにもたれる。両腕も預ける。……そもそも円子の言うことがどれだけ信用できるのか解ったものではない。いや、そもそも俺は、円子の言葉を信じて行動しているわけでもなければ、言葉通りに久米方もがみを保護しに来たわけでもねえ。たぶん、暇なだけなんだ。
もう一度、息を吐く。空を見上げると、雨など降りそうもない好天気だ。たしかにわずかに昨日より雲は多い気はするが……。
「うん……?」
目端に異常を感じた。それは特別な異常ではない。ごくありふれた光景。そうだ、ひとりの人間が、ただ走っているような、それだけの映像。
「あさああぁぁぁぁああ!!」
その走行物は、なにかを叫んでいた。見てみるに、それは走っているというより逃げているような不格好だった。遮二無二という様相だ。不審にもほどがある。
その……おそらく女子中学生は、地平の彼方から瞬時に俺の眼前まで到達し、制御できない車体のように蛇行し、くるりと回り、進行方向を変更、こちらに向かってつっこんできた……!?
「お、おおおお?」
「つ、か、れ、たああぁぁ!!」
当然の反射神経で顔面を庇う俺だったが、むしろ気にすべきは後頭部であった。一瞬、重力を失った感覚。すぐに気付く。これは学校の椅子に座り、二足でバランスをとるときのあれだ。ベンチに座っていたことを再確認。重心を前へ。急ブレーキのような衝撃で、重力が回帰。……生きてる?
一通りの災害を乗り越え、落ち着く。心を落ち着ける。いまさらながら空気が湿っていることを汗とともに感じた。腕の隙間から外界を確認。世界が安定していたので、防御を解いた。そして、空いていたはずの右側を見た。そこにはさきほどの走っていた女子中学生が汗だくで座っていた。なにごともなかったかのように。
「おはようございます!」
なぜか笑顔で挨拶された。誰だ、おまえ。
「疲れた! お水ちょうだい!」
そいつは言った。水? 水なんか持ってねえ。
と思い、そいつの指先を辿ると、俺の手元を指しているようだった。ああ、いや、そういえば水を持っていた。円子の家でもらったミネラルウォーター。開封済みだが、まだ半分以上残っている。
「……口つけてるけど」
そいつに向けてかざすと、そいつは一瞬の躊躇もなく俺からペットボトルを奪い取った。喉を鳴らして飲む。飲み干す。遠慮のないやつだ。
「ごちそうさま!」
と、ペットボトルを俺に返そうとする。いや、いらねえ。
俺が無反応でいると悟ってくれたのか、「じゃあ私が捨てとく!」と腕を引っ込めた。
「おまえ、あの学校の生徒か?」
俺は久米方もがみとやらが通っているはずの学校を指差し言った。
「うん! 久米方もがみ! 中学三年生!」
「ふうん。久米方もがみね……」
俺はそいつを二度見した。久米方もがみ?
「じゃ! 私行かなきゃ! いま競走中!」
疾風のごとく久米方は走って行った。夢か幻か? と思ったけれど、いまになって後頭部が痛んだ。どうやらさっき、ベンチ裏の壁にぶつけたらしい。
これが偶然なのか、必然なのか。それはまだ解らない。いつかなんらかの結果が出るまでは。
脱力した。だから久米方が現れる前の体勢に戻る。背もたれにもたれる。腕ごと。
すると、天が隣に座った。さきほどまで久米方がいた場所に。臀部の半分しか預けないような、浅い座り方で。
「もしかして、おまえ久米方もがみが来ること解ってたんじゃねえだろうな」
「…………」
相変わらずなにも答えなかったが、わずかに口角があがった気がした。俺の被害妄想かもしれない程度ではあったが。
通りは賑わい出していた。時刻は七時半を過ぎている。もしも俺が本日学校へ行くというつもりなら、そろそろ向かった方がいいだろう。だが、なんだかそんな気分ではなかった。二日続けてになるが、本日はサボりだ。
それに、もし久米方もがみを保護するなら、どうせ学校へは行けない。俺の学校からこちらの高台に来るには低地を経由しなければならない。その低地が被害に合い、通行ができないほどになるのかは解らないが、最初からこちらにいるに越したことはないだろう。……円子の言うことに従うかはまだ決めかねてはいるが。だが、どうせ暇なのだ。他にやることがないというなら、誰かのためになることをするのは理に適っている気がした。その『誰か』というのが、たとえ理紫谷円子個人のみであったとしてもだ。
だが、いつ起きるか解らない事象を待つというのもたいがい暇だ。せめて隣に座る女子が、もうすこしだけでいいから会話を成り立たせてくれればましなのだが。……というかこいつはこいつで、なぜ俺についているのだろう? ただ、円子の言う通り、久米方もがみを保護する、それだけのためにここにいるだけかもしれないけれど。
思いながら天を見つめていると、その奥から誰かが姿を現した。
「君は……」
「よう。木児……だっけ?」
そうだ。木児だ。今朝あの家で会った。
俺は片手を挙げてコミュニケーションをとる。天はなんの反応も示さなかった。
「ああ。鵐木児、という。君は?」
「あー、俺は――」
どう名乗ろうか一瞬迷う。だが、円子に偽名を名乗った以上、その関係者にはそれを通した方が無難だろう。そもそも俺は、自分の本名が好きじゃねえ。
「平内真」
言うと、天がこちらに詰めてきた。俺は傲岸不遜な座り方を正す。天と肩が当たった。天の奥の空いたスペースに、木児が座る。
「君は久米方もがみを知っているのか?」
木児が言った。
「知らねえ。だが知ってる」
いまさっき会った。と言うと、木児は逡巡してから、すこし笑った。
「そうか。またひとり、あいつに出会ってしまったか」
「変なやつだったよ」
「そうだな」
今度は正しいタイミングで笑う。思っていたよりもよく笑うやつだ。
「今日、あいつを保護する。……まあ目的はいい。簡潔だしな。だが、円子の言っていた……予言っつーのか、あれは、あてになるのか?」
「問題ない」
木児は即答した。
「嘘や冗談でない限り、彼女の言うことはまず外れない。本人は九十七パーセントと言っていたが、あれは謙遜だ」
恐ろしいほどの信頼だった。理由は解らねえけど、ここまで言うならとりあえず信じておいていいだろう。べつに損するわけでもねえ。
しかしそうだ。いろいろ他の点で疑問がある。俺は時刻を確認。午前八時前。……これからその疑問を解消するには、木児の遅刻を確定させなきゃならねえ。
「時間、大丈夫か?」
「問題ない」
これも即答だった。
「我が校には特待生制度というのがある。部活動で類稀なる成績を収めた者に与えられる特権。具体的には、定期テストで赤点を免れている限り、対象の生徒は授業を免除され、進学・卒業できる」
「うらやましい制度だな」
つまり、木児は特待生ということか。ならば時間は大丈夫。
だからといって俺に付き合う義理はないのだろうけれど、やつが立ち去るまでは疑問を投げかけてもいいだろう。
俺は再度、居住まいを正す。
「あの理紫谷円子ってのは、いったい何者なんだ?」
「自称妄言師だ。親の遺産で金が腐るほどある。だから机上の空論をただ吐いて生きている」
抽象的な俺の問いに、まさしく妄言のような答えが返ってきた。
「だが、彼女は頭が良すぎた。人類史上類を見ないほどに。彼女の妄言は、最先端科学のさらに百年先を行っている」
「それも自称か?」
「これは思地……先生の言葉だ」
「思地?」
「あの場にいた、気だるげなおっさんだ」
言葉を理解しながら心でもうひとつ疑問を解消する。『先生』。たぶん、あの思地というおっさんは木児の学校の教師なのだろう。
「政府にも追われるほどの天才だ。彼女の妄言の一端でも手に入れれば、日本は世界を征服さえできるだろう」
「おっかねえ話だ」
なんだか本当に妄言じみてきた。円子の、ではなく、こいつの。
「じゃあなんでまだ、日本はこんななんだ? 世界征服どころかアメリカの言いなりじゃねえか」
「理解できないからだ。俺があの家に出入りし始めてから二年ほど経つが、その間も十回ほど、政府のガサ入れがあった。そして多くの妄言を持って行かれた。……だがそれは、妄言過ぎて理紫谷以外には読み解けない。奪われた文書はいまだに政府の研究機関で、俺たちでも知っているほどの高名な学者が、日夜研究しているはずだ」
ああ、これは理紫谷の自称だ。木児は言った。
「じゃあ、円子を無理矢理引っ張って、協力させればいいじゃねえか。たしかにそれは非人道的だが、ガサ入れの時点で法は犯してんだろ」
「無理だ。理紫谷はあの部屋から出られない」
一度、言葉を止める。すこしだけ言いあぐねているようだった。
「……理紫谷の五感は、鋭敏すぎるんだ。視覚はあの部屋にいながらに空を見通し、天気予報ができるくらいに。聴覚はドアふたつ隔てていようがまったく問題にもならないほどに。味覚、嗅覚が優れ過ぎて、まっとうな食事も採れない。触覚が過敏で、特別に製造された素材の服しか着れない。あの部屋の紙やペンも特注。他人に触るなんてもっての外だ」
「ああ……」
すこしだけ思い当たる節があった。それは今朝のこともそうだ。おっさんは言った。『あの部屋への持ち込みは禁止』。円子自身が飲食するわけでなくとも、同じ空間に異物があるだけで影響があるのだろう。……だとしたら、『俺たち』という異分子が入ることも相当に影響がありそうだが、それくらいなら大丈夫なのか?
だが、きっとなんの対策もなく外に放り出されたら生命が危険なのだろうということは、なんとなく理解できた。
「大変そうだな。すごすぎるってのも」
木児のどの言葉をとっても、やはり妄言のようだった。しかし、擦り合わせていくと、いちおう筋は通っているように思う。
そういうことがあったとしても、絶対におかしいとまでは言えない。
「さて、そろそろ疑問は解消されたか?」
木児は言う。まあ、一通り解消された気はする。……ああ、ひとつだけ、まだ気になることがあった。
「ところであいつ何歳なんだ?」
木児を見ると、間に挟まれた天の顔も視界に入った。その顔がすこしだけ、歪んだ気がした。
「……女性の年齢を言うのもなんだが」
木児は言葉を一度切った。まあ言うことはごもっともなんだがな。
「自称三十六歳だ。小人症らしい」
小人症。……低身長症か。なるほど、氷解した。
「もういいか? 俺はそろそろ学校へ行こうと思う。今日は久米方もがみについていようと思うのでな」
木児は立ち上がる。すこし両肩をあげて、体を伸ばしていた。
「ところで平内。おまえはどうする?」
振り返り、木児は俺に言った。
俺は考える。空を見上げる。すると見計らっていたようなタイミングで、雨が降り始めた。
「まあ、暇だしな」
言うと、木児は前を向き、歩き出した。後ろ手に片手を挙げる。だから俺も、片手を挙げておいた。見ると、天が俺を見つめていた。……なんだよ?
駄菓子屋の軒先には屋根があって助かった。それでもすこし足りない足元を気にして座ることにはなった。いつのまにか爪先に湿度を感じるようになっている。気付いたときにはもう遅い。
雨足は徐々に、確実に強くなっていった。それでもまだ、豪雨と言うには物足りない。
午前九時頃だ。隣を見遣ると、変わらぬ姿勢で天が座っている。木児がいなくなってからも天は、まだ肩の触れる位置にいた。すこしばかり窮屈だがわざわざずれてもらうほどではない。
なにかを話そうかと思ったが、どうせひとり言と変わらない結果になるのは目に見えていた。だからなにかを言う気になれない。だから、俺は黙して黙々と、考えを巡らす。木児から聞いた円子の話と、昨日円子から聞いた話を照合する。擦り合わせて、せめて自分が納得できるだけの理由にしたかった。それが事実とは違っていたとしても。
集中するために、目を閉じる。
昨日のことを、思い返す。
*
昨日。七月二日のこと。俺がひょんなことから気だるげなおっさんを手伝い、出会った少女――いや、実年齢を知ったいまでは女性と言うべきか、ともかくその女性の話。女性の話した言葉。天が姿を現した、あの後からの話。
「技術的特異点」
円子はそう切り出した。
そしてすぐに詰まる。おっさんに目配せ。おっさんは言った。「シンギュラリティ」。
「そう、シンギュラリティ。知能の爆発」
「なんだそりゃ」
「我々はすでに、多くのことを機械に代行してもらっている。あー、いまならなにがある?」
円子はまたおっさんを見た。そこからはおっさんが代行する。
「そうだな、現代なら。車の自動運転。プロ棋士を凌駕する将棋や囲碁の人工知能。あと多いのは医療分野だな。細胞の画像解析など、細かい部分を根気よく確認する作業は、いくら注意深くやっても人間には限界もあるし、ミスも犯す。まあ、そんな最先端でなくとも、部屋の照明は火起しの代行。冷蔵庫は保存行為の代行。洗濯器なんてまんま、洗濯の代行だしな」
「その通り。現代社会で生きている以上、我々は数多くの行為を機械に代行してもらっている」
ほとんどはおっさんが話したというのに、円子が胸を張って言った。
「では、次の代行は?」
円子は天を指差す。天はなにごとも答えなかった。いかなる反応すら示していないように見えた。電源入ってねえのかな? と、俺は本気で思った。
「君はどう思う?」
次いで俺に指先を向ける。
「そうだな……」
俺は考える。だが言われてみればすでに多くのことを機械に頼っている気がした。これ以上なにを代行してもらおうというのか、人類は。
「難しく考えなくていい。日常で面倒だと思うことがあるだろう? それをやってもらえばいい」
「家事とか?」
「そう。家事代行ロボット。いいじゃないか」
「そういうのも出始めてる。特に一時期流行ったろ、お掃除ロボット」
おっさんが言う。
「あとは来年には実用化されそうだが、洗濯や整理整頓なども行ってくれるロボットが開発されてる。まあまだ、そのロボットを人間が遠隔操作して動かすタイプだが」
「なるほど、時代は進むねえ。じゃあどうだ? 次は」
円子が再度、俺を指した。
俺は考える。ここでまだ家事の中で解決されていない『料理』などを挙げるのは芸がない。
「もっと究極的に考えてみろ。これだけやってもらえば、すべて解決すること」
おっさんが言う。その言い方は俺からなにかを引き出そうとするようで癪だった。
究極的に? たったひとつ? そんな魔法のような代行があれば、すでに世界はいまより一回りも二回りも便利になっている気がしてならない。
「発想を柔軟にしたまえ。そう、君がいましていることだ。それを機械にやらせよう」
円子も追い打ちをかけてくる。
俺がいましていること? 立っていること。呼吸していること。生体活動。だがこれは捉え方次第ですでに代行されている。電動車椅子。人工呼吸器。諸々の医療機器。……たしかに考えてみると、私生活より医療の世界の方が機械の恩恵は強そうである。
……《《考えてみると》》?
「……思考か?」
言うと、円子とおっさんが目を見合わせて笑った。「ご明察」。
「そうだ、機械に考えてもらう。これだけ時間がかかるし疲れること、機械に丸投げすればいい。機械が考え、また次世代の機械を造る。次世代の機械はまた考え、次々世代の機械を造る。……これが永遠に続く。すぐに人類の手の届かない領域にまで達する。無限に技術が向上する。その無限の始まりが、技術的特異点――知能の爆発と言われる所以だ」
「だが、いったいどうやって、その無限の始まりとやらを造るんだ? 機械に考えてもらうっていう段階をどう克服する?」
それは俺には、はてしなく無理に感ぜられた。
「人間が徒党を組むのはなぜだ?」
俺の質問は跳ね除けられ、べつの質問がかけられる。
「そりゃ、ひとりじゃできねえことをするためじゃねえか? 瞬間的な爆発力にしろ、継続的な持続力にしろ」
「そうだ。だから、それを参考にする」
「?」
「脳髄を造る。考えているのは脳だからね。だが、脳の機能は多種多様だ。いきなりそれらすべてを兼ね備えた完璧な脳は造れない。だから役割を分けて、それぞれを制作。そして最後に束ねる。そして完成された脳髄を、別途作成した、人間のように精緻に動ける肉体に搭載する。機械生命体の完成だ」
「俺は機械工学っつーのか、そっちの知識はからっきしだけどよ。映画くらい見るぜ? たいていそういう、近未来的な話にゃ落とし穴があって、……この場合は、機械が自我を持って人類を滅ぼすのがオチだろう。……いやまて、その『自我』ってのを与えなければいいのか?」
「違う。自我は必要だ。すくなくとも人類が生きていくためにはね」
「自我がないと『自分本位』って考え方ができなくなるだろ?」
円子の言葉をおっさんが引き継いだ。
「すると、損得を世界基準で考えちまう。そしたらまずいらなくなるのが人類だ。人間がどれだけ地球を汚染・破壊してると思ってる? 地球温暖化も、種の絶滅も、資源の枯渇も。すべて人間が引き金だ。自我がなければ、人類は滅ぼしましょう。これ全会一致だ。だが自我があれば、個体数の増加とともに、人類が生きていてもいいのではないかと唱える個体が必ず出てくる」
「だが、それでも確実じゃねえ。ならやっぱり機械の反乱ってのは十分起こり得るんじゃねえか?」
「もちろん起こり得る。そのリスクは否定しきれない」
だから。と、円子は言う。いたずらっぽく笑って。
「人類と話し合いができる個体を製造する。機械文明の弱点は、人間と違って、《《トップが死なない》》ということだ」
この言葉の意味は、まだ解らない。ただこの日、円子は最後にもうひとつ、解らないことを言った。それは直前の言葉の言い換えだったのだろう。だが、言い換えられても解らない。
「我々で、次時代の神を産むのだ」
*
右半身が痺れて、俺は目を覚ました。……寝ていたのか?
右を見ると、やけに近いところに天の顔があった。その至近距離でまっすぐ俺を直視している。
「おまえ、なんかした?」
なんだか右耳がむず痒い。痺れの正体はこれか? 俺は右耳を触ってみる。特に変わった様子ではなかったのでいったん安堵しておく。
天は俺の言葉に視線を下げるだけで反応した。どういう意味かは解らない。だが、たぶんなんかされたんだろうと思う。
スマートフォンを確認。もう正午を過ぎていた。想起してみるにだいぶ寝ていたらしい。雨は大丈夫だろうか?
空を見上げる。雨足はさらに加速しているようで、これはたしかに、豪雨と表現してしかるべきものだった。風も強い。この高台は海が近かったはずである。円子は津波についても言及していたはずだ。確認に行くべきだろうか?
そう思って周囲を見渡すと、俺が気付くより一瞬早く、天が指をさした。
「おいおい。……マジか」
その方角には、たしかに海があるはずだ。俺がこの高台に来るのとは逆方向の坂道。その始点があるあたり。目の錯覚だろうかという考えは早々に捨てた。俺はそちらに向かう。走る。土砂降りに叩かれ、数歩で全身がびしょ濡れだ。
約百メートルほどだろうか。坂道の上にまで到達した。ガードレールを掴む。その俺の眼前に、飛沫があがった。
見ると、海沿いにあるこの坂は、この高台をぐるりと巡って下りていくらしい。高台を鳥瞰して見たとき、円形に近い形になるはずだが、その円周の四分の一ほどを緩やかに巡るカーブだ。その坂道をいくらか覆い隠すほどの高さに、水位が迫って来ていた。いま現在、この道は車でも通行できないだろう。幸い、消防署はこの高台にあるはずだが、この事態の深刻さを払拭するにはその情報はあまりにか弱い。
海であるらしい地平を見る。押し寄せるたびにこの高台を削り取っているような津波は、わずかな飛沫を高台の上にまで押し上げ、定期的に俺の顔を濡らした。これが雨じゃないことは塩辛さで解る。だがこれが夢じゃないことは、頬をつねっても解らなかった。
「あ、あ、あ、あ、ああああぁぁぁぁ!!」
いつの間に、こいつは隣にいたのだろう? 久米方もがみは、いつからここに?
制服を乱し、その両肩をそれぞれ、べつの女子生徒に掴まれながらも、ほとんど退かずに前進しようとしている。坂を下ろうとしている。
「なにやってんだてめえ!」
俺もつい、正面から久米方の両肩を掴んだ。掴んで、押し戻そうとした。だが、押し返せない。これ以上進ませないのが精いっぱいだ。
「――!! ――!! ――――!!」
すでに声ですらないようななにかを叫んで、やはり前進しようとする。津波の飛沫とはまた違う塩辛さが、俺の額を流れた。
「誰か知らんが、そのまま頼む」
「おれらだけじゃ、引きずられちまうんだ。じわじわと」
久米方もがみの後ろのふたりが言う。言われなくても精いっぱいやっている。
「おい! こいつどうなってんだ? なんでこうまでして、進もうとする?」
「わっかんないけど、たぶん、誰かを助けに行こうとしてる!」
左の女子が言う。
「誰かって誰だよ! 家族とかか?」
「いや、きっと親族はみな無事だ! もがみの家は高台にあるから」
右の女子が言う。
「じゃあなにか? こいつは自分とさほど関係ないやつのために、死のうとしてるって?」
「関係なくない!!」
久米方もがみが言う。
「舞島のおじさんはいつもいってらっしゃいって言ってくれるの! 朝人さんと道花さんのふたりは新婚さんで、見てるだけで幸せな気持ちにしてくれるの! 生崎くんとまばらちゃんの家はあのあたり! 羽木のおばあちゃんもよく散歩してて――」
「解った俺が悪かった!」
叫ぶたびに力が強くなってる気がする。これを火事場の馬鹿力というなら、こいつにとって本当に大切なのだろう。だからそんなやつの気持ちなど解ろうはずがない。この町すべてを――どころか世界すべてを、平等に愛している人間の気持ちなんてな。
今朝円子が言っていたのはこういうことか。「彼女の『暴走』を止めてほしい」。くそ! 木児はなにやってんだ!?
ただただ精いっぱい久米方もがみの体を押していた。豪雨とへばりついた自身の毛髪、それらに視界を遮られていた。風雨と津波、そして遠雷の音に耳もうまく機能しない。だから突然力が抜けたとき、もしかして落ちているのではないかと頭を庇った。見ると俺は地面に倒れていて、その横には久米方もがみも倒れていた。他にふたりいた女子は、片方が久米方の両肩を抑え、もう片方が久米方に馬乗りしている状況だった。
久米方もがみが、一瞬力を抜いた。思い返してみるに、そういうところだった。
「いいかげんにしろ! もがみ! こんなんあたしたちがどうこうできることじゃないだろ!」
馬乗りした女子が言う。津波でも汗でもない塩分を流していることは、この豪雨の中でもよく解った。
「この世にはね、がんばってもどうしようもないことがあるんだ! いいかげん解れよ! もがみがいなくなったら悲しむ人がいるんだから……自分を粗末にするの、もうやめてくれ!」
語気は荒かったが、その声は徐々にしぼんでいった。その馬乗りした女子は手を振り上げ、やがて力なく降ろした。
「こんなこと言っても、解らないだろうけど」
「ううん。解った」
絞り出すように続く言葉に、久米方もがみは答えた。とても冷たい声音で。
「解ったよ、傘ちゃん。もう大丈夫。冷静になったから、どいてくれないかな」
「解ったって……久米方もがみ?」
両肩を抑えている女子が言う。
「美々実ちゃんも、もういいから。大丈夫だから。離してくれない?」
「え? ……ああ」
美々実と呼ばれた女子は離した。困惑しているようである。
いや、俺だって困惑している。いくら付き合いが短い俺でさえ、久米方もがみの切り替えはおかしいと感じる。
「ほら、傘ちゃんも。もう大丈夫だから」
「いや、でも……」
「どけって言ってんの」
その言葉には迫力があった。声自体は小さく、雨音に掻き消されるほどだったのに、さきほどまでの叫びよりよっぽど。だから、弾かれたように傘と呼ばれた女子は離れた。
世界が静寂する。久米方もがみが立ち上がる。そしてそのまま、坂道を侵食する水位に向かって歩く。誰もなにも言わなかった。だが、俺はかろうじて、久米方の手を掴むことができた。久米方もがみは一瞬だけ足を止めたが、すぐにまた歩き出した。俺の手を振りほどこうともせず、むしろ優しく誘うように歩を重ねる。
ああ、これだけ静かになれば、俺にも気付けた。
久米方もがみはくるぶしまで水に浸る位置で立ち止まり、指をさす。
「助けなきゃ」
久米方もがみは現実と幻想にちゃんと線を引いていた。区別をしていた。自分にできることなどたかが知れているし、この世界――この小さな町ひとつでさえも、満足に守ることなどできやしないと、ちゃんと解っていた。だがそれでも、動かずにはいられなかったのだろう。どうしようもできないことを、どうしようもできなかったと諦めるのは、それからでもいいと。決して自分を粗末になどしてはいない。その証拠に、冷静だ。ただの日常をあれだけ全力で駆け回れる少女が、いたって冷静だ。こんな、非日常の中で。すべきこと、考えるべきことがあるから。
坂道の下にある、家屋だろう。町の中でもかなり海抜は低いはずだ。そのうえ、海の真ん前。下手をしたら今回の嵐でもっとも被害の大きい場所のひとつと言えるかもしれない。
その屋根の上に、人間がいる。というのも、どういう人間なのか、判別が難しい。ただその人間は叫んでいて、両手を振っていて、助けを求めている。
特別距離として遠いというほどでもないが、いかんせん視界が悪い。声の感じ、まだ若い。言葉遣いから鑑みるに幼いということはない。おそらく成人している、女性。解るのはそれくらいだ。
水位は二階の窓にまで達している。だから避難のために屋根に上がった。だが、荒れ過ぎている。水泳に慣れたものですらこの荒れた水の中を泳ぐのは至難だろう。
「お願い。助けて」
久米方もがみは、きっと俺にしか聞こえない声で言った。掴んでいる手が、強く握られる。
「お願い! 助けて!」
我に返るのに時間を要したからか、わずかに遅れて追いついてきた仲間に叫んだ。
「助けてって、言っても」
追いついて、見て、理解して、傘は言った。「いくらあたしでも、こんなに荒れてちゃ……」。
「そうだ! レスキュー隊!」
美々実が言う。そうだ、消防署があるはずだ。距離的に考えても、到着までそう時間はかかるまい。「誰か、スマホ持ってる?」そんなこと言われる前に、俺は電話していた。が、呼び出し音すらならない。俺はすぐに悟った。「だめだ! 無線基地局がやられてる!」。
するとなにをも言う前に、美々実が走り出した。この丘の上にあるはずの消防署へ行く気だろう。おそらくこの嵐でほとんど出払ってはいるだろうが、まだ人員が残っている可能性も高い。なんといっても、俺たちの眼前にある坂道がこのありさまだ。この丘にあがるにはみっつルートがあるが、どれも機能していない可能性が高い。つまり、ある意味現在、この丘は海に浮いた孤島のようなものだ。
俺は瞬間、胸を撫で下ろした。おそらく交通麻痺で消防署に人員がいる。この推理が考えるほど的を得ている気がしたからだ。
「気を抜かないで、考えて」
久米方もがみが言った。見ると、なにひとつ安堵などしていない表情で、そいつは考えていた。視線が、いろんな方向を行ったり来たりしている。ぼそぼそと、俺に向けた言葉よりさらに小さな言葉で、呟いてもいる。所在無げに手を動かしたり、唇を噛み締める、地団太を踏む。人の目もはばからずに、とにかく彼女は、思考していた。
強くなったり、弱くなったり、その時々の思考に左右されているのか、それでも握られたままの手から、心が流れ込んでくるようだった。だから、俺も考える。
直線距離で二十メートルといったところ。嵐で荒れている。ぎりぎりまで近付けるとしても、腰までつかるのも危ういだろう。対象家屋の位置は、坂道の付け根。ちょうど丘に接している場所だ。ならば、丘の上から引っ張り上げるのはどうだ? いや、すくなくともそれは俺たちにはできない。丘の高さは五十メートルを超えているだろう。途中で落ちたら生命にかかわる。なんの知識も技術もない素人ができることじゃない。そもそもそんな長いロープがねえ。……ロープ?
ロープを使った、別の方法を思いついた。五十メートルもいらない、二十メートルでいい。二十メートルならなんとか調達できないか?
思って見渡したが、足りなかった。俺と久米方もがみ、そして傘しかいねえ。……あ、あと忘れてた。天もいるんだった。俺は振り返って確認した。だが足りねえ。《《四人じゃ足りねえ》》。
と、よく見ると、視界には人影が六つ、確認できた。視界が悪い。錯覚だと思った。だが、声が現実だと教えてくれる。
「悪い! 遅れた!」
木児の声。そしてその隣には木児とどことなく似ている男子。だが別人だ、ちゃんとふたりいる、錯覚じゃねえ。
「待たせたな! 走ってきたぜ!」
美々実が言う。ちゃんと消防やレスキューを呼べただろうか? とりあえず、この場にはまだ到着していないようだが。
俺は隣を見る。久米方もがみを。
久米方もがみも俺を見る。目が合う。すると彼女は力強く微笑んで、自身のシャツのボタンをひとつ外した。
「待て。届かねえ」
だから俺は制止する。久米方もがみも同じ思考をしていたのかもしれない。だが、足りない。
「《《八人分の衣服じゃ》》、《《繋ぎ合わせてもあそこまでは届かねえ》》」
そうだ。まだ足りない。いや、言葉としては語弊がある。八人分でもなんとかなったかもしれない。もしもこの場の人間が全員男なら。問題は女子のスカートだ。それは男子のズボンと比べて短すぎる。だから女子の衣服は男子の衣服の半分くらいの長さにしかならないだろう。そう考えると、まず無理だ。そもそも結び目の分だけさらに短くなるし、家屋までの距離が二十メートルというのも楽観的観測だ。そして仮にロープが用意できたとして、この方法も危険じゃないとは言えない。
「美々実が戻ってきたんだ。すぐに救助が来るだろう。もう大丈夫だ」
「ロープ持ってきたぜー!」
木児たちとともに、美々実も坂を下って来て、嬉しそうに言いやがった。
……消防は? レスキューは?
端的に言うと、振り出しに戻った。
美々実が言うには、消防は出払っていたらしい。だからロープだけ借りてきたと。
「だけとは失礼だな。他にもいろいろくすねてきた。ハンマーとか」
美々実はそう言って、いろいろ取り出した。たぶんレスキューの道具が一式入っているのだろう。だが、もう他の救助方法を考えている時間はない。
消防が出払っているということは、その救援を期待するのがもう絶望的ということだ。すくなくとも、嵐が過ぎるまでは。なぜなら、消防は、おそらく道が封鎖される前に丘を下り、どこかへ出動したということ。だったら、逆に締め出された形になっている。道が通行できるまで水が引かなきゃ、やつらは戻ってこれない。
「問題は、誰が行くかだ」
俺は全員を集めて説明した。
誰かひとりがロープを体に結び、救助に行く。反対側は残った者たちでしっかり掴む。そして被救助者のもとに着いたら、被救助者もろともロープを体に結び直す。あとは全員で引けばいい。また、救助に向かう者が途中で溺れかけても、こちらでロープを引けば流されずに済む。危険はあるが、十分救助できる可能性はある。
「あたしが行く」
言ったのは傘だった。
「たぶんあたしが一番、泳ぎがうまいだろうから」
不安げな顔ではあったが、自信はあるように見受けられた。
「いや、とはいえ、女性に行かせるわけにも」
木児が言う。もっともな意見だったが、たぶん解っていた。
俺は自慢じゃねえが運動音痴だ。木児も、もうひとりいた、木児に似ている男子も、すくなくとも運動のできそうな体つきには見えねえ。また、自信があるようにも見えねえ。客観的に見て「こいつらじゃ無理だ」と俺でも解る。
「兄貴」
もうひとりの男子が言った。そうか。木児の弟なのか。俺は納得する。
「あれを使おう」
目配せした。
その先には、なぜか俺たちから一歩距離を置いて、我関せず、といった様子のふたりがいた。……いや、二機と言うべきか? 片方は天。そしてもう片方は――
「《《自律型アンドロイド》》。《《試作初号機》》」
あの白い部屋で、あの超越的態度の幼女(失礼。女性だったな)が言うなら、まだ説得力がある。だが、その場所に出入りしているとはいえ、一介の男子高校生が言うには、やや頓狂だ。それが冗談でないというのだから、ますます滑稽だ。
だがその姿を見るに、性能については棚上げするにしても、存在自体は疑うべくもない。そう思った。
青白い機体。ところどころ透明で、その内側を覗かせる。そこに敷き詰められた数多のコード。電線。骨組。『試作』というのがよく解る。同じ『試作』でも天とは大違いだ。ただ機能のみを確認するための造り。自律する、人間型の機械。最終的には人と同じ肌の色をして、人間と区別がつかなくなるようにするのだろうが、『試作』である以上、外形はこれでいいのだろう。
「葉太――弟が造った。そしてそれを動かすプログラムを俺が組んだ」
ただロープを握るだけだから、思考に余裕ができたのだろう。木児は話し続けていた。
「我が家は特殊でな。両親ともに頭の螺子が飛んだ科学者・技術者だから。俺たちも幼少期から、いろいろ仕込まれている」
「それであんなものが造れるっつーんだから、よっぽどだったんだろうな」
俺は相槌をうった。
「たいしたものでもない。……自律型。と言ったが、まだそのレベルではないし。単純な命令を与えてやればその通り動く。……喋れもしないしな」
「だが、今回こうして役に立った。十分すげえじゃねえか」
本気でそう思う。泳ぐ機能もプログラム済み。肉体にも浮く機能が仕込まれているとはいえ、あの荒波に流されず、目的地に向かっている。
目的地にいる相手には連絡済みだ。古典的手法――つまり大声で。誰のって? 久米方もがみに決まっているだろう?
いまからそちらに救助ロボットが行きます。ロボットはロープを結び直したりできないのでそれはあなたでお願いします。こちらからロープを引き上げるので心配せず、ロボットに身を任せてください。そんな感じだ。
そして、アンドロイドは目的地に着いた。被救助者とともに、再度水中へ入る。
ここからは俺たちの仕事だ。アンドロイドが泳ぐと、関節部分の隙間に被救助者の肉体が挟まる場合がある。だからアンドロイドはほとんど泳げない。浮く動作だけを命じてある。せーの。と連続してかけ声を叫ぶ。それに合わせて少しずつ、手繰り寄せる。見ている感じ、アンドロイドはちゃんと浮いている。アンドロイドの背に隠れてよくは見えないが、被救助者も特段に怯えている様子はない。思いの外、安定している様子だ。
何十度目かの「せーの」のあと、先頭にいる傘が言った。「もう、大丈夫だ!」。どうやらアンドロイドが足をつけたらしい。とはいえ、まだ荒れている。波にのまれることもある。ロープを離すわけにはいかない。じわじわと、アンドロイドが歩いて来る。そして水位が膝くらいになったあたりで、被救助者が待ちきれず(あと歩きにくかったのだろう)ロープを解き、走ってきた。ありがとうございます。ありがとうございます。繰り返す。俺は達成感よりも、アンドロイドのすごさに心惹かれていた。
被救助者は美々実に連れられ学校へ。木児と葉太がアンドロイドを気にしてそばに寄るので俺も後から追って――
「危ねえ!!」
そのとき見た光景が、目に焼き付いて離れない。
俺が叫んだ理由。それは、波だった。津波だ。とびきりでけえ。それが、アンドロイドと木児と葉太を飲み込むところだった。死の間際は世界がゆっくりに見える。そう聞いていたが、そんな感じだった。いや、どちらかというと、これも火事場の馬鹿力だ。体ではなく、脳が馬鹿力を発揮して、あらゆる情報を受信・解析しているのだろう。
津波に飲まれるのは、先に言った三人。いや、ふたりと一機。あとに続こうとした俺が多少危ないが、おそらく飲まれはしない。そのすこし後ろに久米方もがみ。さらに後ろに傘。そしてもっとはるかに後ろに、天がいた。だから危ないのは俺より前にいるふたりと一機だけだった。
そして、飲まれる。一番背の高い木児の髪の毛に、波が触れる瞬間。その瞬間を写真のように鮮明に覚えている。そしてその直後、ふたりが吹っ飛んでくるのも、アンドロイドが波に消えるのも、その消えた手を掴もうと、ふたつの手が伸びたことも。そのまま引きずられて、ガードレールに体をぶつけたのも、隣を見たら久米方もがみと目が合ったことも、全部鮮明に、覚えている。
「重……。普段なに食ってんだよ!」
洒落を言ってみる。そうでもしねえと気が抜けちまいそうだった。
手の先にいるアンドロイドは答えない。ああ、そういえば、木児が「喋る機能はない」って言っていたっけ?
「これ、たぶん波に引っ張られてるね。彼女の体重じゃないよ」
久米方もがみが言った。そんなことは解っている。ガードレールの下は、崖じゃなくていまは荒れた海の中だ。どちらの方が幸運であったかは考えても詮無きことだが。
「つーか、彼女?」
どうでもいいことだったが、なにか話していないと意識が持って行かれそうな気がした。どちらかというと腕にかかる負荷、ガードレールの圧迫感で苦しくて、意識なんて飛ばせる環境ではなかったが。
「え? 女の子でしょ? この子」
久米方もがみは言う。なんでもなさそうに。
「いや、べつに性別はない」
木児が俺の後ろで言った。木児と葉太は俺。傘と天は久米方もがみを支えてくれている。それでも、アンドロイドが上がらない。
「というか、上がらないなら離していい。べつに僕は気にしないから」
葉太が言った。最初はなにを言っているのか、本当に解らなかった。
「はあ?」と俺が言う。
「ええ?」と久米方もがみが言う。
それは同時だった。
「「見殺しにはできない!!」」
アンドロイドは、なにも言わなかった。
木児が言うには、表情すら作れないはず、なのだそうだ。
だけど、俺は見た。
俺と久米方もがみは見ている。
感じている。
アンドロイドは、俺たちの手を離す直前、たしかに笑った。
笑って言った。
『ありがとう』




